餓狼
序章 網走の闇勇者
明治二十四年 十二月五日夕刻 大雪山白滝
1
間違っている。
網走分監看守、奉野萩之進はそう思わずにはいられない。
凍てすさぶ風が肌身に与えるのは寒さではなく、限りない痛みの連鎖だった。蝦夷は人間の住むところではないと、冬が訪れるたびに脳が訴えかけてくる。
囚人らの纏う朱色の獄衣はとうの昔に元の色を失い、降りしきる雪と同化した。
彼らに声はなく、凍傷のためにパンパンに膨れ上がった手足を小刻みに揺らしながらも作業を止めることは許されない。
奉野を含めた看守たちのしゃがれ切った激励だけが、虚しく吹雪に吸い込められる。
その中で、先程から意識がふらついている囚人がいた。
狂った薄ら笑いを浮かべながら大木の切り株をモッコ(囚人籠)に入れ担いで運んでいた彼は、あまりに深く白い大地に足を取られ、転んだ。
痩せ切った囚人の体は、瞬く間に雪の中に埋まる。
「立て」、とすぐそばにいた看守が命令したが、囚人は動かない。
意識を失ったまま、不気味に痙攣を繰り返している。
看守は気怠そうに、もう体の半分が雪に埋もれている彼の身に雪を掛けた。
痛みが無感覚になった者から順に死んでゆく、日常茶飯事の光景だ。
その横で落ち着きのない様子の囚徒がいた。
そこで看守はようやく足鎖(囚人の逃亡を防ぐために、二人一組で足を鎖で繋ぎながら労役を課していた)の存在を思い出す。
看守は言葉もかけずに、雑な手つきで彼の鎖を外した。組の変更である。
しかし動作が余りにも注意に欠けていた。
鎖が外れた瞬間、立ち尽くすだけであった囚人は、どこから力が湧いてきたのか、身を翻して走った。
逃亡だ。
「待て!」
注意不足だった看守は急激に力の籠った声を上げ、抜刀した。
もし労役中に囚人が逃走し、その日のうちに捕らえることが出来なかった折には、俸給を没収される上に半年間投獄されることになる。高々月給七円程度の看守たちにとって、それは生活に関わる致命的な処置だった。
サーベルを握りしめ、真っ白に染まった編傘を身に着ける看守の目は多分に漏れず血走っており、囚人を捉えるのに必死だ。
幸いなことに囚人には逃げ切るだけの体力は残っておらず、一歩進むごとに深く嵌る大地に力を吸い切られたようで、二十メートルも行かぬうちに倒れこんだ。追いついた看守はその姿を見失うまいと迷いなくサーベルをその背に振り下ろす。
付近は赤い血に染まり、この世界にも色という概念が存在していたことを奉野に思い出させた。
それも一瞬のことで、間もなく降り注ぐ雪にかき消されるのだ。逃亡者がその場で斬り殺されることもまた、「拒捕惨殺」と呼ばれるさして珍しい出来事ではなかった。
しかし残酷無比と思われる看守たちでさえこの労役の被害者にほかならず、男を斬ったサーベルの柄を握る看守の手には至る所にあかぎれが見てとれる。奉野の手も同様で、囚人監督中も常に切り裂くような痛みに襲われ、擦ると出血した。あかぎれ程度ならまだ可愛いもので、重度の凍傷のために指のうちの何本かを失った看守も少なくない。
道庁が北海道の各集治監(現在の刑務所)に激烈な通達を発したのは、明治二十四年四月のことだった。道庁は北海道開拓を大きく前進させるために、忠別太(今の旭川)から大雪山をふくむ山岳地帯を貫き、遠くオホーツク海にのぞむ網走に達する大横断路の開通を企てていた。
忠別太から札幌へは、すでに樺戸・空知両集治監の囚人によって幅三間以上の道が開削されており、工事の焦点は網走に外役所を持つ釧路集治監に当てられた。そこで道庁は網走の外役所を分監に昇格させ、網走分監に横断路の開削を年末までに完成させるよう命じたのである。忠別太方面から進行中の、空知分監担当の道路と連絡できる道までが網走分監の担当であったが、その距離は全長約四十一里(百六十三キロメーロル)にもなり、傾斜面、原生林、硬質な岩石肌からなる未開の地を切り拓くことになる。ロシア帝国の侵犯からくる危機感があったとはいえ、工期八か月という歳月は無謀にほかならぬものだった。網走分監に送り込まれた千二百人の囚人たちは、昼夜を問わず原始林に駆り出され、大木を切り倒し、野生動物のヒグマやオオカミの脅威に怯えながらモッコで大量の土砂を運んだ。夜は雨漏りの激しい仮宿舎所に足を引きずりながら戻り、固い板の上で束の間の睡眠を取る。午前三時半には看守たちに丸太枕を叩かれ、再び朝の作業が始まるのだ。
この時点ですでにこの世の地獄と見まがう過酷さであったが、八月二十日に初代分監長に命じられた有馬四郎助が網走に赴任してからは労役のむごさに拍車がかかった。
二十七歳の有馬は、自分に破格の登用を施した長官の期待に沿いたいと願った。あと四か月以内という期限を有馬が何としてでも守ろうとしたために、かつてない囚人労働が始まったのだ。
道路開削は夏場とて容易なものではない。荊は囚人たちの獄衣を裂き、その体に血を滲ませた。複雑に絡み合った蔦に足鎖が絡まって一人が転んだものならば、連鎖されたもう一人も地面に体をぶつけることになる。内地では見られぬ大きな糠蚊やブヨが彼らに群がり、執拗に刺す。痛みは激しく、彼らの皮膚は大きく脹れあがった。
開削のために切り倒した樹木の下敷きになる者も数知れない。時には樹木が倒れるまでの時間を惜しがった看守たちによって樹木の一方に綱でぶら下げられる囚人もあった。(人の重みで早く木が落ち、作業が捗る。もちろん運が悪いと死ぬ)死体は全てその場に放置され、正式に埋葬されることはなく闇に消えた。
それまで昼間の間だけ行われた作業も、いつの間にか昼夜兼行に変わっていた。囚人は二交代制になり、単純労働時間が増大した。
十月も終わりになり降雪期がやってくると、いよいよ現場には消しきれぬ悲愴感が漂った。
それは極寒がもたらす身体の異常はもとより、食糧輸送班として雇われたアイヌたちとの連携が、雪と補給線の伸びによって難しくなったことにも一因がある。囚人たちに支給される米の主食七合は雑穀に代用され、囚人たちの楽しみの一つであった味噌汁の分配もとどこおりがちになった。栄養失調から全身が膨れ上がる水腫病にかかる者が大量発生し、そのほかの疾患を含めると、起工から七か月で延べ千五百人が病気を患った。
路線の周辺には病死者と、逃亡を試みた挙句に容赦ないサーベルの刃を浴びた遺体が点在しており、その屍の道の先を亡霊のような囚徒が紡いでいくのだ。
間違っている。
再び奉野は思った。このまま工期に間に合ったとして我々に、そして囚人に何が残るのか、奉野には見当もつかなかった。
さらに追い打ちをかけるように恐ろしい情報が入ってきている。
別の工区で工事を続けている一隊がエゾオオカミの群れに襲撃され、甚大な被害を受けたというのだ。不可解なことに、このところエゾオオカミの被害が多発している。
明治に入ってからエゾオオカミの個体数は減少の一途をたどり、今では絶滅寸前にまで追い込まれているはずだった。
それがここにきて集団で人間を襲うなんてことは通常は到底考えられる話ではない。しかし奉野はその謎について、拭っても拭いきれない一つの可能性を知っていた……。
考えに耽っていた奉野は、目の前の囚人がモッコを地面に下ろし、大木にもたれて休んでいるのに気づくのが遅れた。
「おい。休憩はまだだぞ。手を休めるな」
慌てて奉野は囚人たちをサーベルの峰(背の部分)で叩き、激励の声を飛ばした。彼らは陸に上げられた魚のような眼で奉野を見つめ、辛そうにモッコを担ぎ直す。そのとき、こぼれんばかりに入っていた大岩が一つ、雪の上に崩れ落ちた。囚徒の肩がびくりと揺れ、おびえた様子で奉野を伺う。
「チッ」
舌打ちをした奉野は他の看守がいないことを確認すると、空いた片手で岩を持ち上げた。
「これだけ運んでやる。さっさと行け」
囚徒は短くお辞儀をすると急いで歩き出した。
冷静に考えれば、このような残忍な任務の最中にオオカミの事などを考えられる自分の頭は狂っている。結局のところ、根本は他看守とも道庁の人間とも変わらぬ無慈悲な人間であり、正義を振りかざせるような立場ではない。
それに……。
入念に着付けた奉野の官服の隙間から、凍風が峻烈に身体を刺す。
奉野には悪人の自覚があった。自らの持つ弱さや身勝手さというものが、あの時ほど存分に発揮された日はない。
奉野が隠匿した秘密は、ただ一人を除いて誰も知らない。
2
今から六年前の明治十八年から、奉野は北海道石狩川上流の、月形郡樺戸集治監に勤務を始めた。
当時二十一歳である。
そこは罪人の中でもとりわけ重罪の者ばかりが送り込まれる監獄であった。
囚人を駆使して北海道開拓に貢献すること、一般人から囚人の隔離をすることを目的に作られている特性上、樺戸に連れてこられる者は重罪人に限定されるのだ。本州の囚人も、「北海道の集治監に行くこと=死」という認識を持っていて、彼らは北海道送りになることを強く恐れていた。
奉野が看守になってから一年が経った頃である。樺戸集治監に新たに運ばれてきた囚人がいた。名は早川慶次郎。四国出身で、本州にて婦人十二人を刺殺・絞殺に及んだが、警察の厳しい捜索から独特の嗅覚で逃れ続けた。捕縛時にも手練れの警官七名に重軽傷を負わせた名高い殺人鬼である。本来ならばもちろん死刑に処されるのだが、早川の犯行が極めて慎重に行われていたため目撃者以外の決定的な証拠が得られず、婦人殺しの証明ができないのであった。(自白強要は徹底的に行われたが、彼は固く口を閉ざし続けた)それでも彼は警官に対する暴行罪で懲役二十五年の刑に処され、宮城集治監に収容された。が、早川はなんと堅牢を誇る宮城集治監から破獄したのだ。威厳を守るために集治監の看守たちにより不眠不休の大捜索が行われたことは言うまでもない。最終的に農家で食物を盗み取っているところを住人に目撃され、早川にとっては運悪く警官らに囲まれ、捕縛された。逃亡の罪も合わせて無期刑となり、北海道に移監されたのだった。
始めて樺戸で早川を見た時のことを、奉野はよく覚えている。
樺戸・空知両集治監を結ぶ警備上の連絡道路となる峰延道路の開削工事を行わせている時であった。峰延への道は沼あり沢ありで、これに道路をつけるにはまず道路予定線の両側に排水溝を掘り、それに舟を浮かべて砂、土石を運び、工事用の丸太はいかだに組んで運ぶことになる。軟弱な土壌であっても変わらず連鎖が付けられた囚徒たちは幾度となく転び、作業自体もいかだを綱で肩に負って引っ張り上げる等、重労働が多かった。看守たちは逃走阻止のために目を光らせ、サーベルを抜刀して監督に当たっていた。
奉野は監督中、逃亡抑制の意味もあって、素振りをしていた。手練れた奉野のもとで空気を震わす刀身は、大気中のあらゆるものを断裂するようで、囚人は遠くにいてもその傍に近寄らぬようにしていた。
剣先に空気を感じたのはそんな時分だ。奉野が咄嗟にサーベルを引っ込めると、刃からわずか二寸程度のところで早川が瞬きもせず突っ立っている。
「危ない、何をしている」
その言葉にも彼は動じない。早川を改めて見ると驚くほど体格に優れており、足枷があるとはいえ深淵を覗くような彼の眼光には恐怖を覚えた。
「新参。集中せんと飯を減らすぞ」
サーベルを突き出して脅す奉野の前で、早川は平然と頷くだけだった。
得体の知れない恐怖を、このとき奉野は確かに感じたのである。
それから半年余りが経過した明治二十年三月である。
奉野が非番の日に、集治監である大きな騒ぎが起きていた。
早川を含めた四人の囚徒が脱獄したのだ。
樺戸集治監では上水道の堰堤補修のため、外役作業が連日実行されていた。三月は雪がかた雪となるためどこを歩いてもぬからず、作業に最適の時期であるからだ。
その中で、逃亡を企てていた二人の囚徒がいた。
彼らは作業開始の看守の号令を聞くと、いきなりモッコ担ぎの棒を振り上げて、その看守に襲い掛かった。この意表をついた行動を見て、付近にいた同僚の看守が応援に駆け付けようとした。そこを、近くにいた早川は見逃さなかった。彼は応援の看守を突き飛ばして気絶させると、自らと連鎖の囚人をそそのかして共に逃走した。
看守らはまず仲間を棒で殴りつけた二人の囚徒を捕縛し、そのうち抵抗を示した一人を斬殺した。
ようやく早川らの逃亡に気づき、その後を追ったところ、密生する林の中で外された鉄鎖を発見した。別れて逃走したようだった。
看守たちが血眼になって囚人を探していると、鉄鎖の片割れの囚徒はまもなく発見された。囚人たちの朱色の獄衣は逃走した事態を想定してどこにいても目立つように作られている。あっという間に看守たちに囲まれたことに気づいた彼は、諦めて捕縛に応じた。
だが、早川は見つからなかった。一週間にわたって早朝からの捜査が続けられたが、早川の行方は不明で捜査は打ち切られた。
それが丁度一年経った頃、急展開が起こった。民家で早川らしき男が強盗を働いたという情報が入ったのだ。さらに場所は樺戸集治監からほど近い、すでに道路が開削されている当別村であった。当別村は逃走囚が中継地として物品を奪うという被害が一時期多発したために、武術の心得のある看守が常駐していた。村は一瞬にして警戒態勢に入り、早川の退路は封鎖された。情報を手にした看守たちは皆、凄まじい戦闘を覚悟して腹を括っていたが、彼らの姿を黙認した早川は意外なことに両手を前に出し、素直に捕縛に応じた。
約一年ぶりに集治監に帰ってきた早川は、罰として闇室に閉じ込められることになり、一貫の鉄丸も取り付けられた。(鉄丸は囚人が規約違反を起こした場合の罰や、破獄防止のために特別に取り付けられる。重さは六百匁、八百匁、一貫の三種類があり、罪の重さによって決められる。なお、一貫は三・七五キログラム)
この逃走劇は、囚人・看守たちの大きな話題に上った。
翌日から、奉野は闇室の早川を監視し、飯を与える担当になった。早川を扱うことができるだろうという看守長の信頼があったからだ。
早川が入れられた闇室というのは、獄舎の外に作られた半坪の広さの密室で、一人が腰を曲げて座れるだけの空間しかない。
寝具も与えられず体を曲げて床に寝る以外にないほか、窓もないので空気は汚濁し、呼吸困難に陥る。
期間も長く最大七日間あり、囚人たちに最も激しい肉体的・精神的消耗を強いる懲罰であった。
奉野の任務は闇室の食事口を開け、通常の三分の一にまで減らされた麦飯と、わずかに塩の入った湯を早川に支給することだった。
闇室に閉じ込められて三日。それまで早川は食事の際も顔を上げず、ほとんど奉野に口を聞いていなかった。
曇り空の、暗澹とした寒い夜のことである。例のごとく奉野は夕飯を与え、食事口を締めようとしていた。
「アシリレラ」
早川の声は低かったが、奉野の耳には確実に届いた。急なことに体をこわばらせて、早川を見つめる。奉野は混乱していた。
「お前が夜番のとき、その名を奏でているのを聞いた」
早川の言葉に、奉野は少し安堵を覚える。
「そうか。ただの独り言だ、気にするな」
そして背を向けた奉野に向けて早川が続けた。
「オクイ」
今後こそ背筋が寒くなる。オクイはアシリレラの幼名である。囚徒早川の口からその言葉が飛び出すとは思いもよらない。
振り向いた奉野に対し、早川は急に軽い口調で言った。
「看守さんはこの国が好きか?」
「何の話だ。好きに決まっているだろう。一国民として当然のことだ」
そう答えると、早川は鋭い眼光を送ってきた。
「国民か、それはお笑いだな。お前は恐らくアイヌの血が入っている。顔の彫りが深く、目鼻立ちが凛々しい」
「……貴様は何が言いたい?」
「なんでもない。俺はただのアシリレラの知り合いだ」
背中を丸める早川の姿が異常に大きく映る。まさか此奴は。
「安心しろ。俺はアシリレラを黄泉送りにはしていない」
先回りして早川は言う。奉野の反応を予測していたようだ。
「やつはお前の恋人か? 婚約者か?」
闇室の饐えた匂いが奉野の元まで漂ってきた。早川はこの匂いを少しも気にしなくなっているようだ。
「詮索するな。どちらでもない。彼女は私の……」
言葉を詰まらす。私の、なんなのだと奉野は思った。分からない。
「……妹のようなものだ。それだけだ。貴様は静かに罪を悔い改めろ」
それを聞いた早川は、読み通りと言わんばかりに唇の端を上げた。
「俺がアシリレラの居所を知っていると言ったらどうする?」
「そんなことが分かるわけがない」
「分かる」
強い口調で早川が断言した。
「破獄中に遭遇した。試しにお前の名を出したら、彼女は如実に動揺を隠せていなかった」
奉野は拳を強く握る。なぜ早川がアシリレラを知っているのか、なぜそのことを自分に話すのか、彼女はどこで生活しているのか。湧き出る疑問は止まらない。それでも奉野はまずアシリレラが生きていると聞けたことに安堵を感じていた。
奉野の表情を早川がどこまで読み取れたのかは分からないが、会話の主導権を握られていることは確かだった。
「しかしながら彼女の足場は一寸危うい。いつ命を失ってもおかしくはない」
「それで、アシリレラはどこにいるのだ?」
早川との関係も今の状況も、アシリレラから直接聞いた方がよほど信ぴょう性に勝る。
「囚人と蔑まれた、見返りのない労働にはもう飽き飽きしている」
早川が眉間に皺を寄せ、それから奇妙な笑いを作る。
「どういうことだ」
心臓の鼓動が急激に早くなる。大きく口を横に開く早川独特の笑い方は、彼の顔形までも変えるようで不気味だった。
「俺の破獄に協奏するならば、必ず彼女を助ける。その御霊が乖離することは決して起きない。逆に俺の頼みを断れば、死ぬ」
三月の乾燥した寒風が二人の間に吹き荒れる。
「脅しか?」
「どう捉えるかはお前の勝手だが、俺は嘘をつかない人間とだけ言っておく。そしてお前に迷惑をかけることもしない」
奉野はその言葉に、宮城集治監での噂を思い出した。それは早川と同じ牢に収容された囚徒の一人が、早川の破獄を助けたというものだ
その男は塀内作業の際に足を挫いたと言い、看守を呼び寄せた。早川が塀をよじ登って逃げたのはその隙だった。
ただの偶然かもしれないが、それにしては間が良すぎる。
足を挫いた男の罪状は放火であった。父親が高利貸しに騙し殺されたことに怒り、その仇討ちで家を燃やしたのである。しかし家は完全には燃え広がらず、高利貸しも無事に命を取り留めたままのうちに男は捕まってしまった。(ちなみに早川と男の罪に差があるのは、獄舎にせよ連鎖にせよ、共謀して破獄することを防ぐため、あえて罪の軽い者と罪の重いものを組みにする決まりになっているからである)
ところが早川が逃亡したのち、その高利貸しが惨殺される事件が起きた。計画的と思われる周到なやり口で犯人は判明していないが、放火した男が仇討ちを条件に早川に協力をしたという話は、噂と呼ぶには筋が通り過ぎている。冷酷非道と思われるこの男にも、この男なりの義理と美学があるのではないだろうか。
奉野は今、弱みに付け込まれている自覚があった。それを認識してなお、早川の言葉を一蹴できないことには、奉野自身の持つ揺れが影響していた。
「対雁の惨状は知っているな? 今俺の仲間がアシリレラを裁くことは極めて容易だ。なにせこのままでは放っておいても死ぬ運命だろうからな。翻って、彼女を解放することができるのは俺だけだ」
夜は一層冷え込み、手袋に包まれたはずの指先の感覚が薄くなる。
「戯言はやめろ」
奉野は頭の中に絡みつく余計なものを断ち切るように声を張り、闇室の前をあとにした。
それでも依然として拭いきれない疑問は、アシリレラの存在を超えた、自分自身と囚人の存在意義にあることに、奉野は後々気づかされる。それは任務に囚われた看守と、日本という国の論調に感じる大きな違和感。
俺と此奴と、一体どちらが悪魔なのか。
四日後の六時、良く晴れた寒い朝、奉野は闇室の前にいた。
今日で罰則は終了し労役も再開され、明日から早川も他囚と同じ獄舎に戻ることになる。最後の朝食の時間だ。
食事口を開けられた早川は、米の入った木椀に手を伸ばした。しかし奉野は木椀を握る手を離さない。
早川は疑いの目で奉野を見つめた。
「本当にアシリレラは生きているのだな」
その言葉に早川の表情が和らぐ。
「やっとその気になったか」
「彼女に指一本でも触れれば殺す」
「預けられた下駄は天地に誓って返す主義だ。俺を侮らないでもらいたいな、看守さん」
「計画を話せ」
奉野は口元一つ緩めずに言った。それに応じて早川の細い顎が締まり、目の奥に煌々とした輝きが発された。
「外役作業では警戒が強いほか連鎖が負担になり過ぎる。それに引き換え、単独での塀内からの破獄には自信がある」
「鉄丸か」
「ご名答。羽ばたかせて頂きたい」
「俺が職務違反で獄舎にぶち込まれるがな。それに鉄丸を切り離しても、すぐに見つかりまた闇室送りだ」
「看守さん。剣術の腕前は俺には誤魔化せない。そのサーベルで鉄丸の鎖を、〇・五分(1.5㎜)だけ残して切断してくれ」
「〇・五分だろうと相当固い」
「案ずるな、俺の意志の方が固い」
早川が歯を見せて笑う。冗談のようだがこの男なら可能であるように奉野は感じた。
「お前に降りかかる禍を取り払うために言っている。協力者だと発覚して獄舎の亡骸になるのは嫌だろう?」
「破獄はいつ?」
「今日」
早川が身体に力を込めたのが、暗い中でも見てとれた。
もし早川が破獄し、そのまま逃げ切るようなことがあれば、樺戸には大きな衝撃が走ることになる。
獄舎自体の高い堅牢性に加え、逃げるに極めて不利な地形と厳しい気候のおかげで、集治監の開監以来逃亡に成功した例は非常に稀であった。その例の中でも、死体が発見されていないだけで餓死しただろう者が大半と思われ、奉野の知る限りでは確実に他の地に渡れた者は、明治十七年の堀井善吉ただ一名である。
その大罪を承知した上で、奉野は殺人鬼を世に放つのだ。
そろそろ労役の時間が始まる。早川は鉄丸を付けたままの獄内作業であった。
早川を闇室から解き放ったのち、奉野は周囲に誰もいないことを素早く確認した。一番遠心力に頼れるのは切っ先だが、斬り過ぎる恐れと刃こぼれの不安が強い。力を調節して先端から三寸下、物打ちで垂直に、僅かな切り込みを入れる。その感覚だ。
背中からサーベルを引き抜き、沈黙した。
鉄丸と足を結ぶ鎖に一閃。
即座にサーベルは納刀され、鈍い金属音がしたほかは、見た目は何も変化はなかった。
「流石だ」
早川が一言。奉野は何も語らず、規則に準じて両腕を拘束したまま獄舎へと引き入れた。見た目は、看守と鉄丸を付けられ打ちひしがれた囚人の構図である。
そして奉野は、早川と離れる寸前に密かに囁く。
「私もこの国が、嫌いだ」
彼はそんなことは知っているというように、鼻を鳴らした。
その日の午後、早川は破獄した。
早川は事前に、洗濯場の甕にたくわえられていた水で獄衣を浸していた。作業が終わった後に何気なく獄衣を脱ぐと、鉄丸を引きちぎって走り出した。すぐそばにいた看守が呆気に取られていると、早川は一丈八尺(五・四メートル)の黒塀に獄衣を思いっきり強く叩きつけ、吸着力を利用して体をのし上げ塀を乗り越えて姿を消したという。
みすみす彼を逃したとされて減俸・謹慎処分となった看守は、囚人に対してひどい扱いをすることで有名ない男であった。
3
岩石を所定の場所まで運んだ奉野は、駆け足で自分の持ち場へと戻った。この隙に囚徒に逃亡されると自分の首が飛んでもおかしくはない。無論、作業の手伝いなど看守が取るべき行いではなかった。
朝から晩まで相変わらずの猛吹雪である。北海道の空はどうなっているのかと奉野はいつも疑問に思う。まるで日本中の水分全てがこの地に集まっているようだった。
奉野の向かいにいた痩せ切った別の囚人が、モッコを雪の中に落とした。傍らの看守が罵声を浴びせ、腹を蹴る。囚徒は痛みに耐えながら奉野に縋るような目線を送った。
奉野はそこから眼を逸らす。あの囚徒は前に一度作業を助けたことがあった。
二度以上同じ者を助けることは差別であり、甘えである。いたずらに助けを求め続けるようになり、自らの力を行使することを惜しむようになる。
それは奉野の一貫した考えだが、同時に自分の持つ中途半端さの証明とも思う。言ってしまえば偽善だ。
その時、吹雪の向こうから駄馬に荷物を載せた集団がやって来た。アイヌの食糧調達班だった。看守たちは一様に、久々の歓喜に沸いた。
険しい雪道を乗り越えた先頭のアイヌの男が奉野の前で立ち止まる。
男は美しい紋様の刻まれたアットゥシ(シナノキの樹皮の繊維を織って作られて、通気性がよく防水・防寒機能も高い)の上にさらにウル(毛皮)を着て、木綿で作られたハㇵカを頭に被っていた。
それでも、男たちには悪路に疲弊した様子が見てとれる。
破れた獄衣一枚で労役を続ける囚人は言わずもがな、官服の上にわずか一枚の防寒着で業務に当たる看守の身を彼らは案じているようだった。
「チャワウケ(あかぎれ)」と奉野の手を指さして言う。
「大丈夫だ。気を付ける」
奉野は笑って答えた。奉野が網走分監に送られたのは、アイヌ語を自在に操れたことによる。
「残念ながら馬の脚にも限界があり、多くは運びきれなかった」
「ありがとう。ここまで来られたことに感謝をする」
「それではさようなら」
アイヌの男たちは、倭人風のお辞儀をすると、早々と雪の中を帰っていった。別れの表現が普段使いのスイ ウヌカラン ロー。(また会いましょう)ではなく、アプンノ オカ ヤン。(どうかご無事で)であったのが奉野には辛い。網走分監に課せられた過酷な状況は、彼らにも十分伝わるようだ。
休憩中の看守たちと囚人により、それから仮宿舎に食糧を運び入れる作業に入った。
担当中の奉野は再び囚人監督に戻る。常にくまなく視界を見渡し、逃亡や労役の誤魔化しを行おうとする者を抑制しなければならない。
一時間が過ぎようとした頃だろうか。食糧を運び入れる作業は終了し、辺りには闇が少しずつ迫ってきていた。看守たちはそれぞれ松明を持ち、辺りを照らしながら任務に当たっている時分だった。
ことは唐突に起きた。二人の囚人が、叫び声をあげてこちらに向かってきていた。
逃亡か、という思考も束の間、看守の声が響いた。
「オオカミの群れだ。逃げろ」
束の間の硬直の後、現場は瞬く間に大混乱に陥った。看守たちは冷静な思考を失い、とにかく声と逆方向に走る。囚人たちは焦るあまり連鎖に足を取られ、大多数が逃げられずに雪に埋もれている。疑念に駆られて立ち止まる看守もいたが、あるものを見つけて凍った。
樹林の隙間から無数に光る眼。ただならぬ気配に木々が蠢く。
ーーーーオオカミ
本物と分かると、勇敢な者も押しなべてサーベルを捨てて逃げる。自らの命を守るため、雪の中を一心不乱に駆け出した。
「そんな……」
身軽な者が遥かに遠のく中、囚人が絶望混じりに発した言葉。
道路開削第十三区担当班の囚徒は、オオカミの群れに包囲されていた。
息遣いはひしひしと、確実に迫ってきている。
奉野に残された方法は囚人を見捨て逃げるか、囚人と残り戦闘に身を投じるかの二択だった。
泳ぐようなオオカミの眼が浮かんでは消え、次に現れると前よりも格段に大きくなっている。
奉野は強く柄を握った。自分は臆病な人間である。震えはあった。
だが囚人看守に身を埋めた以上、いつかは地獄に落ちる覚悟はできている。それが少し早まるというだけの話だ。
自分が学んだ撃剣の術は、囚人を殺すためのものではない。一つでも多くの命を尊重し、守るべき未来に繋げるためである。
左から奇声が聞こえた。目をやると、看守が残したサーベルを手にした囚人が、無策にも木々に向かって刃を振るっていた。
「やめろ!」
奉野が叫ぶと同時に一匹の獣が樹林から飛び出し、囚人のサーベルを前足で弾いた。彼は指の骨ごと持っていかれ、血飛沫がサーベルに絡むように空を舞う。
獣は機敏に動き、動きの鈍った囚人の首に噛みついた。加勢する覚悟を持った、他の囚徒たちに合わせて数匹の獣が姿を現し、その動きを封じた。安易に近づけないようにしている。
見事な集団行動。獣には高い知能があった。
それから奉野は、獣たちがエゾオオカミにしては体格が小ぶりであることに気づいた。嫌な予感がした。まさか。
だが今は考えに浸る場合ではなかった。奉野はすぐさま駆け出し、大声を上げた。オオカミを少しでもこちらに引き寄せて時間を稼ぐのだ。
指を噛みちぎった個体が奉野に気づき、囚人の首を離した。白濁した眼の男は雪の上に倒れ、動かない。
奉野を捉えて走り寄ってきた。同時に左右の獣も動き出す。奉野ただ一人を狙っていた。
走る間に考える。まずは前方の一匹の勢いを利用して口の中に刃を刺しこみ、肉を抉り取って正面に抜ける。それから……それから……。
それ以上自分が勝つような画は浮かばなかった。
前方一匹が動きを読まれぬよう不規則に足を踏んで急接近する。
刹那の天運、自分の勘に頼るより無い。
ひりつく五感の中で息を吐いたその時。
奉野は神の業を見た。
悲鳴は唐突だった。小動物のような情けない声が辺りに響く。
オオカミたちが一斉に声のする方を振り返った。
腹の捩れた一匹の個体がとどめなく血を流し、よろめきながら雪の上を進んでいた。
何故?
考える暇がない。続いての悲鳴が聞こえ、三匹の獣が森の中から飛び出した。一匹は前脚が二本とも潰え、一匹は腹から飛び出す小腸を雪の上に引きずって、最後の一匹は首から上が無かった。
彼らを追うようにして現れる影は、人間。
その左方から跳躍した一匹がいた。仲間を殺され怒り狂い、人間を殺ろうとしている。
奉野はその激しい剣幕に目を覆いそうになる。人間の足ではとても逃げ切れない。
だが人影は、人ではない動きを取った。
自らオオカミに接近し、その腹に潜り込んだ。体を沈み込ませて間合いを計り、重力に任せ、はらわたに剣を突く。
貫通。串刺しになった獣が四肢をばたつかせ盛大に暴れる様子は、人影の前では哀れにすら感じた。
獰猛な声は腹をかき乱されたことで、器官が破けたような雑音が混じり、痛々しい。
人影は慣れたように獣に足をかけ、体から剣を引き抜く。
獣は一つの物体と化して、雪の上を転げまわった。
「看守さん、裁神だ。殺される」
足を引きずりながら奉野の元に寄ってきた囚人が、血の気の引いた顔で言った。
——— 裁神。
名に聞き覚えはある。エゾオオカミの頻発に伴い、どこからともなく現れた常軌を逸した者。食物連鎖の最上位を、踊るように切り刻む主。名の由来は、ある時その凶行を目撃したアイヌがこう叫んだことによる。
「シユッパカムイ(荒れ狂う神)」
基本的にアイヌは人間に対して「カムイ」という言葉を用いることはしない。この世の事象に精神的な働きを認め、擬人化したものがカムイであるからだ。
しかしそんなことは気にもならない。叫びたい気持ちは倭人にも共通している。人間らしい怯えや理性が存在しない一挙一動は、目撃者の心胆をあまねく寒からしめるものがあった。
気づくと、辺りのオオカミの数は大きく減っていた。内臓の飛び出した獣が五匹大地に転がり、のたうち回っている。
その手負いの仲間を超え、獰猛な二匹が新たに人影に襲い掛かった。
人影は一匹の顎の中に剣を横向きに刺し入れる。
続いて牙をむくもう一匹の顎は、刺した獣を盾に防いだ。オオカミは一度噛みつくと顎の強靭さが災いして、すぐに引き離すことができない。
その隙に人影は剣を戻し、頭を斬りつけた。
無謀な使い方をしたために刃は鈍り、頭を落とすには至らなかったが、肉の中には十分に食い込んだ。体の中の異物を振り払うように二頭は錯乱して暴れまわり、互いを爪でひっかきあった。
人影は獣たちに最後の一太刀を与えず、ただ見つめていた。
よく見ればオオカミたちのほとんどが致命傷を負いながらも、とどめをさされていない。
それも、奉野が話に聞いていた裁神の特徴と一致していた。
理由は定かでないが、裁神は高度の技術によって、意図的に獣たちの即死を防いでいるのだ。
もはや道路に残るのは血塗りの獣ばかりで、他は恐れをなして山中へと姿を消していた。
囚人は少しでも裁神から遠ざかろうと必死で、彼らの荒い息と死にゆくオオカミたちの断末魔が、聞くに堪えない不協和を放つ。
地獄絵図だ。
看守になってから長らく、奉野は闇を見てきた。そこに何か一つでも光を灯せたらいいと思っていた。
だがどんなに闇の向こうを覗いても、そこには闇しか見えないのだ。
奉野は裁神の方に足を向ける。
阿鼻叫喚が煩い。人影が神かどうかは気にしない。
何の役にも立たない自分をもう殺してくれ。
向こうも自分に近づいて来る奉野の姿に気づいたようだった。
もはや死人と思えるほどの血を浴びた、細い顎が横に開く。
それを見た奉野の心臓がドクンと跳ね上がった。
壮絶な既視感。この表情。
「久しぶりだな、看守さん」
裁神———早川慶次郎は、真っ赤な歯を見せて笑った。
序章終幕
第一章 アシリレラ編に続く。