4.千里の片割れ(2)
当初の二人の計画では一歩も海に入る予定だったが、後で嘘を付いた事がバレて千里が母親に咎められるのを恐れて、結局一歩は海には入らなかった。
一歩には自分の楽しみよりも、千里の心の平和の方がよっぽど大事だった。自分を可愛がる余りに母親が千里に辛く当たるのを見るたび、一歩は胸が締め付けられる思いをしていた。
千里と父親が海に入り、その楽しげな二人の様を一歩は少し離れた海岸から眺めていた。元気な千里と遊ぶうちにバテてしまったのだろう、暫くして父親が一歩の隣でうたた寝を始めた時悲劇は起こった。
千里が打ち損じたビーチボールが波打ち際に転がり、千里に返そうと一歩がボールに近付いた瞬間、急激に沖の方へ戻る波に引っ張られ一歩の姿が消え去ってしまったのだ。
一歩に手を振っていた千里は青ざめた。
すぐさま近くの人に助けを呼ぶように言付けて、自分は一歩の姿を探そうと波間を必死で掻き分けながら、潜り続けた。
何度も何度も一歩の名を叫び、体力の続く限り浮き沈みを繰り返す。
はっと気付くと千里は病院のベッドの上だった。一歩と共に運ばれたのだろうか?視界がぼやけるので目を擦ると、指先に冷たいものが触れた。
千里の涙だった。今日一日に起こった目まぐるしい出来事を思えば無理もない事だろう。
「一歩はどうなったの?」
千里は真っ先に気になる事を父に尋ねた。
「うーん、まだ目覚めないんだ。でも母さんが付いてるから、心配は要らないよ」
ひどく傷付いているだろう千里を気遣い、父は優しく微笑んだ。
「そう…」とだけ答えて千里は唇を噛み締める。あとは親子の間に沈黙が続くばかりだった。
その後、千里だけが父と病院から自宅へと戻ってきた。
後で分かった事だが、この後数日間の記憶が千里の中では抜け落ちているらしい。余程、この一歩の事故が精神的にショックであったのだろう。
千里が目覚めて階下に行くと、父がキッチンで朝食の支度をしていた。彼は千里を見つけると、努めて普段通りを意識しながら、気遣うように声をかけた。
「目が覚めたか?」
「うん」
「朝ご飯にするか?」
「……いらない」
事故の翌日から、千里と父親の二人っきりの生活が始まっていた。母親が一歩に付き添って病院で寝泊りをしていたからだ。完全看護の病院なので、付き添いの必要はなかったが母親が断固として一歩のそばを離れなかったのだ。
一歩の病状が落ち着いた為、一歩は父親の病院変へと移されていた。とは言っても意識が戻った訳ではない。いわゆる脳死と呼ばれる状態だった。
「今日も病院に行くのか?」
「うん」
ここ何日も同じ会話だけが繰り返されている。
事故はお前の責任じゃない、母さんの言う事は気にするなよ等々言ってやりたい台詞は沢山あったが、言ったところで今の一歩の病状では千里を慰められない事を、父親は十分承知していたからだ。
「じゃ、行ってくるね」
そう呟いて千里は玄関を出た。父親の病院なのだから、一緒に行けば良いのだが、千里は必ずバスで通っていた。一歩がいない状況で父に甘えるのは、やってはいけない事のように思えたのだ。
幸いバス停は近所にあったし、病院までは直通だったので、千里は苦に思う事はなかった。
しかし例え複雑であったとしても、一歩を思う千里にとっては何の障害にもならなかったに違いない。
病室の前に着いてから、千里は一呼吸置き、扉の隙間を少し開けながら中の様子を窺った。
「ほっ」どうやら母親は席を外しているらしかった。急いで一歩に駆け寄る。
「一歩、わたしだよ、千里だよ。寂しくさせてごめんね。母さん居ると、入れさせてもらえなくて……」
泣きたくなるのを必死で堪えて、千里は笑顔を見せる。一歩には決して涙は見せまいとする千里の精一杯の心遣いだった。
「ねぇ一歩、もし一歩が目を覚ましてくれるなら、わたしは何だってやれる。もう母さんに何を言われたって平気だし、空気みたいに扱われたって構わないっ。だから…だからお願い、また笑ってよ、一歩」
機械に繋がれて眠る一歩の手を、千里はそっと握りしめた。
「そう、何でもやってくれるの…」
千里の背後でぞっとするような母親の声が響いた。事故からこのひと月余りで、母親の狂気さ加減は数段にも増していた。
千里はびくっとして、思わず後退りした。
「じゃあ、一歩に脳をあげてよ。あなたが一歩の脳を駄目にしちゃったんだから、代わりにあなたのを頂戴よ。ねぇ、一歩の為なら何でもできるんでしょ。なら今すぐ心臓を突いて死んでよ。ここなら脳が駄目になる前に移植手術が出来るじゃない」
今までで最もひどい母の言葉だった。
心を痛め続けられ過ぎて、もう千里の瞳からは涙も出なかった。
「わたし、今まで頑張ったよね?もう、いいよね?こんなわたしでも一歩の為になるんだから、良かった。ひとりにしてごめんね、一歩……」
心の中で一歩に語りかけ、千里は徐にそばにあった果物ナイフを掴み、自らの胸に深く突き刺した。そして二度と再生出来ないようにとナイフで傷をえぐってから、それを勢いよく引き抜いたのだ。
悪夢のように血があたりに激しく飛び散り、そこら中を真っ赤に染めた。一歩の頬に飛んで流れた血は、まるで千里の死を悼んでいるかのように見えた。最後の力を振り絞り、地に染まった手を伸ばして千里はナースコールを押した。
「菱谷さん?菱谷さん?どうかなさいましたか」
虚しく看護師の声だけが繰り返される。
千里にはもう、その声に応えるだけの余力は残されて無かった……。
駆け付けてきた看護師の手配により、千里の緊急手術が行われる事となった。無論、執刀医は姉妹の父親である。
傷を見て父は愕然とした。本当に、我が娘が自分で付けた傷なのだろうか、これは?
我が目を疑うほど惨い傷痕であり、救う事が出来ないのは歴然だった。
そのとき、父の心に悪魔が囁いた。いや或いは妻の狂気の叫びだったのかもしれない。
これが最良の方法なのだと父は自らに言い聞かせた。娘を想う父の前には、法も道理も関係無かった。時間がない、父は信頼できるスタッフを集めて極秘手術を秘密裏に行った。
「一歩、気が付いたのね」
ずっと一歩の手を握っていた母親は嬉しそうに一歩を覗き込んだ。
その母の言葉を聞いた途端、一歩の顔が強張った。言葉を紡げずにいる一歩をよそに母は尚も言葉を畳み掛ける。
「ああ、いいのよ。あなたは海で溺れて以来ひと月も眠っていたんだもの。急に喋るのは無理よね。でも良かったわ。意識が戻って」
にっこりと笑う母親の表情には、一点の曇りさえも見受けられない。数時間まえに
目の前でもう一人の我が子が自殺したことなど、どうでもいいようだった。
横たわる少女の瞳から、静かに静かに一滴の涙が溢れ落ちた。その瞳は目の前の母親を写すことなく、窓の向こう側に何かを探すように彷徨っていた。
コンコンとノックする音に続いて、心配げに父親がドアの隙間から顔を覗かせた。
「意識が戻ったって?念の為に今から一歩の脳波検査をしたいんだ。その間にお前は一旦うちに戻って休んで来たらどうだい?ずっと付きっきりで疲れたろう」
そう言って父親は妻を促した。努めて明るく自然に振る舞っていたが、その瞳の奥には緊張の光が漂っていた。
母親はまだ名残惜しそうだったが、検査にニ時間以上掛かると聞き、諦めて帰って行った。
母親が病院前からタクシーに乗るのを、病室の窓から慎重に確かめてから、父親は一歩に向き合い真剣な顔つきで尋ねた。
「母さんはいないから、安心して応えて欲しい。お前は一歩と千里の一体どっちなんだ?」
一瞬の緊張のあと、少し安堵したように吐息をつき、少女は悲しそうに笑った。
「千里よ……。どう説明しようか悩んでたの。父さんから聞いてもらえて助かったわ」
そう応えながら、千里は意識が戻った時の自分の涙の訳を考えていた。果たしてあれは、一歩だけに微笑む母の姿に落胆したからなのか、それともこの身体に息づいた意識が一歩ではなく、自分のものだった事への罪悪感からであったのか。
心に感情を乗せる事を止めてしまって以来、千里は自分の気持ちを推し量るのが難しくなってきていた。
「そうか、千里なのか」
千里の気持ちを知ってか知らずか、父親は何の気構えもなく素直に事実だけをそのまま受け止めてくれたように、千里には思えた。
双子の姉のために自らの命さえも差し出してしまった千里。慰めてやりたかったが、今更なんと言ってやれば良いのか…父親には掛けてやる言葉など到底見つから無かった。
父親にとっては姉妹どちらも等しく掛け替えの我が子だった。死んだ者と生きた者、どちらにも加担する事は出来ない。
わたしは人として在るまじき罪を犯した。しかし一歩の身体と千里の意識を、この世に残せた言うのも紛れも無い事実なのだ、とそう自らに言い聞かせた。この罪の咎はどうか自分だけに、そう願いながら父親は千里に優しく語り掛けた。
「意識が戻ってくれて良かった」
そう改めて言葉にすると、不思議と隠れていた感情が現れてくるようだった。父親の目に涙がうっすらと滲んでくるのが見てとれた。
千里を傷付けないようにと、父親は慎重に言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。
「お前は賢い子だからもう理解していると思うが、その身体はお前のではなく、一歩のものだ。お前が傷付けた心臓は思ったよりも損傷が激しくて、手術しても助かる見込みが無かった。一歩の心臓をお前にとも考えたが、母さんの同意書が
取れなかった……」
無言で千里は頷く。それは千里も望んでいなかった事だ。もしそんな事をすれば、千里は父親を一生許さなかったに違いない。
事実だけを淡々と述べるよう努力しながら、父親は現在の状況を千里に伝えた。
「一歩もこのままでは、いずれ心機能が低下して死ぬのを待つばかりだった。私はお前たちの両方を失うのが耐えられなかった。だからお前の望み通り、一歩の身体にお前の脳を移植した。それが二人を救う唯一の手段だと信じたからだ。でも果たしてお前がちゃんと目覚めてくれるかと冷や冷やしていたよ。千里の身体は冷凍保存を施してある。持ち主であるお前が目覚めるのを待ってから、弔ってやるつもりだった。まだ混乱しているだろうお前に聞くのも酷な話しだが、お前は千里と一歩のどちらの名で生きて生きたい?」
父の顔を見つめていた少女は、十歳とは思えない程の大人びた表情が浮かべ、なるだけ感情的にならないよう心掛けながら応えた。
「目覚めた時にね、母さんが凄く優しい顔をしてわたしを見てたの。嬉しくて涙が出そうだった。でもね、それはわたしにむけられるべきものじゃないんだ、一歩のものだよ。わたしがもらったら駄目なの…。わたしは千里として生きて行く!」
「そうか、敢えて辛い道を選ぶんだな…」
十歳にして数倍も成長させてしまった我が子を見ると、父は己の不甲斐なさを情けなく思った。
お前にだって優しさを受ける権利はある、と言ってやりたいが、それで当の千里が救われるとはとても思えなかった。一歩の身体にあるのが千里の意識だと知れば、妻はこの子に何を仕出かすか分からない。
果たして千里の精神はそれに耐え得るだろうか?父の心中は複雑だった。一体どこで私たち家族の歯車は狂ってしまったのだろうか。
父親が千里を想って語った言葉さえも、今の千里にとってはただの苦痛でしか無かった。優しさなど要らなかった。わたしが一歩を死に追いやってしまった。そして今度は一歩の肉体までも奪ってしまったのだ。誰が許してもわたしは自分を決して許さない。許せるもんかっ!
千里の心が氷のように凍てついてゆく……。
千里の意識の片隅に密かに存在していた一歩の魂は、敏感にそれを感じとっていた。
「ねぇ、父さん。あの身体はどうせ抜け殻だよ。弔う必要なんてない。それに一歩の脳はそっちにあるんでしょ?燃やすなんて事出来ないよ。一歩の魂はわたしが必ずこの身体に戻すから、それまではわたしがしっかりこの身体を守る。でも何があるか分からないから、あの身体は予備のパーツとしてとって置こうよ」
数刻まえまで自分であった肉体を、まるで物のように扱う千里に父親は恐怖を覚えた。今や、一歩への情だけが、千里を生かす唯一にて絶対の存在のように思えた。
父親は永遠に我が子を失なったような虚無感に襲われ、その後何かを喋ったのかも分からずに病室を後にした。
「これが私たちの身に起こった出来事です。私の意識は何故か、溺れて病院に運ばれた時から既に千里の中にありました。おかげで私は千里を陰ながら見守ることが出来ました。その点に置いては、もし神という存在が在るのならば、感謝したいですね」
少し皮肉めいた笑みを浮かべて、疲れたように一歩は一息ついた。こんなに長く身体を支配した事が無かったらしく、相当に体力を消耗したようだった。