1. 二人の出会い
窓辺に一人の少女が立っていた。歳は十五、六だろうか。すらっとした形でとても整った顔立ちをしている。
窓から入る月光が少女の顔に反射しているせいか、その姿はいたく儚げで、今にも消えてしまいそうな印象を与えた。
ガラスに映る自らの顔を見ている筈なのに、その少女はあたかもそこに別人が存在するかのように語りかけた。
「ごめんなさい、千里。すべての重荷を、貴女だけに背負わせてしまったわ。貴女の魂がこんなにも悲鳴をあげているのに、どうしてわたしは何もしてあげられないのかしら?」
少女の頬を濡らす涙が、静かに流れ落ちた。少女は震える指先を伸ばし、まるで自らが触れる事で壊してしまうのを恐れるかのように、優しくそして愛おしくガラスの少女に頬を寄せた。
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少女と父親の二人が乗った列車が、乗車駅を離れてから、三時間ばかりの時が過ぎていた。
はじめはビルばかりだった窓の景色が、徐々に山や川といった自然物の多いものへと変化し、目に映る色も心地よい緑が主となった頃、押し黙っていた父親が突然口を開いた。
「千里、済まなかったな……」
千里と呼ばれた少女は弾かれたように、眺めていた車窓から、父親へと視線を移した。
そして悲しそうに微笑んで、黙って首を振った。
何が?と尋ねなくとも少女には父親の気持ちが痛いほどによく解る。
アノ事があって以来、千里たち家族の時を刻む針は凍りついてしまっていた。母親のショックは特にひどく、今では実の娘をまるで悪魔か何かのように扱うようになる始末だ。
そんな母親を一人で抱え込んだのだ、父親に千里を顧みる余裕などは無かったに違いない。
この家族を狂わす引き金を引いてしまったのは、ほかならぬ自分だ。
結果母からどう扱われようとも、千里はその事を責めたいとも、そこから逃げ出したいとも思った事はない。
しかし今、自分が彼らの前から姿を消す事によって、二人が少しでも救われるならば、それに越した事はない、とも思う。
また会話が無くなった父と娘をよそに列車は進み、そろそろ目的地へと到達しようとしていた。そこには千里が初めて会う、父方の祖父が暮らしている。そして今日から千里が暮らしてゆく場所でもあった。
親子は駅で別れた。互いに、独り残してきた母親の事が気掛かりであったし、祖父の家までの道ゆきは、もう既に千里の頭にあらかた記憶されていたからだ。一応、地図もある。
そうは言っても、面識のない祖父を独りで訪ねるというのは、千里にとって少々不安でもあった。が、母との結婚を反対され勘当の身になった父は、それ以来祖父とは絶縁関係にあると云う。ならば父が居ない方が却って良いかもしれないと、千里は思い直す事にした。
ここは相当長閑な場所であるらしい。何故なら駅に降り立ったのは、千里ただ一人で、駅の中の人影は皆無だったからだ。
【切符をお入れ下さい】と書かれた箱があるのみだった。勿論タクシーさえもなく、商店街のかけらさえも見当たらない。
「……歩き、だな」
ぼそっと独り言が出るのも、無理はない。
途中で遅い昼食でも、という千里の淡い期待は脆くも崩れさろうとしていた。
駅前でもこの有様なのだ、この先祖父の家までの道のりで、食事に有り付けるとは到底思えない。
取り敢えず、ポケットに入っていた唯一の食料であるチョコレートを口に含んで、少女は飢えを凌いだ。
「まさか、このまま遭難したりしやしまいな」
先行きに不安を覚え、そんな言葉を吐いてみたが、無論答えてくれる者など存在しなかった。
千里は地図を片手に、祖父の家を目指す事とした。木々に囲まれていて、日中にも関わらず薄暗い道が続いている。其れが今後の我が未来と重なるように思え、千里をしばし憂鬱にさせたが、今は進むのみだ。
三十分ぐらい歩いた頃だったろうか、千里は辺りの空気が凛と引き締まるような錯覚を覚えた。
悪い気を断ち切るかのような、研ぎ澄まされた空気が辺りを漂っている。
右手の奥の方には、長くて狭い階段が延々と続くのが見えた。その行く先には緋色の鳥居らしきものがあるようだ。
さも在らん、千里が地図で確認すると、そこには確かに【すめらぎ神社】という文字が読んで取れた。はて?と千里は思う。父の道順の説明にはこの神社に関する情報が無かったからだ。
こんな解り易い目印を、父はなぜ言わなかったのだろうか?
「お守り、買えるかな…」
泣きたいような、笑いたいような表情だった。自分が生まれ変わったアノ日以来、千里は神社を見かけると、お守りを買うのが習慣となっていた。この身体は絶対に傷付けてはならない。
いつか一歩に返すその日まで、何があってもわたしは生き続けなけゃいけない、それだけがわたしの存在理由だから。
自らの罪をこの身に刻みこむかのように、いつも張り詰めた思いで今まで神社を訪れて来た千里でがあったが、今日は少し違っていた。境内をくぐった瞬間、温かいようなほっとするような、まるで赤子が母の胎内にいるかのような安心感を覚えた。
その心地よい気分のまま誘われるかのように、前方に視線を泳がし、千里はその場に立ち尽くしてしまった。
一瞬、夢でも見ているかのようだった。
千里の視線の先には、絹糸のような長く美しい黒髪を風に舞わせ、桜の花びらを妖精のごとく戯れさせた美しい少女が立っていたのだ。
少女は薄紅色の可憐な唇に柔らかな笑みをたたえながら、何もないはずの空を見つめて何かを呟いている。
千里にはその言葉を聞き取る事は叶わなかったが、唇の動きで『オロシ』という単語だけは読み取れた。
どれぐらいその場で眺めていたのだろうか。
ふと我に帰ると、千里が感じた風も桜の舞も成りを潜め、そこには先刻の美少女が独り此方を真っ直ぐに見つめて立っていた。
さっきは気が付かなかったが、少女はこの神社の巫女であるようだ。それ特有の白い着物と緋袴を身につけ、先刻空を舞っていたように思えた漆黒の黒髪も、紙のようなもので一つにまとめられている。
(漫画では、運命の相手と巡り会った瞬間、その者の背後に花が咲いたり、後光が差したりするというけれど……まさかな)
幻覚を見たせいか、未だに目前の少女が現実なのかどうか判らず、千里の脳回路はストップしたままだった。
そんな呆けた顔が余程おかしかったのか、込み上げる笑いを必死に押さえながら、その天女さまは、千里に意外な言葉を掛けてきた。
「お待ちしておりました。菱谷 千里さまですね。義父から、今日来られると伺っておりました」
深々と丁寧にお辞儀をする少女に、千里は戸惑いながらも、辛うじて問い掛けた。
「えっとー、義父?って誰のことかな」
「失礼致しました。私の事は既にご存知かと思っておりましたので。私は貴方様のお祖父で在られる吉野 弦司さまの養子であり、名を吉野 安曇と申します。どうかお見知り置きを」
再び丁寧にお辞儀をする彼女の所作は流れるように美しく、何かしらの武道を嗜んだ者なのではと連想させた。
「確か同い年とお聞きしましたが、戸籍上では千里さまは私の姪という事になりますね」
ひょっとして、自分をからかっているのだろうか?と千里は思ったが、安曇と名乗る少女は至って真面目だった。
しかもいつの間に来ていたのか、千里の顔に触れそうな位置で、心配気に覗き込んでいる。
千里の返答が無かったので、気を悪くしたのかと思ったらしい。
この世のものとは思えぬ程の美しさを間近で見てしまい、千里は見惚れるのとドギマギするのとで精一杯になり、聞いた内容がさっぱり頭に入ってこなかった。
(えっ、どういう事なんだ?なんで神社にいるんだ?わたしが姪って……えっ、だれの?)
千里の頭の中を安曇の言葉がぐるぐるまわり、脳が滅多にない程にフル回転したせいか、千里は考えていた事を無意識に口に出してしまっていたらしい。
千里の思考を遠慮がちに遮る安曇の声がしてきた。
「ここは貴方のお祖父様が管理なさっている神社で、お祖父様はここの神主にあたられます。ご存じなかったのでしょうか?幼い頃にこちらに捨てられていた私を不憫に思ったお祖父様が、自分の養子として育てて下さったのです」
本来の孫である千里を差し置き、自らがここで祖父と住んでいる事を申し訳なく思っているのか、千里に対する態度は度を越すほどの丁寧さだった。
父親の実家が神社である事を、千里は知らされてはいなかった。 どおりで道順の説明にも出てこない筈だ。
(ははーん。結婚を反対され家を出たと聞かされていたが、本当は後を継ぐのが嫌で逃げ出したんじゃないだろうか?でなければ、神社の事を隠す必要がない。よっぽど後ろめたかったんだろうさ。音信不通だったなら、少女の事は父も知らないのだろう、まさかあわよくば私に継がせようとここに寄越したんじゃないだろうな)
と、千里が独り勘繰っていると、取り残された安曇が不安げに声を掛けてきた。
「あのう、落ち着かれましたか?」
その声に千里はようやく我に返った。考えを巡らすうちに、すっかりこの少女の事を失念していたようだ。そんな自分に苛立つ事もなく、ずっと待っていてくれたらしい安曇の優しさに、千里は軽い胸の痛みを覚えた。
それは千里がずっと忘れていた、いや千里自身関わるのを避けてきた、温かく人間らしい『喜び』と云うものなのかもしれない。
「お祖父さまの神社だと知らずにいらっしゃったという事は、こちらに何かご用事があったのではないですか」
安曇の問う声に、千里はここに来た本来の目的をようやく思い出した。
「あっ、お守り。お守りが欲しくて」
「お守りですね。どんな用途のものをご所望でしょうか」
「かっ、身体。身体を傷付けないものっ」
と言ってしまってから千里ははっとし、自分の頬がかぁっと熱くなるのを感じた。
(こんな物言いじゃ、ものすごく変な奴に思われたぞ、絶対)
何故だか、この初対面の少女に対しては、いつも冷静な筈の千里の感情コントロールが上手くいかないようだった。
「えーっと、何て言ったらいいんだ?あっそうそう、交通安全とか厄除けとかっ?そんなやつ」
困難しながらもようやく回答を見つけて安堵した千里を、安曇は怪訝に思う事もなく、にこやかな笑顔を浮かべながらお守りと代金を交換してくれた。
千里はそのお守りを受け取り、大事そうに鞄に仕まう。
それを微笑ましげに見ていた安曇が、恐縮そうに口を開いた。
「自宅までご案内したい処なのですが、生憎まだ仕事が残っておりまして……」
「ああ、大丈夫です。道順は覚えているので」
ひきつった笑顔で必死に安曇を制し、千里は今日から我が家となる祖父宅を目指し踵を返した。
(こんな美人さんに着いて来られたのでは、私の心臓がいくつあっても足らない。それは断固拒否させてもらおう)
千里の心からの叫びだった。
千里の後ろ姿が見えなくなる頃、何処からか安曇にしか聞こえない声で声で話し掛ける者がいた。
「あいつにお守りなんか必要ねぇーよ。すっげぇ強いオーラ発してたじゃんか」
その声の主を安曇は見知っているのだろう。
別段驚く様子もなく、その主がいると思われる方向に目をやり、少し含むように笑った。
さっきまでの天女のような笑みとは打って変わり、悪戯っ子のようなそれだった。
「そうだね。君には必要ないよって、忠告してあげるつもりだったんだけどね。彼女の後ろにいた守り神チャンが、内緒にしてくれっていう具合で口に人差し指を当ててたんでね、言えなかったんだよ。決して商売のためって訳じゃないよ、颪」
颪と呼ばれた声の主からの返答は、「ふ〜ん」のみだった。自分から振った話題にも関わらず、もうすでに興味がないらしい。
そんな受け応えにも慣れっこなのだろう。
安曇はやれやれとばかりに苦笑しつつ、もう見えなくなった千里の後ろ姿を追うかのように目を凝らした。
「荒れそうだな……」
ぽつりと安曇は呟いた。しかし、空は雲一つない晴天が広がっている。
彼女の神秘の瞳には、これから起こり得る千里の運命さえも見えてしまうというのだろうか。