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真の海防  作者: 山口多聞
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一次大戦後 4

 1931年に満州事変が発生し、その翌年には日本の傀儡国家満州国が成立すると日本と大陸間の交通は活発になった。満州にはこの時点で石油こそなかったが(ただし1933年に日本の調査チームが発見)、石炭に鉄、そして豊かな穀物資源を持ち合わせていた。


 これらの資源は、資源のほとんどを海外からの輸入に頼っている日本にとっては貴重であった。石油がないとは言え、石炭や鉄も重要な戦略資源である。


 その資源を輸送するルートは遼東半島の旅順や大連から黄海、玄界灘を通って博多や長崎と言った九州に至るルートと、朝鮮北部の元山や羅津から日本海を横断し敦賀や新潟と言った日本海沿岸の港へ至るルートである。


 これらのルートはいずれもソ連海軍の根拠地であるウラジオストクやナホトカから目と鼻の先である。もし日ソ戦争が起ころうものなら、すぐに封鎖される可能性があった。


 しかしながら、それらに対する海軍の防備は不十分だった。日本海軍は第一次大戦の反省からとりあえず対潜戦備の忠実と訓練を行ってはいた。しかし、それらはあくまで艦隊を潜水艦から守るものだった。通商路の護衛についてはほとんど整備が進んでいなかった。


 そこで海軍では慌ててソ連潜水艦から通商路を守る方策を考え始めたわけだが、まず始められたのが専門部隊の整備だった。しかしながら、その整備は開始早々難航した。海軍側の無知もあったが、それ以上に問題だったのが予算の獲得だった。


 この時期は未だ軍縮条約が有効に作用している、所謂海軍休日の期間中だった。しかも戦艦や巡洋艦といった主力艦の保有を制限したワシントン条約に加えて、補助艦艇の保有を制限したロンドン条約も利いていた。ちなみにこの世界では、天皇自らが全権団に向けて声明を発表したため、統帥権云々と言った問題は発生していない。


 これらの条約のために、軍拡を影で進めるドイツとかソ連、共産党や日本と対立する中華民国を除く殆どの国が軍事費を抑制していた。例えばアメリカではこの時期戦車や小銃と言った装備の更新が滞ったりしている。またフランスの場合はなんと唯でさえ抑制された軍事費をマジノ要塞の建設に集中投入していた。


 こうした状況が大きく変わるのは、ヨーロッパではナチス・ドイツが台頭して以降のことである。そして日本の場合は、今回のソ連の軍事力増強と満州国を日本の影響圏に置いたことによる。


 海軍が通商路護衛組織設置のための予算を要求すると、帝国議会は紛糾した。日本にはこれまで通商路を守るという概念はほとんどなかったし、さらに戦時において地味であり、平時においては戦争勃発をただ待つだけの役割というのも、議会側に渋い顔をさせた。


 また海軍内でも、通商路護衛よりも既存艦艇の改装や、航空隊の拡充に予算を振り向けるべきという意見が多く出た。


 しかしながら逆に歓迎する動きもあった。特に日露戦争と第一次世界大戦で辛酸を舐めた海運業界からは顕著であった。それに加えて、実際にソ連の潜水艦の数は徐々に増えていた。また太平洋艦隊に配備される水上艦艇も少しずつではあるが増えていた。


 そしてトドメとなったのが、満州事変直後に中華民国が自国防衛の名目の下海軍の大幅拡充をスタートさせたことであった。


 本来なら帝国海軍にとって中国海軍など気にもしない存在に過ぎなかった。中国海軍がまともな近代海軍を保有したのは1回だけ、それも日清戦争で日本海軍に敗れているからだ。その後も国内の政治的混乱から、小規模海軍を脱することが出来ず、この時点で中国海軍が保有している外洋航行可能な艦艇は両手で数えられる程だった。しかも最大の艦は第一次大戦直前にオーストリアに発注し、戦後になってようやく竣工した5000t級軽巡のみだった。


 しかしながら今回中国海軍が発表した計画の中には、大型巡洋艦や外洋型駆逐艦のみならず、なんと潜水艦が20隻も含まれていた。


 当初この計画を帝国海軍では単なる絵に描いた餅にすぎないと考えていたが、まもなく上海や香港の造船所で艦艇の建造が開始され、さらに海洋学堂(海軍士官学校)の大幅な定員増がなされたという報告がスパイからなされた。


 この内艦艇の建造というのは、中国の工業力が貧弱なことから駆逐艦や潜水艦、それに砲艦と言った小型艦に限られていた。しかし大型の艦艇も確かに建造を開始していた。もちろん中国国内ではなく、外国でであった。


 その国というのはドイツであった。実はドイツという国は結構な武器を中国に売りさばいていた。特に第一次大戦後は、敗戦国であるドイツからでもがっぽがっぽ兵器を買ってくれる中国は大事な顧客であった。


 また退役軍人を中心にして軍事顧問団も中国に派遣していた。中華民国陸軍の軍装がドイツ式となったのもこの辺りが大きく影響していた。


 そのドイツは第一次大戦後に大きく軍備を制限されたが、それにもめげず諸外国でその研究と開発を続けたのは前話でも書いた。中国もその1つだった。敗戦国となり、その後の世界恐慌で大打撃を受けたドイツとしては、それこそ何でも商売の種にする必要があった。


 そこでドイツは、陸上兵器や航空兵器のみならず海上兵器も中国に売ることにした。何しろ陸上兵器は大量に売れるが利益が少ない、航空兵器は技術的に未完成の部分が多く(実際ドイツが中国に売り込んだ機体は低性能)、さらに中国ではアメリカ製が幅を利かしていた。そうなると売れそうで、大きな利益を得られるのは海上兵器だった。


 しかも海上兵器は各国が軍縮条約に縛られて新規建造を打ち止めしているため、出しぬくまでは行かないまでも、同水準を保っておける。中でも潜水艦は自国での保有が禁止されているから、なるべく建造と運用の両面でノウハウを溜めておきたい物だった。だからこそソ連向けに作った。ここで中国向けに作ればさらにノウハウを溜められる。しかも中国の場合はソ連と違って、それなりに大きな海に面している国というのも好都合だった。


 一方中国からしてみれば、潜水艦は少人数で扱えるし、戦艦や空母を中心とする大艦隊を保有する日本海軍に対して、反撃できる有効な手段と見られた。


 そう言う訳で、ドイツから出張した技術者の指導の下で中国製Uボートの建造が開始されたのであった。ちなみに水上艦艇で巡洋艦以上は先程も書いたとおり全てドイツで建造されている。これらは後にナチス海軍の「M」級軽巡にデータを提供している。


 さらにスパイ情報からこれら中国潜水艦隊は、朝鮮半島から目と鼻の先にある青島に配備される可能性が濃厚となった。これは日本にとってはソ連に続く脅威である。


 結局これが決め手となり、日本海軍は通商路防衛に用いる艦隊である近海防衛艦隊設置の予算を議会で成立させたのであった。ちなみに護衛艦隊ではなく防衛艦隊という名称になったのは、平時でも救難や国境警備、漁業監視などの任務を担当することとなったからだ。


 とにかく紆余曲折の末、1934年に近海防衛艦隊が設置され司令部は対ソ戦を意識して舞鶴に置かれることとなった。初代司令官には英国留学の経験があり、第一次大戦時は第一特務艦隊に参加し、軍縮の煽りで予備役編入となっていた杉下左京少将が現役復帰の上で就任した。


 また一部の勢力が中国進出を企む陸軍の方でも、自前の航空機搭載強襲揚陸艦や高速輸送艦、外洋航行能力を持つ砲艦の建造を開始した。


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