一次大戦後 3
第一次大戦中に発生したロシア革命は、それまでロシア全土を治め、世界一の富を保有していたロマノフ王室を玉座から追い出し、世界初の社会主義国家を誕生させた。
もっとも、労働者と農民が統治する平等な国というのはスローガンに過ぎず、実質はレーニンが提唱した中央政府指導型の独裁国家であった。ロマノフ王朝や、それを支えていた貴族や教会関係者を追い出して、共産党という名の新たな支配者がロシア全土を征服したに過ぎなかった。
そうして誕生したソビエト社会主義連邦であったが、実質の所内情はお寒い限りであった。ロシアは広大な領土こそ持ち合わせているが、近代化やインフラの整備は遅れており不完全であった。さらに第一次大戦で国力は疲弊しており、そのためソ連が設立後最初に行ったのはドイツとの講和と、一部地域の独立承認だった。
レーニンはそれらを平和のためと明言したが、果たしてそれが本当にソ連の容認せざることであったかは、その後第二次世界大戦時の膨張主義を見れば分かるであろう。少なくともレーニン以後は違ったようだ。
そんな感じで出来上がったソ連であったが、最初の頃は皇帝派や反共派が抵抗して内戦状態であり、ロシア全土の統一が成ったのはもう少し後のことである。
統一がなった後も、ソ連は苦しい状況に置かれた。社会主義は王の存在や資本主義の否定等、諸外国から見れば過激な考え方であった。当然、さすがに攻めるまではいかないまでも、容認しない国や関係を持とうとしない国は沢山出た。
おかげでソ連は民生的にも軍事的にも国際的に孤立した。ソ連が混乱から脱して、経済的にもある程度立ち直り、本格的に世界の表舞台に登場するのは1930年代後半からだ。それも多くの粛清やら資産没収の上でだ。
国際社会に復帰するまでは同じように国際的に孤立したドイツと仲良く付き合ったりしている。第一次大戦で敗戦国となったドイツは、経済的には多額の賠償金に苦しめられた。また軍備も大きく制限された。特に航空機と潜水艦の保有が禁止されたのは大きな打撃であった。
しかしゲルマン魂は敗戦しても健在だった。ドイツは戦勝国の目を潜って、保有を禁止された兵器の研究を進めた。航空機の場合は主に外国にダミー企業が作られ、そこで研究が続行された。潜水艦もそうである。これらの研究が後の第二次大戦で大いに生かされたのは言うまでもない。
そうしたドイツが研究を行った国には先ほども少し書いたとおり、ソ連もあった。ドイツとソ連はラッパロ条約という秘密条約を結び、ソ連はドイツに兵器開発と兵士の訓練用の場所を提供した。対するドイツはソ連に兵器の技術(もちろん1世代遅れ)や戦術を提供した。
ドイツとの交流を通して、ソ連はドイツから多くの技術を吸収して行った。そうした技術を活用したからこそ、1930年代後半には経済的のみならず、軍事的にも復興を成し遂げるのである。その頃ソ連の指導者はレーニンから、グルジア出身の独裁者スターリンへと変わっていた。
ソ連が軍事的に復興しつつあった時期は、日本が満州国を建国し、さらに中国大陸への進出を図った時期と同じであった。かつては軍事的には大きな脅威とならなかったソ連も、この頃には思想的のみならず、軍事的にも大きな脅威となってきた。
ソ連を軍事的に重視したのは、もちろん明治以来仮想的をロシアと定め、満州国を操る帝国陸軍であった。人口の面から大きく日本を上回り、過去から極東の不凍港を求め、日本と直接国境を接しているのだから当然である。
一方の帝国海軍の方は、日露戦争までは仮想敵国はロシアであったが、その後は太平洋を挟んで対峙するアメリカに仮想敵国を移している。
ロシア海軍は帝政の最終期になって大幅に拡張され、極東とロシア本土に2個艦隊を保有し、戦艦を20隻近く保有していた。しかしながら、戦力的には日本海軍を上回っていたにも関わらず、運用の不味さからそのほとんどを日露戦争で失ってしまった。
その後ニコライ2世皇帝は海軍の再建を行い、第一次大戦時にはさすがに日露戦争当時のような大艦隊まで行かないまでも、30cm砲12門を持つ弩級戦艦を7隻保有するまでに復活した。
しかしながらそれら復活した海軍力も、第一次世界大戦とその後の革命戦争の中で失われてしまった。わずかに残った戦力もボロボロであり、しかも沿岸警備をする能力しか残されていなかった。
その後もしばらくの間は国内の復興や陸軍の整備が優先された。広大な国土を持つ陸軍国であるから、海軍の整備が先送りされるのは当然である。
ようやくソ連で海軍力の整備が開始されたのは、スターリンが台頭した頃であった。つまり国内が一応落ち着き、軍備の復興が軌道に乗った頃であった。
スターリン政治の特徴は、極端な反対派の粛清や膨張主義が上げられる。どちらもその後の歴史において悪名高い(何せ殺した人間の総数ではナチス以上)が、膨張主義は軍備拡大とイコールであった。その中で海軍に関して進められたのが、「ソビエツキ・ソユーズ」、「クロンシュタット」を始めとする超弩級戦艦や高速巡洋戦艦の建造であった。
日本海軍がその誇りとして建造した「大和」級や「長門」級にも対抗できる戦艦の保有による海軍の復活こそスターリンの夢であった。
この辺りは同じ陸軍国のドイツ海軍が策定したZ計画と通ずる物がある。そしてもう1つ通ずる物として、あまりにも国力を無視した計画であったことだ。
復興してきたとはいえ、ソ連の国力は未だ心細く特に重工業の分野では大きく立ち遅れていた。加えて海軍の戦艦の建造も20年近くストップしたために、当然建造ノウハウ等ない。保有してさえいないから、あらゆる面で経験不足であった。駆逐艦でさえイタリアから技術供与を受けて建造された物であった。
スターリンが進めた大艦隊計画は、ソ連にとって絵に描いた餅であった。こればかりは国力と直結しているだけに、スターリンも認めざるを得なかった。
しかしながら、大艦隊計画が出来る出来ないに関わらず、とりあえず老朽化した艦艇の取替えや、ある程度の海軍の整備は重要であった。
ソ連海軍では上記したとおり、イタリアから駆逐艦の技術供与を受けたりして当座の海軍力整備を開始した。そしてそこで目に付けたのが、第一次大戦時に連合国を震撼させた潜水艦であった。
潜水艦であれば建造コストが割高となるが、乗員の数は水上艦より少なく、多数を集中投入すれば大きな効果が挙げられる。しかも、敗戦国であるドイツから建造技術や運用ノウハウを買うことも出来た。
そう言う訳で、ソ連海軍では大幅な潜水艦の整備が行われ、1930年代中盤からそれらが次々とロールアウトし、各方面の艦隊へと配備された。当然極東艦隊にも多数の潜水艦が回航され配備されている。
この事態に慌てたのが日本海軍であった。ソ連海軍が潜水艦隊を配備したのは日本から目と鼻の先であるウラジオストクやナホトカだ。もし日ソが戦争状態となった場合、数少ない水上艦艇等は連合艦隊や基地航空隊で一蹴できる。しかし潜水艦が日本の港湾に侵入したり、大陸や朝鮮半島との交通線を攻撃されたりしたら一大事であった。
ここに来て、帝国海軍は再び対潜作戦と対潜戦備に関心を傾けざるを得ない事態に陥った。
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