一次大戦後 2
西洋列強が言う所の近代化が遅れた日本では、海軍は幕府・明治政府という交替こそあったがその創設は政府が中心となっている。ところが、日本海軍がお手本にした英国海軍の場合は、海賊の寄り合いからその歴史がスタートしている。
そうした歴史的背景が影響してか、英国海軍では古くから一般の商船や漁船の水夫・漁夫を戦時になったら動員して戦う英国海軍予備員制度があり、それら水夫らは予備団という組織に属していた。
これら英国海軍の予備員は定期的に海軍に呼び出され軍艦に乗り込む等して訓練を行い、専用の練習船まであった。なお日本海軍の英雄東郷元帥も英国への留学中にこの練習船に乗り組んで訓練している。
こうして平時からたしなむ程度とはいえ戦う訓練を施されていた予備員たちは戦時になると逼迫する艦艇の乗員不足を埋めた。第一次世界大戦において英国海軍が多数のQシップや対潜トロールと言った対Uボート艦艇を運用出来たのも、これら予備員の存在あってこそだった。中には代将とは言え将官にまで出世した人間も出た。
予備員制度は、四方を海に囲まれた小さな島国である英国が、海を支配し自国の生存を守る上で必要不可欠な制度であったのだ。
一方その英国海軍を範とした日本海軍にも、この予備員制度があり高等商船学校を卒業した商船士官がそのまま海軍予備士官、予備下士官に任命されていた。
ところが、制度こそあるものの日本海軍がそれを上手く使っていたかと言うとそうではなかった。むしろ宝の持ち腐れの感が強かった。
日本側では確かに予備士官、予備下士官を大量にプールしていた。ところが、それらを実際に使った場面はこれまでにほとんどなかった。演習に参加させたり、それどころか艦艇に乗せたりすることさえなかった。
日本海軍がようやくこの状況に気づいたのは、第一次世界大戦において地中海と英国へ派遣された艦隊が現地の英国海軍将兵と交流を行い、さらに戦後になって各国海軍の現状調査を行ってからだった。
第一次世界大戦に参加して、進んだ欧州の海軍の現状を見た日本海軍では、再び欧州から学ぶ気運が高まっていた当時、この予備兵制度の見直しも再び行うべしという意見が出てきた。特に地中海で英国海軍の戦いを見た特務艦隊の乗組員や、商船船員から顕著だった。
一方で戦後不景期となり、さらに終戦後間もなくワシントン軍縮条約や不戦条約が締結され軍備縮小へ向かう時代、ただでさえ正規の軍人の雇用を守るのさえ危機を迎えている状況で、予備兵のことなど構っている場合かという意見も当然出た。
結局議論の末、いつ起こるかわからない戦時において陛下からお預かりした戦力を上手く使うのが軍人の務めとして少数ずつを毎年行われる演習で艦艇に乗せるということで決着した。
そして大正13年の演習から、予備士官と予備下士官の演習による招集が開始された、その多くは航海科・機関科であり乗せられた艦も軍艦は少なく、多くが補助艦艇に乗せられたが、むしろそちらの方が予備士官、予備下士官にしても使いやすかった。
この数年後には海軍内で、戦時の補助艦艇を使うのは予備士官、予備下士官であるというイメージがほぼ固定した。
そして時代は1920年代を過ぎ1930年代へと向かって言った。その間に上記したようにワシントン軍縮条約が締結された。この軍縮条約は当初日本側の外交暗号が解読され手の内を読まれたため、米英側にリードされた。
その途中で、ついに日本側が外交暗号を解読されているのに気づき形勢逆転を狙った。しかしながら、会議全体の流れを覆すのには至らなかった。結局日英同盟の破棄や、南洋諸島の非武装化を受け入れざるを得なかった。
それでも主力艦保有量に関しては日本側の最後の粘りによって、当初の対米英7割から8割にまで近づけた。日本側が極端な保有量減は軍民問わずの大規模反発を招くことをチラつかせ、さらに日本側が非武装となる南洋諸島を含む広い海域の制海権保持の重要性を訴えた結果だった。
この会議によって旧式戦艦のほとんどは廃棄するか処分、格下げとなったが、ドイツから賠償として得ていた低速ながら40cm砲搭載の「美濃」、そして完成間近だった「陸奥」の保有が交換条件無しに認められたのは画期的な成果だった。
また高速の巡洋戦艦2隻が空母として転用されることとなった。「赤城」と「天城」である。「天城」は関東大震災に被災して一時期復旧は絶望と見られたが、ドッグ内での固定がしっかりしていたので、その後「赤城」からみて4年遅れで竣工している。そのため「天城」は当初から1段式甲板で完成している。
一方対潜技術に関しては、しばしの間大規模な進展はなかった。一応第一次世界大戦の教訓を生かす形で、艦隊における対潜運動や戦法に関しては大きく進展した。これには日本海軍側も潜水艦の能力と技術が大きく発展したことも関わっている。また航空機の性能が飛躍的に進歩すると、水偵や飛行艇による対潜警戒と言う概念も誕生して取り入られている。
しかしながら船団護衛に関しては充分な概念が生まれず、その研究も進まなかった。一応フィリピンを基地とする潜水艦の近海航路への攻撃を想定して駆潜艇の建造が行われた。
海中の音を探る聴音機の開発も行われた。採用された91式聴音機は、雑音も多く低速でなければ使用できないという欠点を持っていたが日本海軍としては、潜水艦は潜航中のスピードが遅いということからこれで充分な性能とされた。
また同時に91式探信儀も開発された。こちらは海中に音波を飛ばし、その反射から敵の位置を探る機械のことである。こちらも、日本の電子技術の遅れから性能が不安定であった。
双方ともに改良型が現れるのは日中戦争後に92式の感度を高めた99式までまたなければならなかった。
当時の日本海軍では国家全体への補給線がそこまで長くならないとされていた。性格には千島・本州・朝鮮半島・遼東半島・台湾・南洋諸島間とされていた。アメリカとの戦争重視であるため、南方との輸送路はまだそこまで重視されていなかった。だからこそ後の海防艦のような1000t弱ではなく、500tにも満たない駆潜艇を建造したのであった。
先ほども書いたとおり、フィリピンの米軍が気になるところであるが、これは早期に占領するのが日本海軍の方針であった。
そうした通商路防衛の軽視は、その役割を担う各鎮守府の防備部隊の士気下げという形で現れた。一応潜水艦の脅威が認められ、艦隊における対戦技術は向上の兆しが見えた、現に水雷学校でも対潜術が新たに科目として取り入れられている。
しかし防備部隊は元々が花形の前線戦闘部隊とは無縁の地である上で、その装備や活躍が見向きされないのであれば問題であった。防備部隊が人材の墓場という向きさえ出てきたのもこの頃だった。
この状況は、中国大陸でキナ臭さが増してついに満州事変が勃発しても何ら変わるところがなかった。ところが、状況がそれこそ大きく激変する事態がついに訪れることとなる。
その翌年日本の傀儡国家である満州帝国が成立(一応日本国内にも完全独立形式を望む声があった)し、ソ連と直接国境を接するようになった。いきおい、それは日本がソ連と名を変えたロシアに再び目を向かせる要因となった。
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