一次大戦後 1
1918年11月にドイツで革命が発生、皇帝ヴィルヘルム2世は退位しオランダへと亡命した。これによってドイツ帝国はわずか48年の歴史に終止符を打つこととなり、それと同時に戦争は連合国側の勝利で幕を閉じることとなった。
第一世界大戦はそれまでの戦争と一変した様相を呈し、各国の軍備や戦術に大きな影響を与えることとなった。それはまた連合国側に参加し、はるばる大西洋・地中海・欧州西部戦線に兵を派遣した日本も同じであった。
日本はこの戦争でドイツのアジア・太平洋地域の植民地を正式に自国領土へと編入することに成功し、その一方で戦艦・航空機・Uボート等多量の兵器を戦利品として獲得することにも成功した。
この内航空機とUボートは日本では大幅に立ち遅れていた分野であったことから、日本に到着後は徹底的な調査が行われ、その技術的進展に大きな役割を果たした。
しかしながら、戦争の結果自体には多くの国民・軍人から不満が出た。確かに多くの戦利品は得たが、はるばる軍を遠征させた割には犠牲に対して実入りが少ないという意見がその過半であった。特に最新鋭の戦艦の撃沈や、西部戦線における膨大な戦死者数は問題であった。
さらに中国における利権も、当初21箇条で要求したもののほとんどは青島の租借と引き換えにベルサイユ条約で破棄されてしまった。これには要求を突きつけた袁世凱政権が直後に倒れてしまったことも原因にあった。
これらと戦後に襲い掛かってきた不景気が影響して、世間の政府と軍に対する風当たりは強くなり後のシベリア出兵の際日本軍は大幅な兵力と駐屯期間の削減を余儀なくされた。
また第一次大戦後に帝国海軍が策定した八八艦隊計画にも国内から反対が続出することとなった。大西洋と北海での海戦において、「比叡」が撃沈され、「金剛」が大破されたことが海軍の威信を大きく揺るがしていたからだ。
ちなみにこの予想外の戦艦撃沈に対して日本側は講和条約でゴネテ、ドイツ海軍の超弩級戦艦であった「ザクセン」級1隻を戦時賠償として取得している。またUボートもさらに2隻多く取得している。
「ザクセン」は日本到着後に「美濃」と改名され、その後の改装で40cm砲搭載艦となっている。
こうした動きとは別に、地中海で経験した海上護衛を重視する声も出始めた。特に第二特務艦隊司令官であった佐藤中将はその急先鋒であった。またそれに賛同する声はその他の軍人や、補給に苦労した陸軍からも出た。
しかしながら、やはり頑固に艦隊決戦主義に凝り固まってきた海軍の多勢の意見を覆すのは容易ではなかった。もっとも、彼らも対潜能力の向上については研究を進展させるべきであると考えていた。「金剛」、「比叡」、その他の艦艇が多数魚雷を発見できぬまま被雷し撃沈はされていたことから目を背ける(国民も知っていたので土台無理がある)ことは彼らと言えど出来なかった。
一方海上護衛の概念は充分に海軍内で根付いたとは言えなかったが、代わりにそれを重視したのが攻撃される側であった商船会社と陸軍であった。彼らの間で「海軍がやらないなら俺たちでやる」という考えが生まれるのは至極当然の話であった。
貧乏国である日本において本来このような非効率な考えを浮かべることは全く持って不利益なのだが、それを知ってか知らずかやっちゃっうのが昔の日本であった。(今もか?)
まず商船会社の方は、日露戦争時から始まっていた砲座の取り付けに関する船体の強化や、船の武装化を本格的に進めた。武装化といっても機銃を1〜2基取り付け小銃を船内に持ち込む程度であったが、本来日本では武器を持つのは統帥権の下に置かれた陸海軍であるからこれは御法度である。
当然海軍から商船会社に批判が起きたわけだが、あくまでこれは戦時において独航する船から浮上してきた潜水艦を威嚇するためと特設艦船への転用を予想しての処置とした。それに加えて、商船会社としては平時も海賊船対策として武器を載せるメリットがあった。
結局船体の強化と武装化については認められることとなった。ただし武装化については海賊多発地域を通過する船舶のみで、その検査は厳重なものとされた。
ちなみに、後にこの考え方を逆手にとって船舶助成施設制度(史実とは内容が違う)が施行されることとなる。
また陸軍の方は、本格化するのはこれから10年後であったが少なくとも自前で部隊を運び上陸させることと、そのために輸送部隊に武装船舶を使う構想がこの頃から想定された。特に上陸用舟艇は第一次大戦時のトリポリ上陸作戦の失敗の戦訓が伝わったために急速に進められた。
こちらも本格的な武装輸送艦艇を建造しようとした所で海軍から横槍が入ることとなるが、そうなるのはもう少し後の話である。
これに対して海軍は具体的にどのようなことをしたかというと、取り敢えず戦利品として獲得したUボートを徹底的に研究した。前記したように日本側が獲得したのは9隻であったが、その性能は日本の保有する潜水艦を遥かに上回る性能であったため、すぐに日本海軍に編入されるとともに、これらを模倣した新型潜水艦の建造を開始している。
また模倣だけでは当然今後の技術的発展が望めないので、敗戦国となったドイツから技師を招聘して、若い造船士官の教官として働かせている。
ちなみに敗戦国となったドイツであったが、そのゲルマン魂は健在でヴェルサイユ条約で航空機や潜水艦の開発を禁止されながらも、中立国や新興国であるソ連等で開発を継続している。彼らは祖国のために辛酸を舐めつつも、決して技術の進歩を怠らなかったのだ。
日本海軍に編入されたUボートは早速水上艦隊との演習に用いられたが、やはりここでも水上艦艇が気づかない内に魚雷を発射し、見事有効弾を与えている。このことは改めて日本海軍に潜水艦の発見が困難であることを気づかせた。
その一方で、水上艦艇側も潜水艦が鈍足であることに目をつけ高速による回避運動を行う等している。ただし、それは敵の攻撃を防げるが撃沈できるわけではなかった。
そこでまず駆逐艦に対して、当時はまだ新装備であった爆雷の搭載が始まっている。当初は軽巡に載せる動きがあったが、演習の結果敏捷な駆逐艦の方が効果的と判断された。
ただしソナーの開発はまだ先であったため、敵潜水艦を発見する手段については今しばらく目視に頼らざるを得なかった。
一方通商保護については、上記したように充分な概念が育たずに終わった。第一世界大戦では英国やドイツが通商路を締め上げられて苦戦したが、やはり遠い異国の話に過ぎなかった。ただし、佐藤少将や陸軍が指摘した遠征軍の補給に対する問題は真剣に討議された。
陸軍ではまずそれまでの現地調達の考え方が改められ、充分な兵站線の確保が新たに定義され、それはまた機械化と共に進展した。
海軍についても、第二特務艦隊や陸軍の実情を鑑みて少なくとも遠征部隊に対する補給と、そのための輸送手段や、その保護についての考え方が重要視された。
そのため戦時においてそれらを輸送する船舶の護衛を行う艦艇の建造が提起された。後にこれはワシントン条約で主力艦艇が制限され、補助艦艇の建造が重視されたために実現することとなる。
また前線が延びればそれらの艦艇数も増えることから、人員の動員に関しても見直しが始まり、第一次大戦で英国の影響を受けたこともありそれまで有効に活用されていなかった予備士官・下士官制度が見直されることとなる。
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