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真の海防  作者: 山口多聞
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終盤戦 9

 もしかしたら永久に放置もありえたのですが、Y先生に急かされたのででっち上げました。


 これなら後2~3話で終わらせそうです。

 1945年5月に行われたバレンツ海海戦は、日独双方にとって敵軍侮りがたしという印象を濃くした戦いであった。


 ムルマンスクに向かう船団を護衛する日本艦隊と、それを阻止せんとするドイツ艦隊との戦闘は双方ともに被害こそ小さかったものの、後の戦史に残る海戦となった。


 その原因は何かと言えば、この時ドイツ艦隊には28cm砲6門を主砲として搭載する2隻の装甲艦が含まれており、砲力においては日本艦隊の2隻の「高雄」級(主砲は20cm砲8門)を圧倒できる筈であった。


 ところが、艦隊司令官のクメッツ少将はこの2隻の装甲艦に被害が出るのを嫌がり、終始長距離砲戦を行ってしまった。波の高い北極圏の海上で、長距離砲戦は流石に無謀であった。目標の輸送船団に砲撃する以前に、護衛の巡洋艦「愛宕」のマストを吹き飛ばしただけに終わった。


 一方「愛宕」座乗の高木少将も装甲艦が無闇に接近してこずに長距離砲戦を挑むとわかると、こちらも接近せずに回避運動に専念した。一応形ばかりの砲撃を時折行ったが、もちろん当てる気などはないこけおどしであった。


 そんな無様な砲撃戦とは対照的に、重巡「アドミラル・ヒッパー」と軽巡「ミュンヘベルグ」、そして3隻の駆逐艦は勇躍船団へと突貫した。駆逐艦の内2隻は空母「エウロパ」を護衛して離脱していた。


「ミュンヘベルグ」は新鋭のM級巡洋艦で、15,5cm3連装砲4基を搭載した強力な砲兵装を誇る艦であった。また駆逐艦もフランスから捕獲した大型駆逐艦で、耐波性能に優れていた。


 5隻は猛然と輸送船に向かって突貫した。


 これに対して、伊丹少将座乗の護衛巡洋艦「瀬田」と駆逐艦、護衛駆逐艦も反撃を開始した。日本艦隊の護衛巡洋艦と駆逐艦はいずれも砲力でドイツ艦隊の艦艇に劣っており、小型であった。


 しかし航洋性能に関してはドイツ艦艇にひけを取らない性能であり、さらに米英からの技術供与によって搭載した射撃指揮レーダーなど電子技術で勝る面があった。


 このため、日本側は次々とドイツ艦艇に砲弾を命中させた。一方ドイツ艦隊はそれらの攻撃に耐えつつ攻撃を繰り返し、日本の護衛駆逐艦など3隻を大破させた。


 ただし、そこまでであった。日本海軍必殺の酸素魚雷が独駆逐艦Z72に命中し、真っ二つに折って撃沈してしまったからだ。もっとも、魚雷を発射した護衛駆逐艦91号も後に沈没してしまったのだが。


 さらにその被害にも挫けず船団に近づいた重巡「ヒッパー」に炎上する護衛駆逐艦が体当たりを試みた。これは不成功に終わったが、「ヒッパー」は変針をしたため攻撃の機会を永久に逸してしまった。


 もちろん体当たりを試みた護衛駆逐艦は集中射撃を受けて撃沈されたが、船団を守ると言う目的だけは達した。


 その後独艦隊は砲弾を消耗してしまったことで戦闘続行不可能となり、やむなくノルウェーのアルテン・フィヨルドに引き返した。


 結局、日本艦隊は護衛巡洋艦や駆逐艦など5隻が大破し、さらに前述した護衛駆逐艦91号を含む3隻の駆逐艦と護衛駆逐艦が沈没した。対してドイツ艦隊の被害は大型駆逐艦1隻撃沈であるから、海戦自体は痛み分けと言って良かった。


 しかしながら、日本艦隊は自らの身を犠牲にすることで船団護衛を完遂したのに対して、ドイツ側は自軍の有力な戦力を使いきることができず、ムルマンスク行き船団の阻止という目的を果たすことは出来なかった。


 既に1945年6月時点でナチスドイツはジワジワと連合国によってその国力を磨り減らされており、当然フィンランドを中立国として繋ぎ止めておくための援助も少なくなりつつあった。逆に連合国はフィンランドへの援助物資をさらに増やしていた。


 ドイツにとってフィンランド行き荷物の到着を極力減らすことは、フィンランドを自陣営につけておくための大戦略にとって必要不可欠であった。


 事実、この船団がムルマンスクに無事入港してフィンランド向け荷物が荷揚げされてしまったこと、さらにドイツ艦隊(主にクメッツ提督の装甲艦)が消極的(に見える)な戦いをしてしまったことは、フィンランドの連合国に対する友好度をあげ、相対的に枢軸国に対するそれを下げてしまった。


 この事態に、ヒトラー総統は海軍総司令官のレーダー元帥を呼びつけて叱責するという事態になった。


「レーダー君!クメッツ提督は一体何をやっていたのかね!やる気のない提督など我が軍にはいらん!即刻クビにしたまえ!」


 このヒトラー総統のお言葉により、クメッツ提督は即日艦隊から降ろされて予備役編入となった。


 ただそれでも、水上艦艇不用論にまで行かなかったのは、ムルマンスク到着後に日本艦隊が受けた新聞社の取材で、ドイツ艦隊(この場合巡洋艦以下の活躍)を賞賛したからであった。


 手強い敵から賞賛を受けることは、軍人にとって名誉であるからだ。


 ヒトラーも海外で自分の軍が賞賛されていることを機嫌を直し、「ヒッパー」の艦長や水雷戦隊の司令らに勲章を与えて報いている。


 一方日本海軍にとっても、この海戦はドイツ海軍水上艦隊の高い練度を知った機会でもあった。特に、それまで2流以下と思われていた巡洋艦や駆逐艦が非常に大きな働きを行ったことは注目に値することであった。


 もちろん、2隻の装甲艦があまりにも場違いな消極的戦闘に終始したことも事実であったが、これに関してはそもそも以前からその力量に疑問がもたれていたクメッツ提督であったため、差ほど問題にならなかった。


 クメッツ提督は以前の戦いで船団を全滅させたこともあったが、その時は護衛戦力が圧倒的に劣っており、彼にとっても冒険できる機会であるに過ぎなかったのだ。

 

 クメッツ提督はかつてノルウェー攻略作戦のさいに、新鋭巡洋艦の「ブリャッヒャ‐」を大破させ、駆逐艦3隻を沈められる失態を演じており、それ以来戦いは消極的になってしまったとされる。


 それでも艦隊司令官であり続けられたのは、地理的に北欧圏にしばらく有力な敵がいなかったことと、その後も会敵した相手がクメッツにとって都合の良い相手であったこと、さらに言うならドイツ海軍が未だに高級幹部不足に悩まされていたからであった。


 ただどう取り繕うが、この戦いでドイツ海軍が戦略的な大敗北を決したのは間違いないことで、しかも艦艇の多くに損傷艦が出たことから、以後の戦いは益々消極的なものとなってしまった。連合国輸送船団は大手を振ってフィンランド向け物資を運び続け、ついにフィンランドを連合国陣営に組み入れたのは1945年10月のことであった。


 そして、日本海軍近海防衛艦隊はこの海戦において護衛駆逐艦を失ってしまい、艦艇としての水上戦闘における脆弱性を浮き彫りにすることとなった。ただし、こちらはそもそもが想定の範囲内のことであった。


 近海防衛艦隊が使用する護衛巡洋艦や護衛駆逐艦、海防艦と言った艦種はそもそも水上戦闘を想定した設計ではなく、そうした場合は数で押し通し、その穴を量産で埋めるというコンセプトで建造されていたからだ。


 事実、この戦闘で消耗した艦艇は短期間で補充されており、護衛戦力は全く減らなかった。


 対するドイツ海軍はただでさえ少ない艦艇を損傷し、しかもまともな修理すら行えない(浮きドッグを持ち込んでいたとはいえ、フィヨルドでは限度がある)状況に陥ってしまった。


 ナチスドイツ最後の時は着々と近づいており、日本海軍の海上護衛戦力がそれに対して大きな貢献をしていたのは、紛れも無い事実であった。

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