終盤戦 8
1944年8月に実施されたムルマンスク攻略作戦は、実質的に連合国とフィンランドによる合同作戦であった。
ムルマンスクは北極圏に位置するソ連の港湾都市であり、ソ連北洋艦隊の拠点でもある。連合国はこの地を一時的に占領下に治めて、北海・バルト海・フィンランド湾を経由しなくてもフィンランドとの交易ルートを確保しようと目論んでいた。
北極圏と言う厳しい気候環境のもとでの作戦となったが、充当された米英機動艦隊の航空隊による空襲によって北洋艦隊の艦艇と、ムルマンスク周辺の飛行場、要塞が破壊されたのを皮切りに、連合軍は順調すぎるほどのスピードで攻略作戦を展開した。
ソ連軍も南方から増援を寄越そうと躍起になったが、ムルマンスクへの兵員輸送手段がわずかに鉄道1本しかなく、それさえもフィンランド軍によるゲリラ部隊と、連合軍航空隊の波状攻撃によって運航不能に追い込まれた。
鉄道以外の陸路による輸送も試みられたが、大量の戦力を輸送するには不向きなことこの上ないことに加えて、これすら戦闘と空襲によって途絶させられてしまった。
ソ連軍ムルマンスク守備隊は、抵抗を試みたものの物量に物を言わせて上陸してきた連合軍の前に、為す術も無く、わずか3日で白旗を揚げざるを得なかった。
ソ連としては、この方面から連合軍がカウンターパンチを仕掛けるとは全く考えておらず、陸上戦備に関しては最新型のIS2型戦車どころか、現在主力となっているT34の初期型すらわずかしかなく、主力はBT7型やT26戦車と言う状況であった。守備兵力も、数こそ充分だったがその装備や質は2線級レベルでしかなかった。
ムルマンスクを本拠地とする北洋艦隊も、わずかな数の巡洋艦と新型駆逐艦を除けば、その多くが旧式の駆逐艦や潜水艦、魚雷艇などであった。これらの一部はよく奮戦し、連合軍の輸送船1隻、揚陸艦1隻を撃沈したが、最終的に撃沈されるか自沈するかして全滅した。
近郊の飛行場に配備されていた空軍の兵力も、お披露目程度のYak3やLag9を除けば、主力は旧式のMig3やI16と言った旧式機が中心で、とてもではないが最新鋭の米英艦載機には太刀打ち出来なかった。
こちらも、一部のパイロットが敢闘したものの、米英軍のF6FやF4U戦闘機の前に叩き潰されてしまった。
この連合軍の攻勢だけでも、ソ連軍には酷なことなのであったが、さらにフィンランド軍も陸路国境を超えて侵入し、ムルマンスクは完全に包囲されることとなった。
ムルマンスクが陥落すると、連合軍は現地を維持するだけで、それ以上の侵攻は行わなかった。彼らはナポレオンになる気はさらさらなかったのだ。
ソ連軍は何度か奪回作戦を試みたものの、いずれも尽く失敗に終わった。
連合軍はアメリカ製の重機を惜しみなく投入すると、短期間でフィンランド本国との間の道路を開通させてしまった。さらに、やはりアメリカ製の大量のトラックを使い、多量の物資をフィンランドへと運び込んだ。
こうして、その後ソ連との休戦が成立するまで、連合軍はせっせとフィンランド軍に武器をはじめとする様々な物品を運び続けたのである。ソ連との戦争開始以前から、既に中立国経由で武器の提供などを受けていたフィンランドであったが、この後際限のない連合国側の支援によって、短期間の内に攻めてきたソ連軍を排除したのみならず、冬戦争で奪われた領土の奪回にも成功したのであった。
また、この援助物資の輸送によって、フィンランドは枢軸入りを思いとどまった。と、同時に枢軸と連合を両天秤にかけた外交を展開した。
その後ソ連と連合国が休戦し、ムルマンスクはソ連に返還されたものの、ムルマンスク経由でのフィンランドへの物資供給は、その後も続いていた。フィンランドとスウェーデン向けの援助は、ソ連との戦争が終わった後も、フィンランドに枢軸陣営参加を思いとどまらせる意味から重要な手段であったので。
もっとも、対するドイツ側にしてみれば、面白くない話であった。自分たちの鼻先で連合国が活動しているのだから、当たり前と言えば当たり前である。
「フィンランドが連合国と通商を行うのはダメ!」と言うわけではなかったが(何せドイツ自身がその分け前を手にしていたため)、かと言ってフィンランドが万が一連合国入りしてもらうのも不都合であった。
そのため、ノルウェーに本拠地を置くドイツ艦隊と潜水艦隊、さらに空軍は連合国艦艇および、フィンランドならびにノルウェー船籍ではない商船への攻撃を盛んに行っていた。
この頃在ノルウェーのドイツ海軍戦力は、旧式となった装甲艦や重巡、駆逐艦、フランス・オランダなどの鹵獲艦が中心であったものの、改装空母の「エウロパ」を戦列に加えており、あなどれない相手であった。
1945年2月には、フィンランド向け船団と護衛艦の部隊がクメッツ提督率いるドイツ艦隊に襲われ、大損害を出している。
米英軍は、この在ノルウェー独海軍艦隊の殲滅を幾度と無く図ったが、ドイツ艦隊は連合国側が攻撃の兆候を見せると、すぐに引き返してフィヨルドに篭り、対空砲や空軍機の傘の元で安全を確保してしまっていた。
このため、米英軍はわずかな戦果のために、大損害を被っていた。
こうした事情から、在ノルウェードイツ艦隊は1945年5月現在も、北大西洋に睨みを効かしていた。
そんな中で、日本海軍の護衛艦隊がムルマンスク航路への護衛も担当することとなった。船団はアイスランドのレイキャビクに集合し、補給の後一路北へと進路をとった。貨物船やタンカーなど12隻からなる、小規模船団(あくまで大西洋における船団の規模としては)で、護衛するのは帝国海軍の巡洋艦2隻、護衛巡洋艦1隻、駆逐艦4隻、護衛駆逐艦6隻、護衛空母2隻、海防艦10隻であった。
商船に比して、護衛艦艇の数が物凄いが、これは船団がUボート、敵水上艦、ならびに敵空軍機の攻撃を受けるおそれがあったからだ。
艦隊司令官は護衛艦隊が近海防衛艦隊出身の、伊丹重蔵少将。連合艦隊艦艇が重巡「高雄」座乗の戦隊司令官高木勇一郎少将であった。なお出撃前の打ち合わせで、先任は伊丹少将となっており、敵水上艦艇との戦闘の時に限り、高木少将が指揮を執る変則的な指揮となった。
これは伊丹少将が対水上艦艇のキャリアが少なく、高木少将に任せたためであった。
艦隊と船団は、出港直後からUボートによる触接を受けたが、これはレイキャビクから飛んでくる対潜哨戒の爆撃機や、飛行艇によって退けられた。
この内飛行艇は、最新型の2式大艇改「閃空」であった。「閃空」は2式大艇をベースにしているものの、アメリカやイギリスの技術を取り入れた機体で、エンジン出力のアップや居住性能の改善、搭載武装の改良を施した機体であった。
この機の搭乗によって、船団は長距離に渡って基地航空隊の護衛を受けられることとなった。
飛行艇以外にも長距離爆撃機や飛行船なども護衛任務に参加しており、これらはドイツ空軍の航続圏外ではドイツUボートの大きな脅威となった。ただし、戦闘機に適わないのでノルウェーに駐留するドイツ空軍の第5航空艦隊の活動圏内には、当然ながら入れなかった。
もっとも、ドイツ空軍にはそもそも長距離爆撃機や長距離戦闘機の数自体、あまり多くは無かったのだが。
それはともかくとして、この日本艦隊と船団出港の報告は、Uボートとアイスランドに潜入中のスパイの手によって、早速ベルリンへと送られた。
この情報に接して、ドイツ海軍総司令部はクメッツ提督の、在ノルウェー艦隊に対して出撃命令を命じた。さっそく北ノルウェーのアルテンフィヨルドから艦隊が出撃した。
ただし、機関故障や補給の関係から出撃できたのは装甲艦の「リュッツォー」、「アドミラル・グラーフ・シュペー」、重巡「アドミラル・ヒッパー」、空母「エウロパ」、軽巡「ミュンヘベルグ」、駆逐艦5隻であった。
そこまで多くはないが、それでも装甲艦の28cm砲は脅威であるし、日本艦隊(護衛艦以外)の数は上回っていた。
ちなみに、装甲艦とはポケット戦艦とも言える艦種で、重巡とほぼ同等の船体に、巡洋戦艦クラスの28cm砲を搭載したドイツ独特の艦種である。戦艦に対してはその高速を利して引き離し、重巡に対しては砲力で圧倒すると言う触れ込みであったが、実際の所通商破壊艦という色が濃い。
ポケット戦艦と言う通り名こそあるが、装甲は重巡程度なので戦艦と呼ぶには少しばかり無理がある。
しかしながら、例え装甲艦が戦艦もどきであるにしても、クメッツ提督らドイツ艦隊司令部としては、重巡と駆逐艦、護衛艦相手ならこれで充分と踏んだのである。実際彼らは2月の海戦で英国の巡洋艦を撃破していた。
ただし、その時は装甲艦がもう1隻いたのだが、そのもう1隻である「アドミラル・シェアー」は今回機関故障でお留守番であった。
このドイツ艦隊出撃の方は、日本艦隊にも届き、伊丹少将はただちに全艦船に警報を出すと共に、高木少将に対水上戦闘用意を発令した。
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