対ソ戦争終結
昭和19年が終わり、昭和20年へとなった。第二次世界大戦も大きな転換点を迎えようとしていた。
ドイツは以前その強力な軍事力を持って抵抗していたが、そのドイツに引っ付いて火事場泥棒のごとく参戦したソ連軍は、当初こそその兵力に物を言わせて中央アジアと極東方面で進撃に出ていたが、いずれの戦線でも連合軍の激しい反撃を受けて、進撃は停滞した。それどころか、開戦からわずか8ヶ月と言う時間しか経ていないのに、一部では逆に押し込められる事態に陥っていた。
大日本帝国も、同盟国(傀儡国ではなくなりつつある)の満州国と共に千島・樺太・満州・北太平洋で大規模な反撃に出ていた。その結果侵攻してきたソ連軍を押し返すと共に、この方面で唯一とも言えた有力艦隊であったソ連太平洋艦隊を撃滅させていた。
ソ連海軍はその後、潜水艦や魚雷艇、仮装艦船や機雷戦艦艇で日本海軍に対抗したが、それらも徐々に消耗していき、それどころか空襲によって基地ごと爆砕される例もあり、この頃には赤い星を付けた艦船は、太平洋どころから日本海や北樺太方面からすら駆逐されていた。
日本がソ連に優位に立てたのは、ただ単に海軍力で大きく勝っていたからではない。単に戦力を比較すれば、ソ連軍の戦力は日満軍を大きく引き離していた。特に陸軍力と空軍力は凄まじい物があった。
しかし、その質に大きな問題を抱えていた。当初ソ連軍上層部(と言うよりモスクワのクレムリン)は中央アジアや中東方面の戦線を重視したらしく、新鋭機や新鋭戦車を軒並みそちらに投入した。しかしながそちらの方面は英軍や現地派遣された日本軍、さらにはインド軍や各地の反共ゲリラによって激しい反撃を受けた。
そして極東方面には、数だけは日本側の数倍の規模だが質的にははるかに劣る兵器を投入した。さすがに複葉戦闘機こそ投入していなかったが、戦闘機の4分の1近くはノモンハン事変にも登場したI16戦闘機であった。
その他の戦闘機もMig1、Mig3、LaGG3、YaK1と言った実戦配備から3~4年は経っている機体ばかりで、最新鋭のLa7やYak3と言った機体は本当に極少数しか配備されていなかった。
爆撃機もノモンハン以来のSB3が多数配備されたままで、その他の機もDB2やIL4と言った機体ばかりで、高速爆撃機のPe2やTu2はやはりお披露目程度の数しか存在しなかった。
陸軍も戦車に関して言えば、半分近くがノモンハンでも使用されたBT7やT26で、総数の4分の1を占めたT34も一世代古い砲身が短く、口径も小さい76型であった。決して日本の使用する1式中戦車や3式中戦車、4式中戦車に絶対的なアドバンテージを持ってはいなかった。
日本戦車を凌駕できるT34/85やISU152は、やはりお披露目程度の数しか存在していなかった。これでは日本軍と満州国軍の戦車部隊に勝てるはずが無かった。
さらに言えば、膨大なそれら戦力を支えるための兵站用車両も不足していた。トラックや乗用車の数はそれなりに揃えていたものの、とても全ての戦線を支えきれる物ではなかった。
対して日本や満州側には最新鋭戦闘機や爆撃機が多数あった。特に配備されて間もない陸軍の3式重爆撃機「峻山」(キ91)は満州や北海道の基地からソ連邦深く進撃して大打撃をソ連軍に与えた。また配備されて間もない4式軽爆撃機「刃」(「流星」の陸軍版)も「剣」(「彗星」の陸軍版)と共に活躍した。
海軍も内地から戦闘機隊や陸攻部隊を進出させ、場合によっては機動部隊の艦載機を陸上基地に進出させると言う手段まで採った。
そして、何より日満軍の反撃を支えたのはアメリカより購入された大量の兵器であった。例えばアメリカ本国では持て余していたP63「キングコブラ」は、4式対戦車攻撃機として採用され、車両攻撃や鉄道襲撃、さらにはソ連軍自慢の河川砲艇や魚雷艇の攻撃にも活躍した。
また同じくアメリカより輸入された魚雷艇(PTボート)は、満州国江防艦隊ならびに海軍アムール派遣部隊に配備され、やはりアムール河に出没するソ連砲艇と激闘を交えた。
戦車や装甲車に関しても、多数が輸入された。中には砲塔を外して、鹵獲したソ連製野砲を搭載した自走砲や対空機関銃を搭載した即席の対空戦車まで登場した。
何より日本にとってありがたかったのは、アメリカより送られた膨大な量の自動車やトラックであった。これらは日中戦争後から始まった陸軍の機械化の後押しをした。当時の日本の自動車生産力では、とてもではないが陸軍の機械化を成し遂げるだけの力がなかったからだ。
その他に軍服用の生地や鉄道のレールなど、大量の物資がアメリカより購入された。これらも地味ながら日本の戦力増強に一役買った。
もっとも、購入とある通りこれらの対価はタダではない。戦後も日本は現金で払い続ける必要があるであろうし、その他様々な手段で処理する予定であった。例えば満州国への企業進出に際して、比較的有利な条件で可能にすることや、太平洋上の幾つかの基地の使用を許可すると言う物であった。
そうした面を差し引いても、アメリカからの支援は日本と満州国にとって必要な不可欠な存在となっていた。
さて、ソ連軍の進撃を跳ね返した日本軍と満州国軍は、そのまま今度はソ連領内へと逆侵攻を行った。まず手始めに6月、北樺太が南樺太より侵攻した日本軍によって占領され、日本はオハ油田を手に入れることとなった。北樺太はその後の停戦後の条約で、日本領へと編入されている。
また9月には連合艦隊主力部隊の援護の元、ウラジオストックに陸軍部隊と海兵部隊が上陸し、2週間に渡る激しい戦闘の末これを占領した。
翌月の10月、満州国への侵攻を完全に阻止した日本軍と満州国軍も反撃を開始した。関東軍と満州国陸軍の装甲列車部隊がソ連邦への進撃を開始した。
もちろんソ連軍は予め線路を破壊していたが、それは帝国陸軍と満州国陸軍の鉄道連隊が手早く修理、復旧させた。ここでもアメリカから輸入された様々な建設機械が投入され、大活躍した。
その後季節は厳しい冬に入ったものの、元々ソ連との戦闘を考慮し、さらに八甲田山での悲劇的な遭難事故以降様々な防寒グッズを発明していた日本軍と満州国軍は進撃を続け、翌年の1月にはチタを占領し、シベリア鉄道を東西で分断した。これによって抵抗を続けていたハバロフスクは完全に孤立した。
この事態に、ソ連上層部は大いに慌てることとなった。特にスターリンは軍の高官を何人か粛清するほど怒り狂ったが、そもそも日本軍を舐め切って、ドイツの尻馬に乗って参戦を命令したのは彼であった。
さらに言うならば、大粛清を行ってソ連をガタガタにしたのも彼であった。このお陰でソ連軍は戦術・兵器開発・錬度などあらゆる面で遅れを取る事となったし、国自体が様々な面で大幅な停滞を招いた。
そうした犠牲の上で行った重工業化も、アメリカを追い越すには至らず、さらにノルマ制の生産では品質の確保など出来るはずがなかった。もっと言えば、参戦が2年近く遅れた分も兵器開発や配備に大きな影響を与えていた。
現在は同盟国となっているドイツから技術輸入を行うなどしていたが、元々疑心暗鬼で相手を見ている者同士で行うことなど、タカが知れている。これがアメリカやイギリスと手を組んでいればなんとかなったかもしれないが、今更後の祭である。
この自体に、ついにソ連軍の一部士官がクーデターへと走った。彼らは神聖なるロシアの領土をむざむざと敵に渡した責任者をスターリンとして、救国のためには連合国と講和して再び中立へ戻ることこそ最善の手段と考えたのである。さらに付け加えれば、自分の責任を棚上げにして軍の高官や責任者を粛清し続ける彼や秘密警察長官のべリヤへの鬱憤が爆発したのも原因であった。
このクーデターは実行直前に察知され、クーデター軍は大損害を出したもののついにクレムリンへと突入し、スターリンとべリヤの暗殺に成功する。
ただし、クーデター軍もほぼ全滅しソ連は一時事実上の無政府状態となった。一歩間違えばドイツ軍が攻めてくる可能性もあったが、このドサクサに紛れて新たにニキータ・フルシチョフが書記長に就任し、軍の協力を得て国内の混乱を短期間で収めてみた。
さらに臨時首都となったレーニン・グラードから発せられた停戦命令は、混乱の中でしっかりと受信され、東西両方面のソ連軍は素早く連合軍との停戦交渉へと入った。
この結果昭和20年4月1日、ソ連邦と連合国各国は正式に停戦した。なお、戦時賠償などの講和条約が成立したのは、5ヵ月後の9月2日である。
ナチスドイツはこれを重大な背反行為としたが、もはやソ連邦には戦う気力もメリットもなかった。
こうして自国領の目と鼻の先での戦いを事実上の勝利で収めた日本軍は、ソ連軍の侵攻を受けた地域の復興を急ぐと共に、現地に展開していた兵力の一部を中東や大西洋方面へ転用し、対ドイツ戦争に再び傾注することとなった。
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