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真の海防  作者: 山口多聞
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戦線拡大 7

 アメリカ合衆国は戦前から民主主義国の武器工場を自称していたが、これは何も誇張や誇大宣伝ではない、それほどまでに、アメリカという国の工業力と国力は凄まじかったのだ。しかも、その凄まじさは戦争の時になると発揮される。


 例えば、第一次大戦を例にとるとアメリカは4本煙突が特徴の平甲板型駆逐艦をなんと256隻も量産している。もっとも、それらが完成した時には既に第一次大戦は終わり、多くの艦がモスボールされて保管されるという当事者からしてみれば笑えない事態も起きたが。まあ、その後第二次世界大戦まで大切に保管し、イギリス海軍に直に供与出来たのがせめてもの救いと言えようか。


 幸いなことに、第二次世界大戦においてはアメリカはそのように造った兵器が間に合わず、役立たずとなりあまってしまう様な事態には陥らなかった。もちろん、終戦となれば兵器があまるのは当然だが、少なくとも平甲板駆逐艦の二の舞は起きなかった。何せ、終戦に至るまでドイツ軍とソ連軍は日英米の連合国を苦しめたのだから。


 さて、第二次世界大戦が起きてアメリカが連合国陣営として参戦すると、同国は早速戦時体制への転換を図り武器の量産を大車輪で行った。この戦時体制への移行は中々骨の折れることだが、アメリカの場合一度団結すれば後はドンドン突っ走っていく。そして開戦から1年もすれば戦時体制は完成する。


 開戦から1年と言う期間は長いようで短い。下手をすれば、戦争の決着がついてしまうかもしれない。現にポーランドやフランスは1年どころかわずかな期間であっけなく降伏へと追い込まれてしまった。


 しかしアメリカの場合は、1年程度で屈服させられるようなヤワな国ではない。何より、地政学的に見て敵国であるドイツとは大西洋と言う名の天然の障壁が横たわっており、仮に大西洋方面の戦力が全滅したり物資輸送路が壊滅しても、太平洋方面から回せばなんとかなる。もっとも、実際そこまで悪化すれば国民は黙っていないだろうが、少なくとも簡単に倒せる国ではない。


 ドイツ海軍もアメリカ大陸沿岸にUボートを派遣し、何回か攻撃を行いはした。それによってタンカーが多数撃沈され、一時期石油を配給制にせざるを得ないところまで行きはしたものの、あくまでそれは民間の生活に関してで、軍需に致命傷を与えることは出来なかった。


 戦時体制が出来上がるまでは、アメリカと言えど予備戦力が少ないから戦力が消耗しても容易に回復できないが、1年経てばその状況は打破された。まず建造期間が短い駆逐艦・護衛駆逐艦・フリゲート・護衛空母と言った艦艇が続々と完成した。


 これらの艦艇は正に量産と言う言葉が相応しい勢いで建造された。特に護衛空母は1週間に1隻、駆逐艦に至ってはそれよりも短いペースで建造された。とにかく一つの種類の艦艇を数百隻単位で、しかも他の艦船の建造に影響を与えることなく進めるのだから恐れ入る。


 またこうした小型艦艇以外の戦艦や空母、巡洋艦も多数建造されている。特に100機搭載可能な新鋭の「エセックス」級空母は空母の数が不足した日英にそれぞれ2隻ずつ売却されながら、自国用にも17隻建造している。さらに後継の150機近い搭載数を誇る「ゲディスバーグ」級空母4隻の建造も行っている。


 戦艦も同様でトーチ作戦やニューカレドニア攻略作戦、さらには大西洋でのUボートによる襲撃で数隻の旧式戦艦を失ったものの、それを補う形で「アイオワ」級6隻と「モンタナ」級4隻の建造が行われていた。


 これに対して日本は、植民地や満州国の造船所をフルに活用したところで、「大鳳」級4隻、「雲龍」級4隻の空母と「大和」級戦艦4隻を建造するのが精一杯であった。これではまるっきりお話にならない。


 さて、そんなアメリカは日英に気前良く多くの兵器を売却していた。艦船に関しては先ほども触れたが「エセックス」級正規空母を皮切りに、多数の護衛空母や駆逐艦、護衛駆逐艦などを両国に売却した。また日英で設計された艦艇を委託建造した事例もある。しかもそれらは戦時にありがちな粗製乱造の面が薄く、使い勝手や耐久性が良かった。


 もちろん、艦船のみならず軍用車両や軍用機も多数売却していた。これらも艦艇と同じく使い勝手が良く耐久性に優れており、戦場では喜ばれた。


 こうした輸出兵器は、アメリカ国内で製造されると太平洋岸か大西洋岸に集められ、指定された港で日英両国に引き渡された。日本の場合太平洋側、英国の場合大西洋側で受け渡されると思われるだろうが、実際にはそうではない。


 例えば、イギリスの場合太平洋にオーストラリアやニュージーランドと言った連邦諸国があり、これらの国々からもヨーロッパに出兵していた。だから、豪新と言った国々から新たにヨーロッパに出兵する場合、その兵士に持たせる兵器を直接アメリカから両国に送る必要があった。特にオーストラリアはここ最近は遠い宗主国イギリスではなく、近い大国アメリカとの結びつきを深め、兵器面でもそうであった。


 「イギリス向け」と書かれた箱に入った兵器がサンフランシスコやシアトルで船に乗せられ、そのまま太平洋を南下してオーストラリアやニュージーランドへ向かう光景は決して珍しいものではなかった。


 逆に、「日本向け」と書かれた兵器が太平洋側ではなく大西洋側の港で船積みされることも多かった。これは、兵器の生産地が大西洋側にあったからと言う理由もなくはなかったが、別の理由もちゃんと存在した。


 例えば、イランやイラク方面で戦っている日本の派遣軍の場合、砂漠でも長持ちするアメリカ製兵器を多数使用していた。特にジープやトラックは兵隊たちから大人気であった。その他に同地の航空隊では、アメリカ製のP38「ライトニング」やB25「ミッチェル」を日本名に改名の上使用していた。


 これらの兵器は、配置前こそ慣熟訓練のために一旦日本本土に運ばれていたが、その後の補充分は直接アメリカ本土から最前線へと運ばれるようになった。だからアメリカで製造された時点で日の丸を機体に描き込んで戦地へ発想することも珍しくなくなった。


 この中東方面に派遣された日本陸軍にアメリカから兵器を送る場合、まず大西洋側の港で貨物船に載せる。そして出港すると南アフリカ方面へと向かう英国の商船団ととともに南下、ケープタウンからは日本の近海防衛艦隊から派遣された巡視隊によってセイロン島やインド亜大陸西岸の港へと向かった。


 しかしながら、昭和19年後半に入っても大西洋は以前Uボートの巣であった。特にドイツが最新型のXX1型を投入したことに加えて、あらたにアルゼンチンがドイツ側に立って宣戦布告したことは、この日本輸送船にとってマイナスに働いた。


 潜水艦の性能向上により攻撃を受ける可能性は高くなり、さらにアルゼンチンがドイツ側についてUボートの基地となったことは、南大西洋のアフリカ沿岸におけるUボートや仮装巡洋艦の行動を活発化させることにつながった。


 そして昭和19年8月以降は、ソ連参戦とドイツ海軍の盛り返しによる北大西洋における戦況悪化により米英護衛艦艇の南大西洋方面への派遣数が目に見えて減少した。その分のしわ寄せは当然ながら日本海軍が被ることとなった。


 日本の近海防衛艦隊派遣部隊は昭和18年度までは、せいぜい一部の艦艇がケープタウン~インド洋間の護衛任務に派遣されているだけであった。ところが昭和19年10月になると、なんとアメリカ本土からインド洋までロングランする任務を強いられようになった。


 もっとも、日本側もアメリカやイギリスの艦艇が北大西洋海域において新型Uボートに、いいようにやられているという情報を派遣武官から入手していたので、文句は言わなかった。


 こんな状況であるから、かなり変わった経歴の艦艇も出てきた。例えばアメリカのニューヨークにある造船所で建造されたフリゲートが日本側に供与されたのであるが、この艦の乗員はアメリカに派遣されて訓練を受けていたので直に乗り込むと、そのままインド方面への護衛任務に投入された。そして初陣で撃沈されると言う悲劇に見舞われた。


 つまり、日本海軍籍に編入されながら日本本土に来ることなく戦没する船が出たのだ。これはある意味、戦争が本当に世界規模であったことを端的に示している例と言えるだろう。


 それはともかくとして、こうして日本側が船団護衛を行う範囲は急激な広がりを見せた。それとともに、周辺にも大きな変化が見られた。


 まず、日本艦船のアメリカ寄港が増えたことから補給面での問題が発生した。第一次大戦時の地中海派遣部隊も同様の苦しみを味わったが、主食の米や調味料の味噌や醤油が手に入らず、乗員は食の苦しみを味わうこととなった。日本人にとって米欠乏と味噌欠乏は由々しき問題であった。


 ただし、小麦粉や砂糖はあり得ないほど潤沢に手に入ったので、パンやパスタと言った西洋風料理を乗員が口にする機会が激増した。これまでは連合艦隊の上級幹部くらいしか馴染みのなかったフランス料理を、近海防衛艦隊の水兵が口にするという面白い現象まで起きた。またチョコレートやケーキ、アイスクリームやコーラと言った欧米の嗜好品が供される機会も当然ながら増えた。


 こうした食文化は、乗員の異動や戦後艦艇が日本に帰還したことにより日本本土にも大きな影響をもたらすこととなる。特に、日本海軍内ではこれまで以上に西洋式料理の作り方が全国の部隊に広がり、「洋食を毎日食いたいなら先ず海軍に入れ!」と言う言葉まで生まれたくらいだ。実際に日本が戦後全体的に豊かになる昭和30年代まで、日本で洋食を毎日のように食べられる職業は、洋食屋を除けば海運業か海軍ぐらいなものであった。


 また、こうした食文化以外にも日本の水兵や船員が現地のアメリカ人と接して様々な文化を伝えあって、戦後の日米交流に一役買った。中には現地に恋人を作って、戦争が終わった途端アメリカに移住して結婚する人間や、アメリカ人の嫁さんを日本に連れてくる者もいた。


 よくも悪くも、世界規模での戦争は異文化を伝達したのであった。しかしながら、そうした良い面がある半面で膨大な犠牲を伴うのが戦争の現実であった。日本海軍は苦しい通商路保護の戦闘を続けねばならなかった。


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