戦線拡大 6
明けましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。
極東方面へのソ連軍の進撃は、日本と満州国の反撃の前に止まった。しかしながら、ソ連軍が攻勢に挑んだのは決して極東だけではなかった。かつてドイツ軍の侵攻のドサクサに紛れて奪い取ろうとした中央アジア方面からの進撃路を再び使って攻勢を開始した。
これは非常にマズイことであった。日本軍にとっては中東方面に派遣している部隊が背後を衝かれる可能性が高かった。また英国にとってはインドや中東方面の利権をさらに持ってかれないとも限らない事態であった。
しかしながら、このソ連軍の南下に対して両軍はすぐに対処できる術をあまりもってはいなかった。日本軍は中東方面のドイツ軍相手の戦いで手一杯で、とてもソ連軍に抗する余裕などない。加えて本土の部隊も極東方面のソ連軍に対するのに精一杯であった。仮に戦力に余裕があったとしても、運ぶのに数週間掛かる。
一方イギリス軍はアフリカ方面などに地上戦力を大きく割いており、インド方面はインド軍に任せる以外に手の打ちようがなかった。
この時のインド軍の善戦が、後にインド独立をさらに加速させることとなる。ちなみにインドに関しての有用性は戦前インドの対英輸出が輸入を超過し、さらに第二次大戦初期の段階で巨額の対英債権が発生した時点で大きく失われていた。だから遅かれ早かれ自治領になった可能性はある。もっとも、それらは別の話だ。
とにか、そう言うわけで両軍ともに、すぐに遠距離へ出撃できる航空部隊での攻撃を行うしか手がなかった。ただし、日本にとってもイギリスにとっても幸運だったのは、同盟にアメリカが加わっていたことだった。民主主義陣営の兵器工場と名乗るだけあって、その生産力は凄まじい。なにせ自国で消耗した兵器のみならず、他国で消耗した分までを補える兵器を生産出来るのだ。
これによって日英ともに相当数の兵器を補うことが出来た。特に航空機は大助かりであった。イギリスの場合はヨーロッパへの爆撃で使用する爆撃機を米国製のB24やB17で補完していた。一方日本はB25やP38と言った陸軍用機を輸入して、対地攻撃能力を大きく向上させていた。もちろん、まとまった数を揃えられた。
こうしたアメリカ製の機体は頑丈なことに加えて、整備性が非常に高い。そのため、多少酷使しても出撃を繰り返すことが出来た。中東方面に派遣されている部隊には、こうした機体が多数配備されていた。現地では対地攻撃を行うことが多かったためだ。また補給を行う面でも都合が良かったこともある。
そう言うわけで、中央アジア方面から侵攻してきたソ連軍は日英軍の空襲を受けることとなった。その機種は雑多で、日本の場合3式戦闘機「疾風」や3式双戦「稲妻」(P38)、2式中爆「雷竜」、2式双発襲撃機「屠竜」、2式軽爆「剣」(陸軍用「彗星」)などを使用していた。
日本軍の空襲はソ連側にとって厄介な問題となった。ソ連軍の機体というのは典型的なヨーロッパ型の機体であった。つまり、短い航続力しか持っていないのだ。
ヨーロッパにおける航空戦とは比較的狭い範囲で行われるのが当たり前である。それぞれの国が国境を接しているのだから当然と言える。また海を挟んだ英国にしても大陸との障壁となるドーバー海峡でもっとも狭い所は50kmしかないのだ。
このためヨーロッパの戦闘機と言うのは軒並み1000km以下の航続力で、しかも増槽を付けるという発想も中々生まれなかった。
ヨーロッパ式戦闘機の性能で大きな躓きを起こしたのがドイツだった。それが1940年9月前後に行われた「バトル・オブ・ブリテン」だ。ドイツ側の戦闘機Me109はその航続力の短さが足かせとなり、爆撃機の護衛を十分に行えなかった。これが致命的な爆撃機の大損害に繋がった。
もちろんドイツ空軍の敗因はその他にも多々ある。特に双発戦闘機Me110への過度への機体や、上層部の戦略に対する無理解などが祟った。
ただし、ドイツ空軍はこれに懲りてその後ロールアウトした戦闘機には、少なくとも落下増槽を付けて航続力の延伸を図っている。これによって中東や北アフリカ戦線を乗り切ることが出来た。
こうしたヨーロッパ式戦闘機に対して、日本やアメリカの戦闘機は設計概念が大きく違う。特に日本海軍の場合は空母や太平洋に散らばる島々から遠く敵の拠点や敵艦隊を、海を越えて攻撃する必要性があるためその航続力は増槽なしでも2000km前後、有りの場合だと3000km近い航続力が求められた。
こうしたことから、日本のパイロットはヨーロッパの戦闘機を「あんな物は飛行機じゃなくてバッタだ。」と馬鹿にした。飛んでもすぐに着陸しなければならない飛行機をバッタに例えたのである。
日本にもヨーロッパの戦闘機のような航続力の短い戦闘機もなくはなかったが、それらは所謂局地戦闘機に分類される機体た。つまり基地や要地の防空に特化した機体であり、本来攻撃任務には使わない。
陸軍の場合は、旧式の96式戦闘機までは大陸での運用が前提だったため航続力の短い機体が多かったが、ノモンハン戦における海軍機の活躍や、本土から移動する際長距離空輸の必要性があることから、ある程度の航続力が持たされ、落下増槽もちゃんと装備されている。
またアメリカ軍の場合も一部の機体は航続力が小さいが、外洋での運用を前提にした海軍機や長距離護衛任務を想定された陸軍機の多くは長い航続力や落下増槽を持たされていた。
こうした機体ばかりの日本軍に対して、ソ連軍の機体は先ほども書いたとおりヨーロッパ式の航続力が短い機体しかなかった。
一応ソ連では自国の航空機産業を振興させるとともに、同盟関係にあるドイツから技術や戦訓を提供されていた。しかしドイツのヒトラー総統はソ連を潜在的な敵と見ていたのであるから、そうしたデータは全て2流や遅れたものばかりであった。
そのため、ソ連空軍の誰もが長距離航空機の採用の必要性を実感していなかった。例えいたしても、そうした人間はごく少数派であるから、意見は黙殺された。
その結果、ソ連軍は日本軍の空襲に悩まされることとなった。日本軍機はソ連軍が予期していなかった遠方の基地からも空襲を仕掛け、しかも長時間上空に留まって銃爆撃を行っていった。
それに対してソ連軍機は、部隊の近くに飛行場があるなら良かったのであるが、そのような基地は日本軍によって先制空襲を受けてしまい、さらに遠方の基地から出撃すれば碌に護衛さえ出来ない有様であった。
敵機の跳梁を抑える手段として最も手っ取り早いのが、その基地を空襲することである。さすがにソ連軍機と言えど、爆撃機に関しては長距離飛行が可能であった。
しかしながら、爆撃機が戦闘機に勝てないのは世の常だ。敵の迎撃機に襲われたら終わりである。そのため爆撃機にとって護衛戦闘機は必須アイテムである。
だが先ほども書いたとおり、ソ連軍には長距離飛行可能な戦闘機はない。そのため昼間爆撃など夢のまた夢であった。出て行っても敵戦闘機の餌食になるしかない。
そこでソ連軍は夜間爆撃を試みた。この時代夜間も飛べる戦闘機はまだ数少なかったから当然の選択である。
この戦術は当初こそ多少なり日本側に被害を与えた。しかしながらそれも長くは続かなかった。何故ならすぐに日本側は対策を立てたからだ。
日本軍は以前から中東方面でドイツ軍と戦闘を繰り広げていた。そのためドイツ空軍との戦いでお互いに夜間爆撃戦術を導入して既に交戦していた。そのため夜間戦闘機は既に存在していた。
この夜間戦闘機は主に中東方面のドイツ軍の爆撃を受ける基地に重点配備されていた。しかしながら、ソ連軍が夜間戦術を使用するようになると、早速さらに量産されて前線へと配備された。特にソ連軍の夜間爆撃を正面から受けた樺太・千島地域と、中央アジア方面の基地はその重点配備先であった。
配備された夜間戦闘機は「屠竜」の夜間戦闘機型であった。この機体は襲撃機「屠竜」との機体共用機であるが、夜間戦闘機版には爆装や後部機銃の搭載がなく、代わりに英国製の空中電探や海軍開発の斜め銃を装備していた。
斜め銃は中東方面へ展開した海軍航空隊司令官の小園中佐が発案したものである。ただし海軍には適当な双発機がなかったため(当初彼は99式司偵の使用を考えたが、数が少なく転用できなかった。)、やむなく同じ基地に展開していた陸軍航空隊の「屠竜」襲撃機を借りたという話がある。
この時期日本陸海軍の機体の共用が相次ぎ、こうして兵器を融通しあうのは別段珍しいことではなくなりつつあった。
こうして採用された夜間戦闘機は、当初こそレーダー無しで搭乗員の目のみが便りであったが、その後英国や米国から空中索敵電探が供与され、その性能を大きく向上させた。ただし、ドイツ軍との戦いでは敵が使用する電波妨害装置や電探妨害装置との戦いでもあり、日本軍が初めて遭遇した本格的電子戦であった。
また機体の性能でもドイツ軍がMe110やHe219を投入したのに対して、日本側もキ102「雷竜」、キ96「鋭竜」を投入して対抗した。
そんな日本の夜間戦闘機隊にとって、まともな空中用電探や妨害装置も付けず、護衛戦闘機無しのソ連軍夜間爆撃機など単なるカモでしかなく、ソ連軍の夜間爆撃も1ヶ月で挫折した。
しかしながら、ソ連は凄まじく巨大な国である。だから数だけはたくさんある。そのため、日本軍は落としても落としてもやってくるソ連軍機と戦わなければならなかった。
こうなると日本やアメリカから前線へ機体や搭乗員、補給物資を如何に運ぶかが大きな鍵となった。
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この作品では、日本側の航空機や戦車の開発速度がWW1の影響で史実より早くなっています。そのため、96式戦闘機と言うのは史実の97式戦闘機とお考えください。