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真の海防  作者: 山口多聞
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第一次世界大戦 中

 ドイツが持っていた中国の利権を奪取し、さらに太平洋上の島々を手にした日本であったが、これらの動きは遠くヨーロッパでの戦いとはほとんど無縁であった。なぜなら中国の青島にあるドイツ軍要塞は数で圧倒して力押しで攻略し、マリアナ諸島などは無欠占領、ドイツ海軍は既に逃亡していたのだからだ。


 それに対してヨーロッパの戦いは凄惨を極めており、新兵器の投入によって戦死者やその他の物理的損害がかつて無いほどに昇っていた。そのため、各国は戦力確保に苦心することとなった。


 まず英国では本土の人間だけでは当然足りるはずも無く、カナダ・オーストラリア・南アフリカ・インドと言った植民地などから大量の兵士を動員している。所謂植民地兵だ。イギリス軍の4人に1人はこの植民地兵だった。


 またフランスも後のベトナムとなる仏印インドシナやセネガルから植民地兵を集めてヨーロッパの戦場に投入している。加えて兵士ではないが、当時は安価な労働者の市場と見られていた中国大陸からも相当数の労働者がヨーロッパに送り込まれている。


 こうした大量の海外からの戦力動員が行われたものの、史実では日本からの本格的な派兵や大規模艦隊の遠征は行われなかった。


 しかし、この世界ではヨーロッパでの戦闘が史実よりも若干連合国側に分が悪く、イギリスを始めとする各国はさらなる兵力を動員する必要に見舞われた。


 そこで英仏は1915年末に同盟国であり、なおかつアジアでドイツの利権を掠め取った日本に対してヨーロッパへの派兵を要請した。自分だけ甘い蜜を吸うだけというのは許さないということだ。


 これに対して、日本国内では賛成と反対意見が出た。賛成意見としては同盟国の義務としての出兵、さらなる利権の獲得に繋がるや、戦後の国際社会における日本の発言権拡大に繋がるというものだ。反対意見は、地球を半周して兵力を派遣しなければならないこと(遠征能力が不十分)、白人同士の戦いに日本人が血を流す必要性なし、最終的に犠牲が割に合わなくなる可能性などが挙げられた。


 結局喧々諤々の議論の末、日本政府は欧州戦線への本格的派兵を決定した。表向きの理由は友邦連合国各国の救援であるが、実際のところは戦後の利権を見据えたものであった。


 海軍は最新鋭の巡洋戦艦「金剛」「比叡」を中心とする援英派遣艦隊と、地中海における海上護衛戦を支援する巡洋艦「明石」を旗艦とする第一特務艦隊が派遣されることとなった。


 陸軍では1個師団プラス1個旅団3万名が第一陣として派兵された。いずれも日露戦争後の武器や装備の改編を受けて最新式の装備に身を固めた精鋭部隊であった。


 海軍部隊は1916年2月、陸軍部隊は3月にそれぞれ横須賀・呉・宇品を出撃し、一路遠くヨーロッパを目指した。


 しかし、彼らはその移動中から思いもよらぬ事態に巻き込まれることとなった。まず、陸軍部隊を乗せた輸送船団がスエズ運河を通過し、地中海に入った所でオーストリア=ハンガリー帝国、さらにはオスマン・トルコ側の潜水艦による襲撃を受けた。


 この時は護衛していた英国海軍の対潜部隊によって大事には至らずに済んだが、乗船していた兵士たちは見えない敵に襲われる事態に恐怖した。


 また海軍部隊も派遣後から予想外の事態に陥った。援英派遣艦隊は地中海を無事切り抜け、英国本土の北にあるスカパ・フローを目指したのであるが、あと少しのドーバー海峡において巡洋艦「筑摩」が潜水艦の雷撃によって轟沈してしまった。


 しかも、「筑摩」の撃沈は魚雷が命中するまで全ての将兵が気づけなかっただけに、艦隊司令官加藤定吉中将を驚かせた。おまけと来て、日本艦隊の全ての艦が対潜装備を持っていなかったために、艦隊は「筑摩」の乗員救助を早々と切り上げて、遁走するしかなかった。


 まさに出出しから散々な事態に陥った訳であるが、援英派遣艦隊の苦闘はこの後も続くこととなる。特に同艦隊が到着してわずか3ヵ月後に参加したユトランド沖海戦では、ドイツ海軍の巡洋戦艦1隻を大破させたものの、「比叡」が爆沈し旗艦であった「金剛」も大破している。


 幸運であったが加藤中将や、観戦武官としてイギリス戦艦から「金剛」に乗り換えていた伊東大佐が無事であったことだ。


 後にこの最新鋭戦艦が意図も簡単に爆沈し、逆に戦果を充分に挙げられなかったことは日本海軍上層部に大きな衝撃を与えることとなった。この事件によって、海軍は建造中の「扶桑」型戦艦2番艦である「山城」を艤装中であるにも関わらず設計を大幅に変更している。


「比叡」の爆沈に伴い、同艦の同型艦である「霧島」、「榛名」も大幅な改修を受けている。また2年以上ヨーロッパに留まることとなった「金剛」は英国で改修を受けている。そのため、「霧島」、「榛名」とは少しばかり趣が異なる姿で帰国することとなる。


 また上記した2名が日本へ生還したことで、戦闘の様子が直に伝えられ軍艦の設計や戦術の変更等に用いられることとなる。


 その後援英派遣艦隊には「扶桑」が「比叡」の代替艦として派遣され、ドイツ海軍主力艦隊と対峙している。ただし、援英艦隊の苦労はその後も続き、シュットランド海戦でも両艦は大破している。また「扶桑」はUボートの雷撃を受けて2ヶ月間ドッグ入りを余儀なくされている。さらに巡洋艦2隻が同じく潜水艦によって失われた。


 これらの戦訓によって、それまで潜水艦を軽視していた海軍は威力を認めざるを得なくなった。当時の日本海軍の潜水艦は「ホランド」型を中心とする性能劣悪な物しかなく、とてもドイツのような長期間外洋で活動できるようなものではなかった。


 ところが、日本海軍は自分がやられる側になって潜水艦の威力というものを目の当たりにすることとなった。それまでの沿岸防御用にしか使えないという概念から、一気に攻撃兵器としての用途が注目されることとなった。


 一方同時に派遣された陸軍部隊もヨーロッパ上陸後に大きなショックを受けることとなった。日露戦争でロシア軍の機関銃に苦杯を舐めさせられた陸軍であったが、ヨーロッパの戦場はそれ以上の機関銃、さらには戦車、毒ガス、航空機による爆撃という凄まじいまでの攻撃にさらされた。


 日本陸軍も機関銃や砲等を持ち込んでいたが、ヨーロッパの戦線ではあっと言う間に手持ちの弾薬を消費してしまった。そのため日本からの取り寄せと共に、それだけでは間に合わないので英国やフランスから借りた銃や砲を使用することとなった。中には捕獲したドイツ製の兵器を使う部隊も出た。


 さらに装備の面でも大きな変化が起きた。まず軍刀を携行する人間が大きく減った。ヨーロッパの塹壕戦ではあまり役に立たず、拳銃や短剣、ナイフ等を携行する人間が増えた。軍刀に拘る頭の堅い人間もいるにはいたが、そう言った人間の多くは早々と戦死する運命にあった。


 軍馬も大量に送り込まれていたが、一部の部隊では消耗や機動性に限界があることから、バイクや英国製の装甲車を使用する部隊も出た。


 また将兵の戦死に関する問題も大きかった。当初派遣軍では当初欧米列強が行っていたような歩兵突撃を多用するつもりであったが、その戦い方が全く通用しないことが直ぐにわかった。


 突撃しても塹壕に潜んだ敵から機関銃や小銃で狙い撃ちにされ、さらに敵の前線に到達しても長い銃剣や軍刀は狭い塹壕内では扱いにくく戦果を拡大出来なかった。もちろん被害も大きく、わずか1週間で2000名の戦死者と、ほぼ同数の戦傷者を出すこととなった。


 3万の兵士しかいないというのに、短期間で15%近い兵力を失ったのは由々しき事態であった。旅順のように母国が近く、しかも攻略すれば敵の拠点を落せるというなら良いが、わずかの塹壕を奪取するためにこのような戦い方をしていたのであれば割にあわない。


 帝国陸軍はその後実に戦死傷者1万名という高い代償を払うこととなるが、近代的な戦術を肌身で感じ、体験することで近代化への転換を図ることとなる。


 そしてもう1つの派遣部隊。地中海へ派遣された特務艦隊も地味ながら激しい戦いに巻き込まれていった。


 御意見・御感想お待ちしています。

 次回更新は26日から28日の間に行います。

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