戦線拡大 5
満州や樺太では日本軍並びに満州国軍が善戦し、押し返すまでには至っていなかったがなんとかソ連軍の進撃を止め、膠着状態へと持ち込んだ。
もっとも、膠着状態に持ち込んだとは言え軍民合わせて大きな損害は出ているし、物量に勝るソ連軍が数だのみで今後も進撃を続けてくる可能性もあるので油断は禁物であった。
一方、海でも戦闘が始まっていた。ソ連太平洋艦隊の水上艦部隊は、早々と日本海軍に適わないことを悟って、早々と北にあるペトロハヴロフスク・カムチャッキーへと逃げ込んでおり、自然と戦いは小艦艇や潜水艦が中心となった。
ちなみにソ連太平洋艦隊旗艦となっている巡洋戦艦「キエフ」は「クロンシュタット」級の1隻で全長238m、排水量32870t、速力32ノット、30,5cm3連装砲3基の性能を持っていた。
スターリンはさらに巨大で強力な「ソビエツカヤ・ソユーズ」級の建造計画を進めていたが、ソ連の造船技術では巨大な艦体や主砲の40cm砲の製造が出来なかったため(ドイツも流石に技術援助を断った)、止む無く一回り小さな「クロンシュタット」級を複数隻建造して旧式艦の代替と戦力強化を図ったのであった。
「クロンシュタット」級は黒海やバルト海などの造船所で6隻が建造されており、その内の4隻がバルト海艦隊、1隻が黒海艦隊、そしてもう1隻が太平洋艦隊に配備されていた。
「キエフ」は1943年6月にヨーロッパ・ロシアからかつてのバルチック艦隊と同じく地球を半周して極東にやってきたのであった。
しかしながら旧式の「長門」級にすら勝てない性能であるため、日本艦隊との戦闘は自殺行為も当然であった。そのため「キエフ」他水上艦隊は戦う前から逃げるしかなかった。
変わりに主役となったのが、5年前のノモンハン事件の時と同じく潜水艦であった。
かつてソ連太平洋艦隊潜水艦艦隊は日本の近海防衛艦隊との戦闘で一方的な敗北を決してしまった。日中戦争における中国潜水艦との戦いの教訓を生かした日本の近海防衛艦隊相手では、荷が重すぎたのだ。
あれから5年、ソ連潜水艦隊は再びウラジオストックやナホトカの港で甦っていた。同地の造船所やヨーロッパ・ロシアから回航されたものも含め、損失を埋めると共に大幅に増強されていた、艦自体も前回の敗北を元に、設計を見直した新型艦ばかりであった。
「今度こそヤポンスキーに一泡吹かせてやる!」
という乗員たちの意気込みの元、ソ連潜水艦隊は出撃して行った。
ソ連潜水艦は開戦前から日本側への攻撃を準備しており、主にオホーツク海・千島列島近海・日本海・津軽海峡出入り口付近に待機し、開戦と共に攻撃を開始した。
日本側はソ連側の宣戦が近いことを既に察知していたため、日本本土にある対潜航空隊部隊や各部隊に警報を発令していた。
しかしながら、それでも海中から不意の攻撃をしてくるソ連潜水艦は厄介な存在で、開戦1週間の間に駆逐艦1隻を含む3隻の艦艇が大破、商船8隻が撃沈、6隻が撃破された。
撃沈された商船の内1隻は青函連絡船の「第一津軽丸」で、魚雷ではなく津軽海峡入り口に巻かれて浮遊していた機雷を触雷したのであった。これにより乗員乗客500名の命と、積まれていた貨車・客車30両あまりが失われた。
また同じく国鉄が運行する連絡船で、関釜航路の主役であった「金剛丸」が玄界灘で魚雷1本を受けて中破している。こちらは船自体が大型であったこと、船長が直ぐに防水隔壁を閉鎖したことで、なんとか沈没は免れている。
他にも樺太航路の連絡船や近海を走る多数の商船や漁船などが被害を受けなくても、襲撃を受けたことを報告している。
こうした被害は本土に近かったこともあり、当然ながら国民にも早いうちに伝わった。もちろん、それによって国民が海軍を糾弾する姿勢を取ったのは当然であった。
しかしながら、海軍側もただ黙って見ていたわけではなかった。直ぐに反撃を開始している。特に日本海側の基地に展開する航空隊や巡視隊はただちに出撃している。
開戦6時間後、まず南樺太豊原の基地を出撃した「東海」対潜攻撃機が宗谷海峡上空を哨戒中に磁気探知機でソ連潜水艦を捕捉、爆雷攻撃を加えこれに損傷を与えた。このソ連潜水艦はその後発進してきた後続の攻撃機の爆雷攻撃で止めを刺された。
さらにそれから開戦1週間の間に、日本海を中心として実に8隻のソ連潜水艦が撃沈され、さらに7隻が帰還を余儀なくされるほどの損傷を受けていた。
つまりたった1週間でソ連潜水艦は15隻の潜水艦を撃沈破されてしまったことになり、この損害は異常であった。
ソ連軍としては、満を持して潜水艦を投入しそれなりの戦果は上げた。しかしながら損害のペースは前回の戦いよりも悪い結果となっていた。
ソ連海軍の指揮官たちは首を捻った。
「これは一体どういうことだ?どうして我が軍の最新鋭艦がこうも沈められるんだ?」
どうしてこのようになったかと言えば、それはソ連側の甘い予測にあったと言える。
確かにソ連海軍は自国で建造した最新鋭の潜水艦を多数建造して配備していた。しかしながら、その彼らの言う最新鋭のレベルは潜水艦先進国であるドイツや日本、アメリカのそれに比べれば一歩劣っていると言わざるを得なかった。
ソ連はドイツと未だ友好関係を保っており、様々な技術や物資の交換を行なっている。しかし、ドイツのヒトラーもソ連のスターリンも互いに潜在的な敵と看做しており、現在はあくまで必要があるため握手しているに過ぎない。お互い逆の手にはそれぞれナイフか拳銃を持ちながら笑っているようなものだ。
そう言うわけで、独ソともお互いの最新兵器に関する技術交換はほとんど無きに等しい。一応ドイツは食料や資源の対価として軍艦や航空機、その他の軍事技術の輸出をソ連に行なったが、いずれも1世代古いものであった。
そのため、ソ連側が欲しがった戦艦や潜水艦の技術も「シャルンホルスト」級巡洋戦艦や初期型Uボートのそれに留まっていた。
そうした技術に加えて、ソ連側技術者が知恵を絞って作ったのが現在の主力艦であった。ところが、いくらソ連の技術者が努力しても経験不足や予算不足、技術者自体の数が不足しているのではどうにもならない。
それに対して日本海軍側はインド洋やアラビア海で枢軸軍潜水艦と激闘を広げてきた。そのため、装備もそれに合わせて最新式の物を装備している。加えて、この時期の日本軍は一部を除けばアメリカ式の短期間で前線配置を交代して本土か後方基地へ下がるローテンションを実施していた。つまり本土にいるパイロットや搭乗員の中には実戦経験者が多数いたのである。
これでははっきり言ってお話にならない。当初こそ奇襲で戦果を上げたソ連潜水艦も、その後は反撃態勢を整えた日本海軍側に狩られるだけとなってしまった。
あまりの損害に耐えかねたソ連太平洋艦隊は、わずか2週間で潜水艦隊による作戦を中止せざるを得ず、作戦は完全な失敗に終わった。
すると今度は日本海軍側が本格的な反撃に移った。各地の近海防衛艦隊のみならず、連合艦隊や潜水艦隊が一斉に出撃してソ連軍艦船に襲い掛かった。
枢軸軍潜水艦の陰に隠れて久しい日本潜水艦であるが、長射程大破壊力の酸素魚雷と長大な航続力をもつその性能は連合軍内においても一目置かれていた。この時期には騒音問題もほぼ解決し、さらにドイツのXX1型と同じく水中高速潜水艦である「伊200」型も竣工しつつあった。
潜水艦隊はペトロハヴロフスク・カムチャッキー沖にも出動し、同地に隠れたソ連太平洋艦隊水上艦隊を牽制するとともに、パトロール任務で出てきた大型駆逐艦2隻を撃沈している。
もちろん宗谷海峡や樺太近海、沿海州近海にも出撃して作戦を実施しソ連側の商船や艦艇を多数葬り去っている。ソ連側の対潜装備がお粗末だったため、日本潜水艦はそれこそ好き勝手に暴れ回った。
また近海防衛艦隊や連合艦隊の水上艦艇も華やかな大規模海戦こそ起きなかったが、小規模な海戦を幾度も行なっている。
ソ連側は潜水艦による作戦を行なうと共にコルベットや敷設艇、魚雷艇などを用いて機雷敷設を頻繁に行なっていた。帝政ロシア以来のお得意の戦術であった。
ソ連海軍の艦艇は巡洋艦に至るまで機雷敷設能力を備えており、機雷戦術においては大きな自負心があったようだ。しかしながら、その機雷自体は科学力の遅れからアメリカ軍やイギリス軍、ドイツ軍のそれに比べて劣っていた。それでも、数を撒けばそれなりに降下が上がる。
このソ連軍の機雷敷設部隊と、日本側の艦艇とが幾度も沿海州沿岸や千島沿岸で戦闘を繰り広げた。
ソ連軍艦隊は航空機の活躍できない夜や霧の日に現れると、そっと機雷を撒いて立ち去っていく作戦に出た。対して日本側もそれにあわせる形で出動して迎撃を行なった。
この水上戦闘も日本側に軍配が上がった。ソ連側も必死に戦ったのだが、レーダー技術と技量で勝る日本側に勝てるはずがなかった。一部の指揮官がすばらしい指揮を執って善戦したが、それも大勢を覆すに至らなかった。
日本側に救助されたある艦長などは。
「何がなんだかわからない内に自分の艦が沈められていた。」
と話した。
また攻撃した側の1人である近海防衛艦隊の片山真大佐は後にこう語った。
「ソ連軍艦艇を沈めるのは本当に簡単でした。それほどまでに敵との格差は歴然としていました。あれは戦闘と言うよりなぶり殺しですね。」
最終的に、ソ連軍は駆逐艦5隻、フリゲート8隻、コルベット6隻、敷設艇11隻、掃海艇4隻と魚雷艇10隻あまりを失い大敗を喫した。対する日本側の被害は運悪く機雷を踏んだ護衛駆逐艦1隻と掃海艇1隻のみであった。
こうして海の上の戦いでも、日本側優位に進んだのであった。
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