戦線拡大 1
超久しぶりの更新です。
イラン方面における枢軸国軍を撃滅するべく、帝国海軍の機動艦隊が再びアラビア海へと向かった。艦隊は途中シンガポールとセイロンに寄港し、艦の点検や乗員の休養を行なった。
昭和18年11月のことである。この機動艦隊は松田千秋中将率いる新編成の第7艦隊で、正規空母「鳳翔」「瑞翔」と「蒼龍」「飛龍」の4空母を主軸とする日本海軍自慢の高速機動艦隊であった。
「鳳翔」と「瑞翔」はアメリカから購入した「エセックス」級航空母艦で、100機近い艦載機を搭載することが出来る期待の新鋭艦であった。
日本海軍では新鋭の「大鳳」級の建造を進めてはいたが、海外の造船所を総動員してもこの戦争に間に合いそうなのは3~4隻が限度であった。これでは老朽化していた「赤城」級の代替分を造るのが精一杯であった。
そこで、大きな工業力を誇るアメリカに注文したわけである。本来だったら最新鋭空母を売り渡すなど言語道断であるが、アメリカとしても海軍の兵員増強がすぐに出来る状況ではなく、さらに「エセックス」級の後継である「ゲディスバーグ」級空母の建造も進んでいたので、売却に同意したのであった。
また護衛する艦艇も改「大淀」級軽巡である「石狩」級、改「秋月」級駆逐艦と言った最新鋭艦艇で固められていた。いずれも最新の電子機器、対空・対潜兵器を備えている期待の艦艇であった。
加えて艦載機も最新の2000馬力級エンジンである「誉」を装備した「烈風」、「流星改」、「彩雲」が装備された。
これに対して、マダガスカル方面で活動していた枢軸連合艦隊は出てくる兆候を一切見せなかった。以前の手痛い打撃が未だに堪えているようであった。
第7艦隊はセイロンでの補給と修理を終えると、そのまま北上してペルシャ湾へと向かって行った。同艦隊は陸軍航空隊と協力し、イラン方面のドイツ軍前線基地を壊滅させる任務を負っていた。
一方、地道に商船を守るためにシーレーン警備を行なう近海防衛艦隊の派遣艦隊はと言うと、この時期になって大きな厄介ごとを抱えるようになった。それがセイロンから喜望峰へと至るルートの警護であった。
さて、読者の皆様は良くわかっているだろうがこの時代のイギリスは世界中に植民地や租借地を持った植民地王国である。つまり、植民地に色々と依存しているわけだ。それは戦時下になっても変わらない訳で、アジアからインド洋と大西洋を経由して英本国へ向かうルートも非常に重要であった。
日中戦争で豊富な経験を積んだ日本の近海防衛艦隊であるが、名前にあるとおり本来の任務は本土並びに植民地や委任統治地域の警備が主任務である。
そのため慌てて戦力強化を図ったものの、その警備範囲を拡大できるのはせいぜい現在日本軍が外征軍を出しているシンガポール~セイロン~ボンベイ~イラン沿岸地域が限度であった。
ところが、それを御破算にしたのが6月に行なわれた英米軍を中心とした連合軍の北アフリカ上陸作戦、「トーチ作戦」の失敗であった。この戦いは諸外国に枢軸国の精強さを見せつけ、当然のことながら諸外国にインパクトを与えた。
これにより、ソ連や連合国陣営についていないその他の中立国の動きが枢軸よりなものとなり始めた。各国とも超大国アメリカとことを構えるのを恐れているのか、すぐ参戦とは行かなかったが、明らかに枢軸に肩入れする動きを見せ始めた。
そしてそこで問題となったのが、南米諸国の動きである。ABC三国の内Bのブラジルは自国の客船がドイツに沈められたことと、戦前からアメリカとの強い結びつきがあったので既に連合国陣営に参戦していたが、Aのアルゼンチンは枢軸よりの中立国であった。またCのチリも中立であった。
アルゼンチンとチリに対しては、再三アメリカをはじめとする連合国が連合陣営としての参戦を促していたが、パワーバランスが微妙であったためどちらの陣営に付くか躊躇していた。もちろん、枢軸陣営も自分たちの陣営に取り込むのに躍起であった。
これらの国々が万が一枢軸陣営に立って参戦した場合非常に都合が悪い。これら2国は独自の海軍を保有しており、戦艦や巡洋艦・潜水艦も保有している。さらに、その沿岸部を独海軍に提供されれば、Uボートの行動範囲が大きく広がってしまう。
ようやく新兵器の投入や護衛艦艇の忠実でUボートを抑え気味だと言うのに、その苦労が水の泡、それどころかそれ以上に性質の悪い事態である。南大西洋で縦横無尽に暴れられたら堪ったものではない。
もしかしたらホーン岬を越えて太平洋方面へと出張ってくるかもしれない。そうなると、アメリカや日本にとっても非常に厄介である。
しかしながら、アルゼンチンとチリは日増しに枢軸側に賛同する動きを見せていた。「トーチ」作戦の失敗もさることながら、この時期ドイツ軍が再び通商破壊作戦で猛威を振るい始めていたのであった。
開戦当初、通商破壊作戦で猛威を振るった仮装巡洋艦や初期型Uボートについては既に連合軍側の封じ込めによって、それらの脅威は既になくなっていた。また新たな脅威となる高速Uボートが登場するのは44年2月のことである。
だからこの時期はUボートの脅威が一時的に減じた空白期と言える時期であった。しかし、ドイツ空軍と海軍水上艦隊がその空白を埋めることとなる。
ドイツ空軍はノルウェーやフランスの基地から長距離爆撃機He277を飛ばし、それらに誘導弾を積んで輸送船団への攻撃を敢行した。この誘導弾は初歩的な熱探知装備を持つ物で、命中精度は無線誘導弾よりも低かったものの、爆撃機が戦闘機の攻撃を受ける前に投下し、そのまま逃げても敵に損害を与えうる兵器であった。
この新型誘導弾により、短期間で10万tあまりの商船と10隻の護衛艦艇が沈められてしまった。対するドイツ空軍の喪失は逃げ遅れて撃墜された3機のみという完勝であった。
もちろん、ドイツ宣伝省は自国の科学技術の勝利としてこの戦果を大々的に発表した。
またバルト海に引きこもり気味であったドイツ本国艦隊も時折アイスランド方面へとゲリラ出撃を行い、アイスランドへ向かう船団などを叩いた。時には艦載機を持ってアイスランドの米軍基地を攻撃した。
この頃のドイツ本国艦隊は、旗艦である40cm砲8門を持つ「フリードリヒ・デアグロッセ」をはじめとして戦艦4、巡洋戦艦2、航空母艦3隻というそれなりに有力な艦隊に成長していた。
これに対してスカパフローを根拠地とする英本国艦隊も出撃したが、結局ドイツ艦隊を撃破できずに終わった。それどころか、出撃した戦艦「ロドネイ」と「ネルソン」が逆にドイツ軍によって沈められるという有り得ない失態を起こしている。
ドイツ艦隊を追っている内にドイツ空軍に捕捉され、御自慢の誘導弾攻撃を受けてしまったのである。空母と行動を共にせず、戦闘機の援護が付いていなかったのが原因である。
ドイツ水上艦隊を弱兵力と舐め切って、しっかりとした機動艦隊を組まなかったツケを払わされたのである。
そして何より、この相次ぐ連合軍側の敗報は南米諸国の枢軸への傾注をより進める事態となった。チリはまだなんとかなりそうであったが、アルゼンチンがドイツと戦う決意を決めるのは時間の問題であった。
そのため、英国海軍は南大西洋方面での商船警備を強化し、さらにフォークランド諸島へも戦力を抽出した。
当然ながらそのしわ寄せはどこかへと来るわけで、インド洋や太平洋方面の英海軍力が抽出させたのであった。
英国はその穴埋めを日本海軍に依頼したのであった。
本来ならそこまでやってやる義理はないのであるが、英国が危ない状況に陥っているのは日本側も知っていた。この時期ドイツはイタリア・フランスと協力して再び英本土爆撃機を開始し、同国の重爆撃機基地や飛行機工場・造船所へじわりじわりと被害を与えつつあったのだ。
アメリカ海軍も幾らかの戦力を支援のために派遣すると発表したので、しぶしぶ日本海軍は近海防衛艦隊の1個巡視隊をこの方面へと投入したのであった。
新鋭の「松」型駆逐艦「雛菊」と大型海防艦2隻、護衛空母1隻、中型海防艦4隻が第一陣として、セイロン~ケープタウン間の船団護衛へと入ったのである。
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