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真の海防  作者: 山口多聞
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第二次世界大戦 13

 昭和18年6月、印度方面から中東へと向かった日本陸軍部隊は、じりじりとではあるが印度方面と進撃していたドイツ軍を押し戻していた。これは日本側が海軍の総力を上げて行った海上補給作戦が功を奏したことと、空軍力が敵よりも勝っていたからだ。


 この時期の日本陸軍の主力戦闘機は川崎が開発した和製スピットファイアと呼ばれた「飛燕」だった。「飛燕」はライセンス生産したマリーンエンジンを搭載し、高い急降下性能と防御力、攻撃力、そして何よりもドイツ軍機より長い航続力を持っていたため、ドイツやイタリア空軍機を圧倒した。


 また同方面には海軍航空隊も進出していた。この中でも海軍の対潜哨戒機「東海」は低速ながら、長い航続力と磁気探知機に電探、爆雷を搭載して枢軸海軍潜水艦を攻撃していた。


 枢軸空軍機や艦艇にとって予想外だったのは日本軍機の足の長さで、枢軸軍機では到底進出出来ない海域や水域に現れて攻撃や対潜哨戒を行った。


 日本海軍の対潜哨戒飛行隊は、専用機の「東海」のみならず旧式化した陸攻や艦攻、さらに水上機や飛行艇もまで投入されていた。その基地数も膨大で、セイロン島やモルディブ諸島、さらに印度亜大陸西岸各地に設けられていた。


 印度亜大陸の部隊の場合は潜水艦対策のみならず、敵が秘密裏に魚雷艇などを沿岸部に送り込んでいないかも偵察した。実際以前起きた海戦ではイタリア海軍が秘密裏に魚雷艇を送り込んでいたし、この時期も1〜2という少数であるが、スパイ商船や潜水艦を使って送り込まれた魚雷艇が活動していた。


 こうした魚雷艇対策に、日本側の機体には機体下部に斜め銃を搭載するようになった。この斜め銃に関しては、当時セイロン島に進出していた海軍航空隊副司令の小園中佐が発案したとされている。


 ちなみに、この斜め銃は地上攻撃にも効果があるとされて陸軍でも用いられている。また海軍でも魚雷艇対策の他に、航空機の脅威に対抗するため対空兵装を大幅に強化したUボート攻撃でも威力を発揮した。さらにドイツ軍が4発のHe277重爆撃機を投入して以降は、それによる夜間爆撃迎撃に使用されている。


 また斜め銃は同時期に、イギリスの夜間爆撃迎撃にも用いられ始めたため、一時期両軍ともがそのアイディアを盗用されたと真剣に疑ったが、これは単なる偶然であったようだ。


 さて、じりじりと日本軍が中東へと進撃することはヒトラーやムッソリーニの危機感を当然のごとく煽った。まあ印度への進撃が止まってしまったのは止むを得ないとしよう。しかしながら、せっかく占領した中東の油田を奪回されることは、枢軸国にとって大きな打撃となる。


 そのため、日本軍が印度国境を越え、中東へと進むたびに枢軸軍の兵力は大きくなっていった。もちろん、日本側もそれに対抗する形で兵力を増員したわけだが、必然的に補給物資も多くなる。


 だから動員される船舶も増えるわけで、セイロン島から印度・イラン方面にいる前線部隊へと補給物資を運ぶ船舶数はかなり増えた。


 これを通商破壊に長けているドイツが狙わないわけがなく、また日本海軍側もそれくらいのことはしっかりと見抜いていた。


 開戦以来、日本海軍の対潜作戦は大成功と言えた。喪失する船舶数をゼロに抑えることは流石に出来なかったが、その数は許容範囲(つまり補充が利く範囲)に納まっていた。


 しかし補給線が延びることは護衛する距離が長くなり、攻撃する側には襲撃出来る地域を広くし、逆に護衛する側には負担を大きくさせる。


 日本にとって幸いなことに、米英が同盟国であるため補給物資には困っていなかった。それどころか、両国の優れた技術が入ってくるため、日本本土は空前の戦争景気に沸いていた。


 しかし、それは戦争が少なくとも自国経済に打撃を与えない範囲でこそ言えることであり、この後もその状態が続くとは限らない。特に船舶の喪失は日本経済の根幹である輸出入を壊滅させる可能性があるため、なんとしても最小限に抑える必要があった。


 また日本としてはソ連の動向も気になった。一時期中央アジア方面から南進する動きを見せたソ連だが、現在その動きは止まっていた。イギリスのみならいざ知らず、日本やアメリカと事を構えるのは得策ではないと考えたらしい。


 しかしながら、ソ連は着々と力を蓄えているのが確認されている。これまで旧式と呼ばれていた空軍は新型戦闘機の開発と配備を促進していたし、陸軍では優秀なT34戦車への更新が行われていた。また海軍も、ドイツやイタリアから艦艇を輸入しつつバルト海や黒海の造船所で新鋭艦艇を建造しつつあり、その一部は極東に回航されていた。


 イギリスやアメリカは、ソ連がドイツと同調してヨーロッパの戦争に介入しないか警戒していたが、日本としてはソ連が満州や樺太方面から侵攻して来ないか心配していた。もしそれが有り得るとしたら、ドイツに対して不利な戦況に置かれる時と日本側では読んでいた。


 ちなみに米英が同盟となったため、満州国の地位が問題となった。そのため中国国民党政府などを交えて何度か議論を持たれ、結局中国本土の平定がなった時点で帰属を決める総選挙を行うものとするということで決着した。この選挙が行われるのは実に12年後の1955年となる。


 だからこの時点で満州国は、以前と同じく日本側の傀儡国家であった。しかしながら、多数の米英企業が進出しており、日本側としても何もしないわけにはいかなかったらしく、以前にも増して現地人の政府や軍への登用を進めることでお茶を濁した。 


 また米英からの軍事顧問の採用やアメリカ製兵器の採用も行われ、満州国軍はソ連軍対策に短期間で近代的な装備へと一新された。


 さて、印度・中東方面へと話を戻す。日本側の長大な補給線に目を付けた枢軸軍であったが、潜水艦による攻撃は日本側の高い対潜レベルのため大規模な戦果を上げるには至らなかった。かと言って水上艦隊は二度も大敗北を決しているため、今後投入しても勝ち目は薄いと考えられていた。


 そのためドイツ海軍では印度方面への新兵器投入を積極的に進めることが決定された。それまで主に大西洋のみで使われていた音響魚雷やFAT魚雷をインド洋やアラビア海にも投入し始めた。1943年8月のことである。


 この効果は覿面で、日本側の護衛艦艇や商船に損害が出始めた。たった1週間で損害は2倍近くに跳ね上がった。


 もちろん、この事態は日本海軍を大いに怖れさせた。このままでは護衛艦や商船の被害が許容範囲を超えてしまう。


 そのため大至急大西洋から資料が取り寄せられて、新兵器対策が行われると共に、積極的な潜水艦狩りが行われるようになった。具体的には護衛空母や護衛駆逐艦、海防艦の大量投入で対潜狩り戦隊を作り、こちらから潜水艦を狩る方法である。


 この作戦は9月の下旬から始まり、基地航空隊との連携で大きな効果を上げた。それどころか、護衛艦や商船の被害は以前の水準以下にまで下がった。


 ところが、11月になると今度はドイツ空軍が航続距離を長くした戦闘機や爆撃機を配備して船団への攻撃を活発化した。こうなるともうイタチゴッコである。


 そこで日本海軍は、敵の大元を叩く作戦に出ることにした。具体的には機動部隊によるペルシャ湾方面への進出と、それによって中東にある敵空海軍基地を撃滅する作戦である。


 日本海軍は護衛戦力の拡充に努めてきたが、機動艦隊も戦力強化を図っていた。旧式となった大型空母「赤城」「天城」を退役させる代償に、新鋭の装甲空母「大鳳」「白鳳」が配備され、また米国から購入した「エセックス」級空母の「鳳翔」「瑞翔」も配備を終えていた。


 これに加えて、最新鋭攻撃機の「流星改」や新鋭艦船「烈風」も配備されており、内実共に一新していた。


 アラビア海にまたも鉄と炎の嵐が吹こうとしていた。


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