第二次世界大戦 8
枢軸インド洋艦隊が標的としたのが、印度亜大陸西側の揚陸港であるカラチであった。このカラチから揚陸された日本陸軍部隊とその補給物資が、インドとイラン国境で戦う日本軍を支えていた。
上陸した日本軍と前進してきたドイツ軍との戦闘は、昭和18年4月時点で既に数回に渡ってイラン国内から印度国境に掛けて発生していた。
ドイツ軍側は少数ではあったが、既に5号戦車であるタイガーを投入しており、長砲身75mm砲搭載、最大装甲厚85mmの3式中戦車でも手強い相手であった。そのため戦車戦で日本側が勝利を収めるのは難しかった。
しかしながら、日本側には比較的航続距離の長い航空機が多数配備されたため、これらの機体が繰り返し敵地上軍を攻撃した。特に海軍の「彗星」との供用機である「剣」は、500kg爆弾か、30mm機関砲を搭載可能だったので、その高速と共に威力を発揮した。
一方中央アジアから南下を図ったソ連軍は、印度に進出した日本軍を刺激したくないからか、進撃速度は大幅に鈍っていた。
さて、枢軸インド洋艦隊が襲い掛かったカラチには日本から派遣された高射砲部隊や陸海軍飛行隊が配置され、さらにレーダー基地も設けられていた。しかしながら、配備されていたレーダーが比較的旧式なものであったこと、偵察機によって枢軸機動艦隊の接近が確認されていなかったこと。さらにこの時点で空襲などなかったことから、日本側が敵機接近を探知したのは空襲開始5分前であった。
直ちに防空戦闘機が飛び立ち、対空砲に兵士が配置されたが時既に遅く、伊仏軍機60機は攻撃を開始していた。
伊仏軍機第一波はセオリーどおり、まず飛行場と対空砲陣地に襲い掛かった。隙を突かれた形となったため、日本側は実に対空砲陣地の6割にダメージを受け、さらに地上にあった各種機体50機と飛び上がった戦闘機6機を失った。対する伊仏軍機の損害はたったの7機で、一方的展開となった。
そしてこの攻撃から20分後には、第二派攻撃隊50機が在泊中の艦船目掛けて攻撃を開始した。このときカラチ港には大型貨物船3隻、中型貨物船2隻、小型貨物船4隻、輸送艦5隻、タンカー1隻、と言った輸送船舶だけで12隻がいた。
伊仏軍機はこれらに対して上手い獲物を見つけた猛獣のごとく襲い掛かった。しかしながら、輸送船側もただやられるに任せてはいなかった。日露戦争と第一次世界大戦の教訓から戦時の武装を想定して造られた日本船は対空戦闘を開始した。
この時期、陸軍に徴用された輸送船には陸軍の船舶工兵隊が乗り組んで対空砲や対空機銃、野砲などの操作を行っていた。また海軍の徴用船にも同様に派遣されて来た兵士が乗り組んで設置された対空砲等の操作にあたった。しかしながら、陸海軍の砲弾薬の在庫はお世辞にも多くなく、時には鹵獲兵器などを載せる時もあった。
そのため、商船会社では独自に砲弾薬を購入していた。既に国内のメーカーは余裕がなくなっていたが、海外のメーカー(特にアメリカ)から購入する方法が採られた。
主に購入されたのは両用砲である5インチ、3インチ砲や40mm機銃、20機銃、12,7mm機銃を言った類であり、戦場へ派遣される船やUボートが出没するインド洋航路の船に、許可を受けて搭載された。
もちろん、艦艇の搭載するような本格的な射撃指揮装置などなく、せいぜいが計算尺に毛が生えた程度の簡易指揮装置しか積んでいなかった。操作する船員の腕も良くはない。それでも多数の火砲を搭載することは相手への威嚇と船員の士気を高める上で大いに有効だった。
カラチ港に停泊していた船の内、「佐倉丸」にはなんと5インチ砲2門の他に3インチ砲2門、40mm連装機銃2基、20mm単装機銃8基、12,7mm単装機銃6基が搭載され、同時期の駆逐艦並みの重武装だった。
一番小型の「長運丸」でさえ、3インチ砲2門、40mm単装機銃2基、20mm単装機銃4基で武装していた。
また商船以外にも、護衛艦艇など10隻がカラチ港に在泊していたので、これらも当然戦闘に参加している。
カラチ港に在泊、もしくは近海を航行中だった艦船は一斉に対空砲火の砲門を開き、余裕のある船は回避操船に入った。
伊仏軍機は予想外の反撃に驚くと共に、始めての動く標的への実戦攻撃だったために狙いを外す機が続出した。しかし、やはり商船ではどんなに武装して回避運動をとっても限度というものがある。被弾した船舶は当然ながら発生した。
輸送船「鬼怒川丸」の爆弾3発被弾により大破炎上を最大の被害として、中破2隻、小破3隻という被害が出た。それでも50機の飛行機相手にこれだけの被害で済んだのは奇跡に近かった。「鬼怒川丸」も一時は破棄が予想されたものの、乗員たちの努力でなんとか後方への回航に成功している。
しかしながら、この2回に渡る攻撃でカラチの基地施設と港湾施設に被害が発生し、揚陸効率が大幅に落ちてしまったことは、日本側にとって痛いことであった。
もちろん、日本側は直ちに報復に打って出ている。カラチ以外にある印度亜大陸西岸の哨戒機基地や飛行場から飛行艇や偵察機を飛ばして枢軸機動艦隊を捜す。また既に出撃して北上していた第7艦隊も偵察機を発進させ、枢軸機動艦隊を捜し求めた。
一方追われる側となった枢軸機動艦隊は、実力で大きな差がある日本艦隊との戦闘を避けるため、その高速力に物を言わせて遁走した。そのためこの日は日没もあって、日本側には発見されなかった。
翌日、ようやく日本艦隊はジブチへ向けて一直線に逃げる枢軸機動艦隊の針路予測の結果飛ばした偵察機からの報告で枢軸機動艦隊を捉えた。既に敵地であるソコトラ島に接近していることと、こちらの最高速度が敵に著しく劣ることもあり、攻撃のチャンスは1回切であった。
城島中将はただちに6隻の空母から全力出撃である150機を発艦させた。
この攻撃隊は、枢軸機動艦隊手前120km地点でレーダーに探知された。伊仏空母からは直ちに戦闘機50機が出撃し、迎撃を行う。
機動艦隊手前の海域で、日本海軍が誇る零戦と伊海軍のRe2001戦闘機、仏海軍Fw190戦闘機との大空中戦が展開された。数的には日本海軍が若干勝っており、さらにパイロットもベテランぞろいだった。
一方伊仏空母のパイロットは練度不足のパイロットが混じっていたため、最終的に零戦に圧倒された。敵戦闘機の網を潜り抜けた80機近い攻撃機は枢軸機動艦隊に襲い掛かった。
枢軸機動艦隊の方では戦艦から駆逐艦に至るまで一斉に対空砲火を開き、さらには回避運動に入った。
4隻の高速戦艦と3隻の空母を中心とする輪陣形の中心目指して日本機は突進した。高速の「彗星」と超低空飛行の「天山」は敵の対空砲火を惑わしたが、それでも伊仏軍将兵は果敢に戦った。
結果沈没艦は仏海軍の大型駆逐艦1とイタリア海軍の軽巡1隻のみで済んだ。しかしながら3隻の空母は甲板に被弾するか魚雷を受けて傾斜するかで航空機の運用は不可能となり、戦闘能力は完全に喪失した。また損傷艦も10隻に上った。
対する日本側の損害は戦闘機を含めて20機と、全体的に見れば微々たるものであった。その一方で被弾機も多数発生し、枢軸艦艇の対空砲火が強化されている事実を認識せねばならなかった。
日本側としてはもう一押し出来れば敵空母撃沈も出来たのだが、城島中将はそれ以上の攻撃を諦めざるを得なかった。
この海戦で日本側の印度方面の物資揚陸は若干の支障を来たしたが、それも2週間程度のことで、枢軸機動艦隊の攻撃は徹底差を欠いた。それでもその実力が以前に比べて遥かに上達していることは、日本海軍には脅威として捉えられた。
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