第二次世界大戦 6
印度亜大陸西側のカラチに上陸した日本陸軍印度派遣軍はその後西進して、東進してきたドイツ軍を中心とする枢軸軍と戦火を交えることとなる。
この戦闘が起きるのはもう少し先のことであるが、一先ず日本は印度へ陸上部隊を送り届けることが出来た。
しかしながら、陸戦は陸上部隊だけで成り立つものではない。近代戦であるならその上空を守る航空戦力は不可欠である。また遠く外地へ遠征している部隊であるなら、その戦闘力と兵士の士気を保つために弾薬・食料などの定期的な補給が欠かせない。
これらもまた、海上輸送以外の輸送手段がない。だから海上護衛艦隊と連合艦隊の一部は、そうした輸送船団や輸送艦隊を守るために、以後もアラビア海やインド洋でUボートや枢軸潜水艦との死闘を繰り広げる必要があった。
また英国からの要請により、インドと喜望峰の間を結ぶ交通線の護衛任務にも日本海軍が戦力を派遣することとなった。これは死に体の英国では、もはやアジア方面へ回す戦力などなくなっていたからだ。
これに伴い、日本海軍では急遽さらなる海上護衛戦力が必要となった。ここで役に立ったのが、戦前にノモンハン戦や日中戦争を通して蓄積した護衛艦の大量建造技術と、戦闘経験であった。このお陰で半年間に日本は本土や植民地の造船所で実に80隻近い各種護衛艦をマスプロ出来た。さらに戦闘経験を元に作られたマニュアルは、兵士の大量育成に役立てられた。
一方日本に遅れること3ヶ月で第二次世界大戦に参戦した米国は、その主戦力を大西洋や地中海方面へ向けた。この時点で英海軍は地中海から完全に叩き出され、地中海の入り口にある良港のジブラルタルも火事場泥棒的に参戦したスペインに盗られてしまった。
そこでアメリカ軍は、まずはジブラルタルの奪回を計画しつつ、開戦後は専ら大西洋での船団護衛に従事した。米国は五大湖でモスボールしていた4本煙突が特徴の平甲板型駆逐艦を現役に復帰させると、さっそく海上護衛に投入している。
しかしながら、実戦経験がないことからこれらに守られているにも関わらず開戦直後から船舶に被害が多発した。しかもその多くがタンカーであったため、アメリカ本国では一時ガソリンが配給制度になったくらいだった。
また大西洋艦隊の戦艦と空母にもUボートの被害が出始めた。特に空母「レンジャー」と戦艦「テキサス」の喪失は、米海軍上層部にショックを与えた。
そのため米海軍は直ちに対策を立案、講じている。まずUボートの動きを封じるべく対潜航空隊を整備し、さらに暗号解読部隊も新設し、Uボートを積極的に発見し狩りだす態勢を整えた。
また輸送船団の護衛戦力としても、1000t程度で低速の護衛駆逐艦やそれよりもさらに小さいPFの建造も開始された。
これらは初期段階こそ工員や造船所側が不慣れであったために建造スピードが遅かったが、戦時体制へ大きく移行した昭和18年半ばごろには最短3ヶ月で建造を完了し、1日1隻のスペースで竣工させた。
なお日本海軍は、急速な護衛戦力拡大に対処するため、アメリカから護衛駆逐艦6隻、フリゲート36隻、護衛空母2隻を、さらに「カタリナ」飛行艇やB25など対潜用航空機も多数買い込んでいる。
アメリカのすごい所は、平時の戦力こそ大したことはないが、戦時になると短期間の内に戦力を揃えてしまうことだ。しかもその量も半端ではない。
戦争の相手がヨーロッパ枢軸国のみとなったため、海軍の必要性は大幅に薄れてしまったが、それでも米海軍は旧式戦艦の代替として最新鋭の「アイオワ」、「モンタナ」級戦艦につづいて46cm砲装備の「フロリダ」級の建造に着手し、なおかつ「エセックス」級空母や「ミッドウェイ」級空母の建造にも取り掛かっていた。
対する日本海軍は、海上護衛隊と近海防衛艦隊の艦艇こそなんとか整備したが、連合艦隊の方は戦艦1隻、巡洋戦艦2隻、正規空母4隻が建造中であったが、アメリカが建造している艦艇数に比べれば点と地ほどの差があった。
さて、その日本海軍は英国から借りたセイロン島のコロンボ軍港やシンガポールのセレター軍港、ペナン軍港やカルカッタ軍港を拠点に、インド洋とアラビア海の船団護衛に全力を尽くしていた。また先ほども書いたとおり、一部の部隊は遠く喜望峰まで遠征していた。
一方、そうした護衛戦力以外の部隊も続々とこの方面に進出した。水上艦隊としては城島中将に率いられた空母「飛龍」を中核とする、正規空母2、軽空母4、巡洋戦艦2からなる新編成の第7艦隊がセイロン島へと前進し、再度のアラビア海における作戦に備えていた。
また潜水艦隊の一部も増派され、紅海封鎖作戦に投入された。日本海軍の潜水艦は大型で攻撃力が大だが、騒音問題を解決できていなかったため、最初の頃こそ枢軸国側の反撃態勢が整っていなかったので大暴れできたが、その後は損害が多発した。これを契機に日本側では、潜水空母「伊400」型や既存タイプの潜水艦の建造を中止し、静粛性に優れた水中高速潜水艦の「伊200」型と「呂150」を集中建造する方針に切り替えている。
一方海軍に続いて陸軍もセイロン島防空や、地上部隊直協用に航空隊をこの方面に投入している。その中核は、ノモンハン戦の経験から開発された液冷エンジン装備の2式中戦闘機「飛燕」や地上襲撃機の2式襲撃機「剣」、高速の3式爆撃機「飛龍」であった。
この内「飛燕」は海軍でも14試局地戦闘機の代替機として「海燕」として正式採用されている機体で、また「剣」は海軍の艦上爆撃機「彗星」の改修版で、爆弾倉に地上銃撃用の機関砲を搭載可能な様に改良されていた。
これら陸軍航空隊の機体は第一次大戦以降日本側が力をいれた航空技術の発展を欧米に誇示する物ばかりで、特に「剣」は未だ固定脚の「スツーカ」を使用するドイツ軍に衝撃を与えている。
もっともこれら航空機も充分な燃料と補給機材がなければただの鉄くずである。日本側は全力を持ってそれらを運ぶ輸送船団の安全確保に努める必要があった。
一方枢軸国海軍は、アメリカの参戦でUボートの多くを大西洋方面に向ける必要が生じたことから、この方面の主力はフランス海軍やイタリア海軍となった。
しかし両海軍とも独海軍に比べて質量共に劣っており、日本海軍は楽な戦いを行うことが出来た。
もっとも、油断大敵で時々大火傷する事態も起きた。特にイタリア海軍の潜航艇や魚雷艇には手を焼かされることとなった。
集団では弱いが、個人的に英雄になることを好むイタリアでは単独もしくは少人数で操れる兵器の方が戦果を上げることが多い。それはインド洋でも同じであった。
この方面に投入された人間魚雷や魚雷艇は、日本海軍の隙を突く形となった。昭和18年3月から4月にかけてその被害は頂点に達した。幸い戦艦や空母、重要物資輸送中の船舶に被害は出なかったが、2ヶ月間の内に巡洋艦と護衛巡洋艦合わせて3隻、護衛駆逐艦2隻、海防艦1隻、商船・輸送艦4隻が撃沈されて、その2倍の艦船が被害を受けた。
この事態を受けて、日本海軍は再度アラビア海沿岸の敵拠点を叩く攻勢作戦を計画した。
対する枢軸国海軍も、一度は壊滅した艦隊を再建し、インド方面艦隊としてアデン湾に前進させていた。その陣容はイタリア空母「アキラ」、「スパルビエロ」、フランス空母「ジョフレ」、戦艦4隻、巡洋艦10隻からなる以前よりも強力な艦隊であった。
またそれを支援する基地航空隊も、航続力を強化したFw戦闘機や最新鋭のJu爆撃機だった。
アラビア海に再び鉄と炎の嵐が吹き荒れようとしていた。
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このシリーズでは、一部史実をもとにしている所があります。