第二次世界大戦 5
セイロン島に入った日本陸軍印度派遣軍を乗せた輸送船団は、同地で一端燃料や消耗品の補給、さらに乗員や乗船兵士の休養を行った。
日本の兵員輸送船の質は、日中戦争期までは最悪としか言えないレベルであった。兵員輸送船の多くが徴用した貨物船の改造船であったため、兵が乗せられる場所は灯も通気設備もまともにない船倉で、しかも船の数自体が少ないのでベッド代わりに蚕棚という木製の2段式の箱を置いただけであった。しかもそこに少なくとも2000人、多ければ4000人の大人数がすし詰めとなる。
この場合、兵士は暑く暗い、それこそ足の踏み場も無い場所に長時間閉じ込められることとなる、しかも、寝る時も個人スペースの区分けがないため、はっきり言って24時間プライベートな時間はほとんど無い。さらに食事も配膳係りが配る物を各々が持った食器で食べるという方式であるため、あまり豪華な物は食べられない。
これが客船になると、貨物船よりはマシな設備となるが、やはりすし詰めのプライベート無しという劣悪な環境に変わりは無かった。
こうした環境は、当然衛生面では不潔な事態を生み出し、さらに兵士個人の体力や気力を奪う。また万が一攻撃を受けて船が沈む時も、兵員が素早く脱出出来ないというリスクも抱えていた。これが日中戦争において第七師団に大きな犠牲を強いた原因だった。
しかしながら、これは輸送船の数が戦時になったら根本的に足りないという日本の国力の限界から来る問題なのでどうしようもない。そもそも日本の国力だけで外征すること事態大きな間違いであるのだ。
ちなみに、これが英米の兵員輸送船となると大きく事情が異なってくる。英米の兵員輸送船の場合、まず兵を船倉にすし詰めなどにはしない。確かに収容人数は多いが、それでも日本程ではない。英米の場合は、兵員を輸送する輸送船にはまずスチール製の2〜3段式ベッドが設けられる。担架かハンモックと同等の広さしかないベッドであるが、それでも個人の空間は確保される。
食事についても、英米の兵員輸送船の場合配膳係が一人一人を周ることなどせず、食堂で作られた食事をトレイで受け取り、そのままそこで食事する方式である。しかもその食事も大人数分作ることと、船上で作ることを差っ引いてもステーキなど充分なレベルが保たれていた。
こうした船上における待遇の違いは、国力の差を如実に物語っているが、それでも兵の危険とか士気への影響を考えるといつまでも劣悪な環境で兵士を運ぶことは望ましくなかった。第一同盟関係となった英国から「あなた方の国は兵士に対する配慮が足りない」と批判を受けていた。
そこで日本陸軍では兵士の輸送方法を改善することにした。まずそれまでの蚕棚を置く方式をやめ、英米に習ったスチール式ベッドか、もしくは海軍から譲渡を受けたハンモックを釣る方式に切り替えた。
そしてそれまでの輸送船に簡単な改修を行う方式も改め、一部を専用船を造って運ぶようにした。もちろんこれだけでは足りないので、民間船の徴用は相変わらずであったが、これも英国から指導を受けて、それまでの雑多な船の使い回しから、専用船を指定して改造を加えるようにした。
これによって兵員を1隻で運べる人数は大幅に減ったが、兵士は個人空間とこれまでに比べて遥かに快適な空間を手に入れ、士気は大幅に高まった。特に食事も、さすがに肉を頻繁に出すことは出来なかったが、それまでの配膳式から食堂での食事に切り替わったため、余裕を持った食事が可能となった。
この方式が最初に実践されたのが仏印への侵攻作戦であったが、非常に好評であり兵士たちの士気を盛り上げた。そして今回のインド派遣作戦でもその効果は発揮されていた。
さて、その日本輸送船団はセイロン島での補給と休養を2日間ほどで終えると、そのままインド亜大陸に沿ってアラビア海を北上した。大陸沿いのルートを航行するのは、航行距離を抑え、なおかつUボートの襲撃機会を奪うためだ。
対するUボートはこのおいしい獲物を狙って虎視眈々と待ち受けていた。彼らにしてみれば印度に増援を派遣されることは好ましくないし、第一先日のマダガスカル空襲の敵討ちの色合いも濃かった。
船団は高速船ばかりで編成したので、この時は巡航速度14ノットで走っていた。もちろん対潜水艦運動である乙の字航行を不定期、かつパターンを変えて行い、また昼夜問わずに対潜哨戒機を飛ばしていた。
今回船団に随伴した護衛空母「蒼鳥」と「赤鳥」には、それぞれ数少ない夜間の離発着が可能なパイロットを乗せていた。機体も夜間飛行可能な様に改修されていた。
これまでであったら、夜間の哨戒飛行など自殺行為以外の何物でもなかった。まず夜間上下がわからなくなる可能性さえある海上飛行は危険が大きい。また例え飛んだとしても敵を発見できる可能性が皆無だった。
しかしこの頃には、機体にMADが搭載されたため夜間でも水中にいる敵潜水艦の探知が可能となり、さらに航空機や空母にも夜間でも運用可能なようにライトや各種計器を搭載していた。なにより、対潜哨戒機なら2人乗りである点が夜間飛行に味方した。
一方対するUボートもこの時期にはレーダーの搭載やシュノーケルの搭載で隠密性を向上させていた。また群狼戦術も連絡技術を向上させてより精緻さを増さしていた。
1942年10月時点で、第二次世界大戦は急速に科学戦へと移行していた。
船団とUボートの直接対決は出港翌日から始まった。まず、3隻のフランス海軍潜水艦が船団に襲い掛かった。しかしながら、これは早期に対潜哨戒機と護衛艦に発見され、双方被害無しのドローゲームに終わった。
続いてUボート4隻が得意の群狼戦術で、しかも夜間襲撃に出た。この攻撃で船団側は護衛駆逐艦「菖蒲」が艦首切断という大被害を負い、最寄りの港に待避した。(後全損として破棄)
ただしUボート側も哨戒機に突如として爆雷を叩き込まれ、1隻が損傷。それ以上の攻撃を中止し、肝心の輸送船には攻撃を加えられなかった。
続いてその日の明け方、今度はイタリア海軍潜水艦が単独での襲撃を行ってきた。しかも大胆にも機関を止めて水中でジーと待って船団内へと進入したのだ。そのイタリア潜水艦「マルコーニ」は、戦車輸送中の2型輸送艦に魚雷2本を命中させて、見事轟沈へと追い込んだ。初めての日本側船団の犠牲である。
もっとも護衛艦と対潜哨戒機による報復も即座に実行され、同艦はからくも脱出したが、結局帰還後全損破棄となっている。
この日の戦闘で、日本側は潜水艦1隻に撃沈同等の損傷を与え、1隻に損傷を負わせたが、輸送艦1隻と駆逐艦1隻を喪い、それとともに戦車6両を始め兵員200名あまりを喪ってしまった。敗北である。
護衛艦隊指揮官であった西条少将は、より徹底した対潜哨戒を命じた。
しかしながら、その後しばらく襲撃は一切無く、船団はいよいよ目的地のカラチに接近した。ところが、ここでUボートの襲撃を受けた。
この時の相手は4隻で、やはり待ち伏せしていた。
日本側はこれ以上1隻も喪わないという気概を持って戦闘に入った。これが最後とばかりに稼動する全ての対潜哨戒機を発進させ、護衛艦も遠慮容赦なく爆雷を叩き込んだ。
対するUボートも負けじと船団への攻撃を行った。この時Uボートの一部には最新兵器の音響魚雷が搭載されており、それで攻撃を行った。
結果、最終的にUボートは4隻中3隻を喪い、ほぼ壊滅。一方の船団は音響魚雷を受けた駆逐艦1隻、海防艦2隻が大破し、さらに通常魚雷の攻撃で護衛巡洋艦も中破したが、輸送船と輸送艦への損害はゼロで抑え、作戦目的を完遂した。
戦闘終了数時間後、若干の損害は出したものの船団はカラチへと入港し、運んできた陸軍部隊を揚陸した。
御意見・御感想お待ちしています。