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真の海防  作者: 山口多聞
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第二次世界大戦 4

 マダガスカル島の基地機能を一時的に奪い、なおかつ同地に駐留していた独仏伊連合艦隊を壊滅に追い込んだ日本海軍は、艦隊の再編成を行いつつ、英国の求めに応じて開戦3ヶ月目にしてインド・中東方面への戦力派遣を開始した。


 陸軍ではインド方面に飛行場や軍港守備に1個師団、さらに中東方面に2個師団を派遣部隊として新設して送り込んだ。これらはいずれも第一次世界大戦・日中戦争・ノモンハン事件と言った極最近の戦闘を元に開発した新式装備で固めた陸軍の最精鋭であった。


 戦車も75mm長砲身砲に、75mm厚の装甲を誇る2式中戦車と、96式戦車の改良型(75mm野砲+装甲50mm厚)である零式中戦車、さらに96式中戦車の車体に75mm長砲身砲を載せた1式自走砲と言ったドイツの4号戦車程度になら勝てる戦車を集中配備した。


 その他の乗用車やトラックも、満州やアメリカから輸入したトラックやジープが全ての部隊に行き渡り、この時点では帝国陸軍唯一の完全機械化部隊であった。


 兵隊の装備も一部の部隊にはアメリカから輸入された短機関銃や半自動小銃が配備されていた。また給食装備や医療装備もこれまでに無いほどに忠実していた。


 しかしながら、これら部隊も敵と戦ってこそその真価を発揮する。まかり間違っても海上で沈められて装備は海没、兵は着たきりすずめ状態になってはならない。帝国陸軍は日中戦争時の第七師団の悲劇を忘れてはいなかった。


 そう言うわけで、陸軍は今回輸送船団の護衛を行う近海防衛艦隊と海上護衛艦隊に並々ならぬ期待を抱いていた。


 今回陸軍部隊をインド洋まで輸送する輸送船は民間から徴用した大型で高速の優秀船のみならず、陸軍が海軍と共同開発した強襲揚陸艦や戦車輸送艦も含まれていた。


 強襲揚陸艦は艦体内に兵員を速やかに上陸させる大発を収納可能な格納庫を設けた艦で、日中戦争でも上海付近での上陸戦に役立っている。その時点では1隻のみだったが、その後災害時の住民避難や、遠隔地における治安維持部隊派遣に使用できることから3隻が量産された。


 いずれも広島県の宇品軍港にある陸軍船舶部隊の指揮下にあり、竣工してからは演習で移動する部隊の輸送や、災害が多発す台風や豪雪期には救援のために編成された派遣部隊の輸送に使われたりもした。


 なおその強襲揚陸艦「神州丸」の光景として、飛行甲板を設けた「あきつ丸」型も計画されたが、こちらは近海防衛艦隊が誕生したことと、海軍が上陸支援に空母の投入を提案したため中止となった。


 ちなみにその上陸支援空母となったのが、海軍が日本郵船より買い取った「浅間丸」型客船を改装して建造した「大鷹」型である。同クラスは艦隊用空母となった「隼鷹」型と同じく、客船へ戻すことを考慮せず徹底的な改装が加えられた。


 また戦車輸送艦は、直接浜に乗り上げる後の世で言うLSTタイプで、当初は1000t程度で、96式中戦車の輸送を想定したが、その後戦車が大型化したため排水量を1500tまで拡大している。こちらも平時における運用も考慮されている。やはり災害時の運用が期待されたが、それ以上に道路事情が悪かったこの時代は遠隔地への輸送任務、離島への輸送任務、災害派遣任務に重宝された。


 なお平時における運用を考慮したのは災害対策のみならず、大蔵省対策でもあった。


 戦車輸送艦の方は陸軍名「SS艇」で、固有名詞は無く全て番号制だった。またこの艦は海軍でも陸戦隊の派遣や離島への補給任務用に「2型輸送艦」として建造が行われている。こちらも固有名詞ではなく、全て番号で呼ばれた。


 さらに付け加えると、護衛駆逐艦「松」型の設計を参考に、艦体後部にスロープを設けて上陸用舟艇や特殊潜航艇を搭載可能とした「1型輸送艦」も建造されている。こちらは強行輸送任務に適役であったが、結局その様な艦艇が必要とならなかったため、この戦争では2隻が建造され補助任務に投入されるに留まった。

 

 さて、そうした優秀な輸送船と新型輸送艦合わせて30隻あまりを用いての輸送作戦「竹」作戦が発動された。同部隊は英国領インドのカラチへ向けて、宇品軍港を出発した。


 この時期独ソ両軍は既にイラン・イラクを占領し、ドイツ軍はフランス・イタリア軍、さらには一部の同盟軍(スペイン義勇軍等)と共に一気にインドへ雪崩れ込まんとしていた。


 日本陸軍印度派遣部隊はそのドイツ軍と対峙するべくインド亜大陸西側の要衝に上陸する予定だった。なお、一時期はホルムズ海峡を抜けてイラク方面への強行上陸も考えられたが海軍と英国の戦力が不足していたため、却下された。


 船団は宇品を出港すると馬公、シンガポールを経由してインド洋へと突入した。シンガポールからは同地に派遣されていた海上護衛艦隊が護衛の任務を行った。


 30隻の船団を守るために派遣されたのは、本土から増派された戦力を含めて護衛空母2隻、護衛巡洋艦1隻、護衛駆逐艦4隻、海防艦12隻。さらに連合艦隊から派遣されてきた駆逐艦4隻もそれに加わった。


 輸送船30隻、護衛艦23隻、合計53隻の船団であった。護衛対象に対して護衛艦が随分と多いのは、この作戦に陸海軍が如何に心血を注いだのか如実に示すものであった。


 同船団はスンダ海峡を抜けると、一気に最短コースで最初の寄港地セイロン島のコロンボを目指した。


 もちろん、こんなおいしくかつ重要な目標を独伊仏海軍が見逃すはずが無かった。水上艦隊はしばらく使い物にならなくなってしまったが、Uボートは一歩下がった伊領ソマリアの港や、場合によっては洋上での補給を継続して戦闘を続行していた。


 独仏伊枢軸軍がマダガスカル方面へ進出した当初、インド洋方面へ展開するUボートは10隻程度で、その分を仮装巡洋艦で埋めていた。3国合わせて実に20隻あまりの仮装巡洋艦が連合国や中立国の船に化けて活動していた。


 ところが仮装巡洋艦は日本機動艦隊との戦いや、インド洋方面へ出撃した伊号潜水艦に次々と撃沈されてしまった。またUボートも5隻が短期間の内に喪われた。


 そこでドイツ海軍司令部は、仏伊海軍にも協力を要請してUボート8隻を地中海より派遣するとともに、さらに伊海軍から5隻、仏海軍から4隻の合計17隻の潜水艦を増派して総配備数を当初の2倍に近い20隻あまりに増やした。


 これら潜水艦は新たに「モンスーン」戦隊と名づけられて、マダガスカル島に置かれた(一時エチオピアに後退)司令部の指揮の元インド洋や、一部はオーストラリア沿岸、シナ海にまで進出して作戦を行った。

 

 だがこの時ばかりは、稼動する全ての潜水艦が日本船団攻撃に出撃している。


 もっとも、日本海軍とてそんなことは予想済みであった。まず戦闘は近海防衛艦隊所属の基地航空隊との間でスタートした。


 セイロン島には旧式化した96式陸攻を改造した96式対潜哨戒機や、99式飛行艇を中心とする対潜飛行隊が進出していた。これらの機体は英国空海軍機とともに、枢軸空軍機の活動を気にすることなくインド洋を所狭しと飛び回った。


 そして船団がシンガポールを出港した2日後、99式飛行艇の1機が磁気探知機によって潜水艦1隻を捕捉して攻撃を加えた。この潜水艦はフランス艦であったが、なんとか巧みに爆雷攻撃を避けようとした。しかしながら、その後応援の飛行艇による攻撃で潜行するのに致命的な損傷を負い、浮上を余技なくされた。そこへ、さらに増援でやってきた96式対潜哨戒機の集中攻撃を受けて撃沈された。


 こうして先制点は日本側のものとなり、これを合図に船団と枢軸潜水艦隊との熾烈なバトルが開始されたのであった。

 


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