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真の海防  作者: 山口多聞
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次なる戦いへ 2

 仏印における日本の行動に共同で反感を持ったのか、フランスは以後ドイツと協調し始めた。特に義勇艦隊として出撃した海軍の地中海艦隊はドイツ軍やイタリア軍に協力して地中海で暴れまわった。


 そして1941年4月にはドイツの中東侵攻に併せる形でヴィシー・フランス政府が正式に枢軸国として参戦した。これはフランスで高まっていた対英・対日感情の悪化と言う、ドイツ国民が持ち始めていた共通感情を逆手にとったこと、さらにヒトラーがそれまでの占領政策の大幅な見直しをフランスに確約した結果であった。


 これを受けてフランスは海軍のみならず、陸空軍も本格的に参戦した。ソ連へと攻め込まなかったことで余力充分なドイツ軍は、大きな味方を得た形となった。


 独仏伊連合軍は地中海における制海・制空権を収めるとそれこそあっと言う間にエジプトを陥落させ、スエズ運河を確保。英国にとられていた伊植民地エチオピアを取り返し、孤立していたマダガスカルへの道を開いた。


 マダガスカルが完全に枢軸国の手へと落ちたのは1941年12月のことであった。これによって英国は本国から喜望峰、インドへと向かう航路に楔を打ち込まれる形となった。


 さらに有望な油田地帯である中東地域との交通も完全とまでは行かないまでも、大きく制限を受けることとなった。


 さらにドイツが中東へと触手を伸ばす動きを見せると、スターリンのソ連もカスピ海方面から中東地域へ進出する動きを見せた。


 もはや英国は風前の灯だった。幸い本国こそ陥落してないが、これはヒトラーが敢えて英国上陸作戦を回避しているからであった。中東やインドからの交通をマヒさせ、物資さえ絶てば英国は自滅するという戦略からだった。


 もっとも、実際の所英国人はジョンブル魂を発揮して粘っていた。たとえ中東とアジアからの物資を絶たれても、アメリカやカナダ、オーストラリアから物資が運ばれればなんとかなると考えていた。


 海軍の艦隊も地中海艦隊を失っていたが、本国艦隊は無事であった。ドイツ海軍が行ったライン演習作戦で巡洋戦艦「フッド」を失い、「プリンス・オブ・ウェーズル」、「ロドネー」大破という被害を受けたが、ドイツ海軍の象徴「ビスマルク」を半年間ドックへ送り込んでいる。


 いまだイギリスの戦意は旺盛だった。しかしながら、実際の所戦況が苦しいことに変わりはなかった。それに加えて、英国として我慢ならないのは中東やアジア地域に共産主義ソ連がドイツの進撃に便乗して進撃してきたことだった。


 英国首相チャーチルにとって、確かにヒトラー率いるナチスは厄介な敵であった。しかしながら、ナチスさえいなければドイツは同じ資本主義であるからまだ良いと考えていた。


 しかしながら、共産主義で王政も資本主義も否定しているソ連はそれ以上に厄介だと言うのが彼の持論だった。もしソ連が連合国として存在していれば見方も少しは変わったかもしれないが、いまだにソ連はドイツと蜜月状態であった。


 しかも忌々しいことに、英国にとって頼りにするはずの米国がソ連に肩入れしていることだった。これはソ連が米国内に潜ませているコミンテルンの力が大きい。彼らはたくみにルーズヴェルトを煽ってソ連への援助を引き出していた。


 スターリンとしては、この大戦後の敵は世界最大の資本主義国家アメリカ合衆国と考えていた。そのためその戦略は英独のヨーロッパ2強国を共倒れさせ、その間に中東とアジアの一部を勢力圏に加えて力を蓄えることであった。また出来ればアジアの強国日本も倒さないまでも衰弱させておきたいので、米国と戦争状態になるようにけしかけていた。


 もっとも、いくらニューディール政策の行き詰まりから戦争を望むルーズヴェルト政権にしても、日本へ戦争を仕掛けるだけの口実がなかった。ノモンハン事件やそれに前後した開戦、日中戦争、仏印での紛争等、いずれも非難声明こそ出したが、それ以上の強攻策はイギリスからの強い圧力で出来なかった。またこの時期日本がそれまでの膨張主義を停滞させていることと、満州への経済的門戸解放を行ったのも大きかった。


 それに加えて、アメリカの世論は微妙な所だった。もともと海外の戦争に見向きもしない国民性であるから、その大部分は例え世界大戦であっても自分たちが攻撃を受けない限り戦争等もっての他と思っていた。


 そうした一方で、ナチスからの迫害を受けているユダヤ人はドイツへの戦争参入を強く望んでいた。これは数的には極少数だが、その影響力は非常に大きい。


 ルーズヴェルトは、この戦争に対してどう向き合うか大いに悩む所だった。謀略をけしかけるイギリスとソ連、さらに戦争を望まない国民と望むユダヤ資本。一体どれに耳を貸すべきなのかと。


 アメリカと太平洋を挟んで同様に世界大戦に注視しているのが日本であった。この時期日本の政権は穏健派にして協調外交を行う幣原喜重郎が首相であった。


 しかし、その彼にしても膨張を続ける独ソは最早協調出来る存在ではなかった。国内では当初こそ、日中戦争とノモンハン事件と続いた戦争から戦争の勃発を望まない声が高まっていたが、次第に独ソに対する脅威論が大きくなっていた。


 もっとも、だからと言って日本としても戦争をするだけの理由に欠けていた。直接攻撃を受けたわけではないし、日本の主権を脅かされる事態も起きていない。


 その状況が大きく変転したのがマダガスカル島の陥落であった。同島が枢軸の手に落ちたことで、独仏伊艦艇が次々とインド洋へ出没し始めた。それどころか、一部の艦艇は英国の監視網をすり抜けて、ニューカレドニアにまで進出する始末であった。


 これは太平洋への枢軸の進出を予感させ、日米両国の警戒心をアップさせた。この時点で両国は直接の参戦を行わないものの、英国へ対する支援を表明しており、米国は駆逐艦60隻を貸与していた、日本も海防艦や護衛駆逐艦30隻をアジア方面の英国艦隊へ売却していた。


 そして年が明けて1942年2月、産油地帯のイラン・イラクがソ連の手に落ちた。またドイツ軍もアラビア半島をほぼ制圧した。またこの2ヵ月後にはセイロン島に本拠地を置く英国東洋艦隊が独仏連合艦隊の前に敗れるという衝撃の事態が起きた。


 独仏連合艦隊はマルタ島で拿捕した空母「イラストリアス」、仏空母「ベアルン」の航空戦力で軽空母「ハーミス」のみの英艦隊を圧倒したのであった。


 ここまで来ると、セイロン島やインドどころかシンガポールにまでドイツ軍が来そうな勢いであった。ソ連軍の侵攻こそ止まったが、ドイツがインドへ触手を伸ばすのは時間の問題だった。ヒトラーはインドの運動家ボースを懐柔して、インド独立にかこつけて進撃する気満々だった。


 ことここに至り、日本はようやく重い腰を上げることとなった。ドイツにはこれ以上の侵略行為を停止するよう求めると共に、艦隊の一部を南洋や台湾へと前進させた。


 そして1942年6月5日、インドからシンガポールへ向かっていた日本船籍の貨物船が相次いで撃沈されると日本の世論はついに爆発した。1週間後の6月12日に日本は対独宣戦布告を行った。


 一方アメリカは少し遅れて8月7日に、やはり大西洋で起きた巡洋艦撃沈を理由にして対独宣戦布告を決断した。


 なお、この2つの事件に関しては英国の窮状が限界に達していた時期であったこともあり、後に英国による謀略ではないかと言われることとなる。


 日本は直ちに中東への出兵に備えた。もちろんその中には近海防衛艦隊所属の艦艇群もあった。彼らは臨時編成の海上護衛総隊に組み込まれたのであった。

 


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