次なる戦いへ 1
英国からの再度の同盟締結と反枢軸国としての参戦を日本が打診されたのは、開戦から半年経過した昭和15年9月のことであった。この時点でヒトラーはポーランドをソ連と共に全滅させ、さらにオランダやノルウェーにも触手を伸ばしていた。
英国やフランスはそれらを手をこまねいてみていたわけではなかった。各地に自軍を派遣して、ドイツの攻勢を止めようと必死こいて戦った。しかしながら、ドイツ海軍が貴重な半年間で増強したUボートや水上艦隊は英国海軍やフランス海軍を圧倒せずとも、翻弄した。特に島国英国は第一次大戦と同様通商路を破壊され大きな痛手を負っていた。
このままでは第一次大戦以上の悪夢を見てしまうかもしれないと考えた英国は、極東の大日本帝国に助けを請うた。日本はつい半年前まで格下とはいえ中国やソ連の潜水艦と連続して戦い、英国が20年ばかり遠ざかっていた対潜水艦戦闘のノウハウを蓄えていた。
まず英国はそのノウハウを提供するよう日本側に要請したが、これにか関しては日中戦争講和の斡旋という恩もあり、余程の機密となりえる条項以外、惜しみなく英国に引き渡された。また英国から派遣された将校・技術士官と日本側軍人たちの交流も精力的に行われ、多くの意見が交換された。この際、前投兵器のアイディアが生まれたことは、日英の対潜技術向上に大いに役立った。
しかしながら、英国としてはそれ以上に日本海軍と陸軍の自軍側としての参戦を望んだ。何せ連合艦隊は世界第3位の規模を誇り、もしヨーロッパの海に馳せ参じれば小うるさいドイツ海軍艦隊など一蹴出来る。少なくとも地中海へ来てくれれば、生意気なイタリア海軍艦隊を撃滅してくれるだろう。
また陸軍も中ソとの戦いで実戦経験充分であり、その保有兵器も自動車化に遅れが目立つ以外は戦車、大砲、銃など全て優秀な兵器を誇っていた。これは第一次世界大戦での戦訓を生かした結果と言えよう、特に航空機と戦車の進歩は著しい。
この魅力的な戦力を仲間に加えたいと思うのは、苦境の英国としては当然の考えだった。特に有力な同盟国であるフランス軍が予想以上に貧弱であったからだ。もう1つのアメリカは中立を貫いているので、参戦はよっぽどのことがないと有り得ない。
だから新たな有力な同盟国として、日本は英国の目に映っていた。
しかしながら、一方の日本からしてみれば英国からの同盟提案はともかく、ヨーロッパへの派兵はしたくなかった。半年前まで戦争(紛争)が続いていたため議会や政府は、新たな戦いを望んではいなかった。また第一次世界大戦でヨーロッパへ派兵して大きな収穫と共に打撃を負ったことも大きかった。
あの時と同じく、再び英国にそそのかされて戦争へ突き進むのか?という気持ちは当然日本人の多くから出た。
もちろん、外交戦術については世界一の能力をもつ英国はそんなこととっくに予想済みであった。彼らはそれ相応の餌を用意していた。
まず自国の植民地や保護国であり、大量の良質な石油を産出する中東地域における石油採掘権の日本企業への無償譲渡を提案してきた。
これは日本にとって大きなメリットのある提案だった。日本の石油は自国内のわずかな量と満州の油田から出る分を除けば全て外国産だった。満州の油田は量こそ多いが、航空機燃料には向かい重質油であるため、良質な石油がでる中東の油田をわけてもらえるのは嬉しい以外の何物でもない。
またその他にも、インドやマレー半島と言った植民地にあるゴムや錫と言った戦略物資の採取権や採掘権の譲渡まで提示されていた。さらに新型兵器、特に日本では遅れがちだった電波兵器や液冷エンジンの技術の無償譲渡もオマケとして提示された。出血大サービス(特にレーダーに関しては)と言える条件だった。
しかしながら、この時期は植民地という体制に大きな疑問が持たれ始めていた時期でもあり、さらに日本側の猜疑心も大きく、この提案を「はい、わかりました。」と日本政府は飲むことが出来なかった。
せめてドイツの膨張が日本の不利益になることが証明されるか、直接侵攻してくるなら話は別だろうが、友好国と言うだけで再度の同盟締結と参戦と言うのは幾らなんでも説得力不足であった。
英国と対峙するドイツはドイツで日本側の取り込みに動いていた。ドイツは中国潜水艦やソ連軍と戦った日本軍の実力をそれなりに評価していた。
そのためドイツも様々な条件を提示して、同盟国と言わないまでも友好国になってくれることを望んだ。しかしながら、こちら側はイギリスほど上手く行かなかった。
まずドイツが中国に対して相当な肩入れを行っていたことが日本の心象を悪くしていた。何より、ナチス自身が有色人種を迫害する傾向にあるのだ。
一応普通レベルの付き合いはするが、軍事的な付き合いは深くしないと言うのが日本側の既定路線だった。
そして間もなく、ドイツと日本の中は悪化することとなる。まずロンドン航路を走っていた日本郵船の客船「照国丸」がロンドン出港間もなく、ドイツ潜水艦の攻撃を喰らうという事件が起きた。これはUボートの艦長が「照国丸」を英国船と見誤った結果だった。幸い命中魚雷は1本であり、さらに船員の冷静な対処によって船は沈んでしまったが、乗員・乗客全員が脱出・生還した。
ドイツ政府はただちに陳謝したが、この事件は当然のごとく日本の対独感情を悪化させた。
さらにフランスがドイツの軍門に下った1940年12月、フランスの植民地である仏印にタイが侵攻した。タイ王国はフランスの強引なやり方で領土の一部を失ったことを忘れておらず、本国が負けたこの時、それを取り返すべく動いたのだ。
しかしながら、戦争は翌月になって意外な展開を見せた。フランスは本国から派遣した巡洋艦「コルベール」、「ラモット・ピケ」を活用してタイ海軍を翻弄した。さらになんと、秘密裏にヨーロッパより回航されていたドイツ仮装巡洋艦「コメット」や複数のUボートが仏印軍に加勢していた。
この独仏連合艦隊とタイ艦隊との間で、戦闘が発生。折りしもタイ政府から調停役として頼まれていた日本海軍艦隊はその海戦に偶発的に遭遇することとなった。
この時海戦場近海にいたのは、臨時で戦隊を組んでいた連合艦隊所属の巡洋艦「木曾」と近海防衛艦隊高雄基地所属の海防艦2隻であった。
この内海防艦1隻がフランス艦隊の砲撃で大破した。原因はフランス側が海防艦をタイ海軍のスループと見間違えた結果だったが、やられたらやり返すの鉄則の下、日本艦隊は伝家の宝刀である酸素魚雷も使って独仏連合艦隊に反撃し、その結果ドイツ仮装巡洋艦「コメット」が轟沈、その他にフランス海軍艦艇2隻が撃沈されるというマジな戦いとなってしまった。
この結果今度はドイツ国民(ついでにフランス国民)の日本に対する感情が悪化してしまった。特にフランスは日本をタイに味方したとして批判し、ドイツもそれに同調した。
さらにこの直後、在リトアニア領事の杉原千畝領事が6000人のユダヤ人をヨーロッパより脱出させるという事態が起きた。また満州では特務機関の樋口少将がドイツのユダヤ政策を批判する講演を行ったため、両国の関係は最悪にまで落ち行った。
こうして一時は近付きかけた両国の関係はほぼ破綻した。ただし、戦争にまではいたらなかったが。
まもなく昭和16年4月にヒトラーはそれまで温めていた対ソ開戦を棚上げして、突如としてその軍を中東へと向けた。さらにソ連もそれに同調して、中央アジアから中東方面へと進撃した。
この少し前バトル・オブ・ブリテンで敗北こそしたが、最終的に英国の工業に大打撃を与えたヒトラーは、ソ連に代わって同様に大量の資源を持つ北アフリカと中東、さらにアジア方面へと触手を伸ばすことに決定したのであった。
そしてこの余波は日本にまで及ぶこととなる。
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