ノモンハンの裏 1
昭和14年に発生したノモンハン事件は、事実上の戦争だった。モンゴルと満州国の国境線において繰り広げられたこの事件で、日ソ両軍は持ちえる限りの戦力を展開して戦った。
日本陸軍としては、第一次大戦以後進めてきた近代化を,中国戦線に続いて試す良い機会と言えた。特に中国戦線ではその運用を限定された戦車部隊や機械化部隊が、平原と言う戦場ゆえに最大限の力を発揮できると期待された。
一方ソ連からしてみれば、ヨーロッパでの戦争を前にしてアジアの大国である大日本帝国を牽制するとともに、革命以来多くの犠牲の上に建設してきた軍隊の力を試す機会といえた。
そしてこの戦闘には海軍も参加した。本来陸上であり、しかも関東軍の総本山である満州国に海軍が出張る必要等ないとも思えるが、この時期本格的な産出が始まった大慶油田の戦略的意味と、今後ソ連の満州侵攻の意図を挫く上で出兵計画が持ち上がり、実行へと移された。
この戦いは日中戦争以上に新兵器が多用された。陸軍は中国戦線での教訓から配備を急いだ97式戦闘機を全戦闘飛行隊に配置し、さらにはやり採用されたばかりの97式重爆や97式軽爆と言った新鋭機を惜しみなく投入した。また航空兵器のみならず、戦車も88式中戦車や94式軽戦車、96式軽戦車と言った陸軍の保有する全ての形式の戦車が投入された。
この内96式軽戦車については、中国戦線で起きた独ソ米戦車との戦闘の戦訓を得て47mm長砲身砲を装備した2型が数両投入されている。
海軍も96式艦戦や96式陸攻、97式艦攻と言った既存機のみならず、新鋭の99式艦爆やようやく先行量産が開始された11試艦上戦闘機を投入した。
戦闘が始まると、日本陸海軍はソ連軍に対して少しばかりではあったが優位に立った。敵側から見下ろされる位置に布陣せざるを得ず、さらに満を持して投入した戦車や大砲がソ連軍に性能的に拮抗、または劣っており、数については大きく引き離されてはいた。しかしながら、航空兵力について大きく優位に立っており、何よりパイロットの多くが休養を終えた中国戦線帰りというのもプラスに働いた。
ソ連軍も数の上で日本軍に対抗できる数の機体を揃えはしたが、性能的に劣っている機体が多く、さらには自信を持って投入した高速爆撃機SB3までもが相次いで撃墜される自体となった。
こうして航空優勢を確保した日本陸海軍航空隊は、地上で日本軍を圧倒するソ連軍陸上部隊に襲い掛かった。97式重爆や96式陸攻は戦線後方の飛行場へと爆撃を行い、また単発攻撃機群は前線への支援爆撃を継続した。中でも99式艦爆による急降下爆撃は、その精密さと深い降下角度からソ連兵の度肝を抜いた。
本来なら日本軍を圧倒できるはずの戦車や大砲が、こうした爆撃で相次いで失われソ連軍は陸上戦でも苦戦を強いられた。
しかしながら、日本側はこの優位を有効に活用できなかった。中国での戦争の後遺症から、充分な予備兵力がないために進撃をためらわなければならなかったからだ。
最終的にこのノモンハン事件は、実に1年近い長期戦となったが、日本側が陸攻によってシベリア鉄道を爆撃し、ソ連に対して本気で戦争を仕掛けるつもりのようにアピールしたことと、翌年3月にドイツがポーランドへと攻め込んだことで、日本側の優位な条件で停戦条約が結ばれることとなった。
そしてこのノモンハン事件の影に隠れる形で、日ソ両軍は軍事衝突を北の海で繰り広げた。思わぬノモンハンでの苦戦を知らされたソ連のスターリンは、日本を牽制するためにウラジオストクに本拠地を置くソ連太平洋艦隊に出撃を命じた。
スターリンとしてはもちろん日本と本格的な戦争を構えるつもりなどなかったが、いずれ衝突する可能性が高いだけに、ここでガツンと一撃を加えておきたかった。それに加えて、千島や樺太方面で軍を動かすことによって日本から何らかの譲歩を引きだせられるのなら、それこそ願ったり適ったりであった。
ドイツのヒトラーもそうだが、スターリンも軍事力を背景にした恫喝、すなわち砲艦外交が好きかはともかくとして。よくした。バルト3国やフィンランドがその良い例である。
もっともフィンランドについては、ノモンハン戦で大きく戦力を削がれていた時に同時進行したため、勝ちこそしたが戦死者実に20万人という大火傷を負ってしまった。このあたり、ほぼ無傷で進めたヒトラーとは対照的と言えよう。
そんな感じで独裁者の指示の元進められた日本海とオホーツク海、さらに北太平洋でのソ連艦隊の行動は当然日本海軍を刺激せずには置かなかった。この時期ソ連太平洋艦隊の水上戦力は戦艦、空母もない旧式巡洋艦1隻、巡洋艦3隻、大型駆逐艦5隻を保有しているに過ぎず、その主力は中小型駆逐艦と海防艦、掃海艇、機雷敷設艇、魚雷艇であり日本海軍の脅威とはなり得なかった。そのためこれら艦艇は単独もしくは2〜3隻で国境線付近に現れるに過ぎなかった。
またそれらを支援する空海軍航空隊の機体も、ノモンハンに主力が派遣されている関係上、やはり不活発な活動に終始した。
こうした水上・航空戦力の少なさについてはスターリンもよくわかっていた。しかしながら、彼が期待したのはそれらではなく、長年ドイツとの協力関係で作り上げた潜水艦隊であった。
この時点ウラジオストクやナホトカと言ったソ連の太平洋方面にある港へ配置されていた潜水艦は、全てのタイプ合わせて凡そ80隻に上っていた。
スターリンは日中戦争で中国海軍潜水艦に苦戦した日本海軍を見て、潜水艦隊を大きく増強していたのである。また少人数で扱えることや隠密性、さらにウラジオストクのような港でも小型なら建造可能という点も、ソ連にとっては魅力だった。
そう言う訳で、ソ連太平洋艦隊は保有する潜水艦の内稼動する艦艇のほとんどを千島・オホーツク・日本海へと出撃させ日本海軍艦艇を狙った。
この報告を受けた日本海軍上層部は大きなショックを受けると共に、日中戦争の悪夢を絶対に繰り返させないという強い意志を持って各部隊へソ連潜水艦狩りを命令した。
ちなみに、この半年ほど続くこととなる日ソ両海軍の死闘は両国国民のほとんど預かり知らぬ物となった。原因は双方ともに不正規な戦争状態であることをよく理解しており、下手な情報公開が即正規戦争に繋がる可能性を懸念したからである。だから例え知ったとしても、口に出さないことをよく心得ていた。
また日中戦争と違ってソ連潜水艦が日本の商船を狙わなかったことも、それにプラスした。流石にこれをしてしまうと全面戦争ばかりか、国際的非難を浴びかねなかった。現にこの期間中、日満航路の貨客船がソ連潜水艦の誤認によって魚雷を喰らい、大破する事件が発生するが、ソ連はすぐに関係者の処罰と謝罪、さらには慰謝料の支払いを発表している。
こうして行われた日ソ海戦の矢面に立ったのは、日本海を長年防衛してきた近海防衛艦隊であった。創設されて5年目、実戦も経験し海防艦をはじめとする新鋭艦艇も続々と竣工していた近海防衛艦隊は高い士気の元でこの戦いへと望んだ。
対馬・門司・舞鶴・新潟・大湊・清津・大湊・函館・大泊・択捉等の港に駐屯する近海防衛艦隊所属の巡視隊(海防艦や駆逐艦を最小単位1〜2隻で運用する部隊)はソ連潜水艦出撃の報を受けると、錨を揚げて出撃していった。
海戦初期、近海防衛艦隊司令部は名古屋(海軍の有力な水上部隊がいないことを危惧した地元の有力者たちの強力なプッシュがあった)に設置されていたが、この時は新潟に臨時司令部を置き、司令官の山口中将もそっちに移動して陣頭指揮を執った。
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