日中戦争 5
日中戦争は泥沼へと陥りつつあった。陸軍は近海防衛艦隊の護衛を受けて揚陸に成功した物資を背景に、南京の直ぐ側まで侵攻した。しかしそこまでだった。蒋介石軍もよく反撃し、特に米独ソから迎え入れた軍事顧問らの指導を受けた部隊は高い戦闘力を誇った。
日本側の進撃は思うように行かず、一行に終わる気配さえ見えず犠牲だけがダラダラと増えていくことに国民の不満は募り、さらに「君臨すれども統治せず」の原則に従って政治には基本的に干渉しない昭和天皇までもが、軍に対する苦言を漏らす始末であった。
この世界でも満州事変や2,26事件は発生してはいた。しかし第一次大戦時に陸海軍とも打撃を負ったせいでその膨張の勢いは鈍い。さらに第一次大戦の戦訓から国際世論からの目を気にする傾向にあった。
そのような理由もあって中国戦線においても無茶は出来ず、八方塞の状況に陥りつつあった。
海軍にしても、中国潜水艦や中国空軍の予想外の奮戦によって空母や戦艦、陸攻と言った主力兵器に被害が出ている。本来海軍の仮想敵はアメリカであり、中国での戦力損耗は望むものではない。むしろ嫌である。
さらに両軍ともに、そんな状況であるから議会や予算審議でも苦しい立場に追い込まれることとなった。正式な戦争でないこともあり、被害と併せて議員や国民からの突き上げも厳しくなる。
一方対峙する中国側も日本軍に対して善戦しているものの、蒋介石としては毛沢東率いる共産党と決着を付けるほうに専念したいと言うのが本音だった。確かに海軍を整備する等日本海軍に対抗する動きは見せていたが、それにしたって彼からしてみれば牽制程度の役割を期待していたに過ぎない。日本海軍に予想外の一泡を吹かせたのだから充分すぎる成果を挙げていると言えた。だから、これ以上被害が広がるのは本意ではなかった。
それに加えて、この時期中国軍に軍事顧問を送り込んでいた国の内ドイツとソ連は引き上げる以降を伝えていた。これは、ドイツはナチス党率いる政府がいよいよ本格的なヨーロッパ侵攻を想定していたから。ソ連はそれに対抗することと、日本軍に対抗する必要が生じていたからだ。
残るアメリカだけが便りとなるが、基本的に他国の戦争には首を突っ込まないモンロー主義を貫いている同国にあっては、大統領の考えはともかくとして世論を気にしている限りは援助が増える可能性は低かった。
そう言う訳で、戦争が始まって1年半が経った昭和14年初頭には両軍とも戦争を止めたかった。これ以上続けても何の実入りもないからだ。
そして最終的に日本側に講和を決定させる主要因となったのが、モンゴルと満州国国境における日ソの武力衝突であった。この前年には朝鮮との国境地帯の張鼓峰で小競り合いが起きていたが、この時起きたノモンハン事件はそれ以上の規模の紛争となり、陸軍としては中国戦線に送った部隊を引き上げる必要に迫られた。
そう言う訳で、昭和14年6月に日本と中華民国の講和会議が開かれた。今回の戦争では、日本側が中国大陸へと侵攻したという形になっていたが、その発端である盧溝橋事件の発砲については未だ不明であった。案の定日中とも相手国のせいにしたため、講和会議は初っ端から縺れてしまった。
そこで諸外国が仲介役と講和会議妨害役として暗躍した。この内仲介役は中国における共産党の躍進や、中国の安定化を願う独英仏の3国であった。
ドイツにしてみれば中国は食料供給国(ただし、翌年3月にはその態勢が崩れる)であり、日中戦争の長期化で共産党が漁夫の利をとる事態を懸念した。また、英仏は海外の租界排除を訴える蒋介石が、戦争に乗じて一気にそれを行わないか心配した。故に両国は日本側に有利な条件で講和が成立するよう工作した。
一方会議妨害派に立ったのは米ソで、米国はここで日本の国力を衰えさせ、さらに蒋介石への援助を通じて中国の自国市場化を行う上で戦争の継続を望んでいた。ソ連の場合は、日中戦争が続くことで、日本の満州や北方守備戦力が減ることを望んでいた。
後に暗黒戦争言われる各国の裏工作が始まった。日中双方の外交官や政府関係者に接触し、講和と戦争の継続を訴えた。しかしながら、心情的に日中とも講和に傾いているのであるから、有利になったのは講和斡旋国であった。
講和妨害派の中国への援助を増やすことで、中国側からの講和会議破綻を画策したが、独英仏はそれを上回る援助を提示して講和へと傾かせた。このせいでドイツはポーランドへの侵略を半年間延期したほどだ。もっともそのお陰で低性能な兵器を大分入れ替えられ、さらにはユダヤ人が国外脱出する時間が稼げたのだから皮肉といえる。
日本に対しても、自分たちの租界や植民地を守る意味から、中国に対して北京や上海への兵力駐在を継続出来るよう斡旋すると提示して、日本側からの講和推進を促した。
最終的に開戦からちょうど2年経った7月7日、南京において講和条約が調印された。この条約で中国側は盧溝橋事件発砲の真相解明と、日本側の進撃(侵略をこう言い換えた)行為による被害賠償を日本側に問わず、さらに北京や上海租界のために兵力を戦前と同じく駐屯して良いことを認めた。
一方日本側は盧溝橋事件後に独断専行した部隊の責任者の責任を追及し、中国国民に対して謝罪を表明。さらに以後国民党の共産党との内戦に対して支援を表明した。つまりは兵器の提供や軍事顧問の派遣であった。
昨日までの敵と戦えるのかと思えなくもないが、厳しい戦場においてはそんなこと言っていられない。現にこの年後半から日本軍より派遣された軍事顧問団は、中国軍と肩を並べて戦っている。人間利害が一致すれば、昨日の敵も今日の友であった。
ちなみに日本側では開戦時に中国派遣軍司令官や陸軍大臣、参謀総長であった人間の首が軒並み飛ぶこととなった。自軍が他国の領土を侵したと認定した以上、生贄が必要だったのだ。もっとも、これは対中強硬派や前線部隊にずるずる引きずられる中央の将官達を排除する意味では好都合だった。また当然だが国際法違反や陸軍刑法違反者も厳しく断罪された。
海軍でもそうした犯罪者や、中国軍の戦力を甘く見たゆえに被害を拡大させた人間の首が飛んだ。
一方近海防衛艦隊は辛い通商路保護任務から解放されると共に、今回の戦訓を生かしての新しい軍備計画を促進した。(前話参照)
この内航空部隊の拡充については、今戦争における航空戦力の大活躍から他部隊とともに拡張され、新たに基地航空隊には新鋭の97式2号艦攻や96式艦戦、水上機部隊や飛行艇部隊には95式水偵や99式飛行艇も配備され、戦力・士気ともに大いに高まった。
また艦艇についても、二等駆逐艦改造艦を中心として旧式艦や小型艦の能力不足が顕著となったこともあり、新鋭海防艦の建造がなお一層促進されることとなった。
航空機と艦艇のみならず、水中聴音器の改良も促進され、後に1式聴音器と探信儀が開発されることとなる。
しかしながら、問題も発生した。特に新たに近海防衛艦隊司令長官に就いた山口少将が望んだ電波兵器については、未だ無理解な人間が多い故に開発が出遅れた。所謂「闇夜の提灯論」が彼らの前に立ちはだかったのだ。この問題はヨーロッパでの戦争が始まり、バトル・オブ・ブリテンが起きるまで待たなければならなかった。
また対潜兵器の開発も、爆雷の改良は進んだが敵潜水艦を効率的に攻撃する兵器の開発は中々進まなかった。これについても1年後に英国より日本の対潜戦術と日中戦争の教訓を学ぶために派遣されたアイカシア海軍少佐が、前投兵器のアイディアを言うまで待たなければならなかった。
御意見・御感想お待ちしています。