日中戦争 4
山口登少将率いる護衛艦隊に守られた輸送船4隻は、門司を出港すると玄界灘を抜けて東シナ海を一路西進した。そしてそこからが一番厄介な所であった。
中国潜水艦の本拠地である青島は、戦争の早い段階で日本海軍航空隊が爆撃を行って潜水艦基地を壊滅させたかに見えた。ところが、中国軍はそこにドイツが後に造るようなブンカーとまでは行かないまでも、爆撃に対して堅牢な基地を築き上げていた。
また日本側の陸路からの進撃に対しても中国軍守備隊は果敢に反撃を行い、日本側戦力が不十分だったこともあり、青島は未だ中国軍の管理する所で、潜水艦基地も基地機能を保っていた。
このため中国海軍潜水艦は比較的容易に日本の中国に対する輸送路を攻撃することが出来た。ただし、中国側も日本海軍が上海付近で行っている海上封鎖には参っているらしく、稼動潜水艦の数は落ち込んでいた。それでも、「さんとす丸」以降も複数の艦船が攻撃を受け、その内の何隻かは沈没へと追い込まれていた。
玄界灘から東シナ海を西へ突っ切り上海等へ至る航路こそ、日本側にとっての鬼門であった。
そこで山口少将は、軽巡と駆逐艦に積み込んだ小型水偵を積極的に活用した。それらの機体は手間が掛かることに、カタパルトではなくクレーンやデリックで海面に降ろされ、発進する方式だった。だから乗員にとっては面倒くさいことこの上ない機体だった。
それでも、水上機に小型爆弾1発を抱かせて上空に張り付かせれば、少なくとも昼中国海軍潜水艦が襲撃してくることはなかった。これは潜望鏡深度まで浮上することで艦影や潜望鏡を捉えられることを、潜水艦が怖れたからであった。水上からは見えなくても、空中からなら発見率は飛躍的に上がるからだ。
これによって山口部隊は昼間の敵からの襲撃からは逃れえた。しかしその代わり代償も払わされた。うねりの高い洋上での水上機運用であったために、収容困難のため破棄された水上機が2機も出た。
このことから、近海防衛艦隊司令部はより積極的に空母保有へと動き出すこととなる。
また昼間の潜水艦攻撃を封じた航空機も、この時代は夜に飛ぶのは困難だった。飛行艇程度の多座機だったらなんとかなったかもしれないが、小型水上機ではお手上げであった。
そのため山口は、夜間の見張りを多くするとともに低速での航行を生かして水中聴音器と探信儀を積極的に活用した。聴音器はともかく、探信儀を使うのは敵に位置を報せる可能性があった。それでも、山口は先に敵潜水艦を見つける可能性を大きくしようとしたのである。
この行動は後に賛否両論の意見を醸し出すこととなるが、この時の場合は吉とでた。出港2日目の夜半、護衛駆逐艦の1隻が敵潜水艦らしく推進器音を探知したのである。
さっそく山口は全艦船に警戒を促すとともに、敵がこれまで採ってきた群狼戦術を考慮して他の護衛艦にも潜水艦を探知した艦がいないかを問い合わせた。
すると別の護衛駆逐艦からも、潜水艦らしき物を探知したという報告が帰ってきた。
山口はそれに対して、まず座乗の護衛巡洋艦「天龍」と2隻の「神風」級護衛駆逐艦を艦隊から分離した。そして残る船団と駆逐艦には、速力の出来る限りの増速による現海域からの離脱と対潜航行を行うよう命令した。
一方中国潜水艦たちからしてみれば、比較的早い段階で発見され、目標の輸送船団が大きく針路を変更したために、攻撃のやり直しを求められる事態となっていた。山口の策の第一段階は成功を収めたのである。ただし、未だ攻撃を諦めたわけではなく、一部の艦は新たな射点につこうと動いた。
しかし山口は、さらに探信音を打ち鳴らして中国潜水艦を威嚇した。自分の攻撃される可能性を高める行為ではあるが、その一方で中国潜水艦の戦意を砕こうと試みていた。この考えは図にあたり、未熟な中国人艦長に率いられた2隻は戦線を離脱してしまった。ちなみにこの時群狼戦術を仕掛けようとしたのは計3隻である。
残る1隻はドイツ人顧問が艦長を務めていた。このドイツ人オットー中佐は第一次大戦末期にUボートに乗り込んだ経験があるベテランであった。
彼は他の2隻が離脱するのを尻目に、なんとか輸送船団への再攻撃を試みようとした。敵駆逐艦が増速してこちらに向かってくる間は聴音器も探信儀も捕まえにくくなることを承知した上での策であった。
一方の山口も、機関兵にとってかなり迷惑なことであったが、増速と減速を繰り返して敵潜水艦を捉えようとした。夜間では敵が水上に突き出す潜望鏡を発見するのは至難の業である。聴音器と探信儀を上手く使いこなす以外にないと彼は考えたのだ。
こうなると、潜水艦が輸送船団への射点へとつくか、駆逐艦の探知が早いかのレースとなった。どちら共に息の詰まる対決である。
そして最終的にそのレースを制したのは、日本の護衛駆逐艦「春風」であった。同艦のソナー兵が前方に微かではあるが、潜水艦の推進器音を探知したのである。
「春風」艦長の大河内少佐は直ちに爆雷による攻撃開始を命令した。同艦に搭載されている爆雷は定数では60個であったが、実際は艦長側が念を入れて68個積ませていた。そして1回の攻撃で投射機から2個、投下軌条から6個近い爆雷を投下出来た。
「攻撃始め!!」
命令が発令されるともに、爆雷班の将兵たちが一斉に爆雷を真っ暗な海中へと叩き込んだ。投下されたそれらは、調停されていた30〜50mの深度まで潜ると、水圧によって一斉に起爆した。
深夜の東シナ海に何本もの水柱が立ち上った。その光景をみた乗員たちは、敵潜水艦の撃沈を期待するが、下手な鉄砲数撃ちゃ当たる式の兵器である爆雷は爆発の見かけこそ派手だが、命中率は極めて低い。場合によっては敵のいない水中に叩き込んでいる時のほうがむしろ多いくらいだ。
「戦果確認!!」
見張りの兵士たちは、敵潜水艦を撃沈した痕跡がないか目を皿にして海上を見た。潜水艦が撃沈されれば、艦の破片や燃料の重油、乗員の死体などが浮かび上がってくる。
だが結局それらしい痕跡は、周りが闇ということもあり発見できなかった。
その後「春風」はさらに数個の爆雷を付近水中に投下し、さらに「天龍」ともう1隻の駆逐艦も威嚇目的で爆雷を投下した。だが結局、確実の戦果と呼べるものを挙げることは出来なかった。ただし敵潜水艦の推進器音が消失したため、山口は深追いは禁物として輸送船団への合流を命じた。
その後輸送船団は、敵潜水艦の襲撃を受けることなく、無事上海の港に到着し、陸軍部隊への補給物資を陸揚げすることに成功した。
ちなみに、実際の所の戦果はオットー乗り組みの潜水艦「鯱7号」に若干の損害を与えたのみだった。しかしながら同艦はその後駆逐艦の行動により攻撃を中止せざるを得ず、ひとまず「春風」らの行動は無駄とならなかった。
そして復路も山口の艦隊は輸送船7隻を護衛したが、この時は中国潜水艦と遭遇することなく、目的地の佐世保へと寄港している。
この作戦によって敵潜水艦制圧の難しさを改めて悟った山口は、早速報告書と共に意見具申書を書き上げて近海防衛艦隊司令部に提出している。
この意見書を元に、近海防衛艦隊は以下の指針をまとめた。
1より一層の対潜用航空部隊の忠実。2敵潜水艦への効果的な新兵器の開発。(前投式兵器の開発。) 3水中聴音器の改良。4夜間見張り能力の強化。(電探の整備) 5新型対潜艦艇の早期配備。
これらの方針はさらに杉下中将の手から上申され、幾つかは早速実行に移されることとなる。しかしながら、一方でまたも問題が発生することとなる。
御意見・御感想お待ちしています。