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真の海防  作者: 山口多聞
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日中戦争 3

 昭和13年初頭において、近海防衛艦隊は日中戦争勃発により艦艇が幾らか補充されていた。しかしその多くは旧式「神風」型駆逐艦や沿岸警備程度にしか役立たない駆潜艇等であった。もちろん、全く役立たないわけではないし、一応対潜用装備を備えていた。


 しかし防衛艦隊司令官である杉下中将(前年11月進級)にしてみれば、そうした能力的に制限される艦艇よりも嬉しかったのが、航空隊の増強であった。


 近海防衛艦隊指揮下の航空隊は、当初飛行艇と水上機がそれぞれ20機ずつにも満たない貧弱なものであった。もちろん防衛艦隊側では再三にわたって航空隊増強を訴えたが、それがようやくにして実現した。


 新たに配下に加えられたのは念願の陸上機であった。もちろん最新鋭機ではなく、既に型落ちとなった96式艦攻と95式艦戦であった。いずれも複葉機としてはそれなりの性能であったが、後継の97式艦攻と96式艦戦の登場により短期間でお役御免となった機体だ。その数合計40機。


 これらの航空隊は済州島や対馬等日本に比較的近い離島や日本海側の基地に分散配備された。中国潜水艦への脅威に対処するには不適切な配置と言えなくはないが、他に適当な基地もないためにやむをえなかった。ただそれでも、6月には玄界灘へ進入を試みた中国潜水艦を1隻撃破し、日本の内海への敵侵入を阻止している。


 この時近海防衛艦隊司令部では芽生え始めていた空母もしくは水上機母艦保有論がより強くなることとなる。


 ただしこれについて実現するのは、結局日中戦争も終わりに近付いた昭和15年になるまで待たなければならなかった。


 航空隊の配備と共に大きな動きとして注目されていたのが、新型海防艦である「択捉」型の建造であった。この時期ようやく「占守」型が竣工し始めていたが、これに続いて旧式駆逐艦の代替目的に建造が決まったのであった。


「択捉」型の基本性能は排水量950t、速力24ノット、12,7cm両用砲3門、25mm連装機銃4基、爆雷80個であった。


「占守」型に比べて大きさはほぼ同等であるが、日中戦争での航空機の活躍を受けて主砲は平射砲から高角砲を改造した両用砲へと変わっている。また爆雷の搭載数が20個アップされている。


 そして何より特筆すべきことは「択捉」型から新たに大量生産と低価格の視野を入れた設計が始まったことである。これは旧型の二等駆逐艦の退役年月が集中することと、その数が多数に上るからだ。そのため短期間で数が揃えられ、なおかつ厳しい予算の中で揃えられる艦が求められた。


「択捉」型では直線的なデザインを多用し、装飾等は最低限に控えられている。ただし戦時急造艦とは違い、15〜20年程度の就役を見込んだため、3ヶ月で竣工という訳には行かず、そういう面では徹底していなかった。


 それでも、大量建造を意識した建造であることは、個艦優秀性を追及する日本海軍においては画期的なことであった。もっとも、連合艦隊からはそのせいでバカにされることとなるのだが。


 また海防艦より一回り大きい新鋭護衛駆逐艦も建造が決まった。これが「松」型で、主砲は「択捉」型と同じ12,7cm高角砲3門であったが、排水量は1200t、敵水上艦との戦闘に備えて速力は30ノットが確保され、61cm4連装魚雷発射管1基を備えた。その他に40mm連装機銃2基、25mm3連装機銃2基、単装機銃6基を備える等対空戦闘も考慮され、爆雷も80個搭載が計画された。


「松」型は「峯風」型の代替とされ、主に海防艦の響導役や遠距離海域における作戦を行うことが考慮された。こちらも「択捉」と同じく直線を多用し、大量生産と低コストが目指され、また日本の駆逐艦としては始めて生存性の高い機関のシフト配置がなされた。


「択捉」型は10隻、「松」型は4隻の建造が計画された。


 そうした新戦力の配備や新造艦艇の建造は近海防衛艦隊上層部を喜ばせはしたが、目の前の任務に当たることが彼らにとっては正念場であった。


 昭和13年3月3日、門司より出撃した4隻の陸軍輸送船の護衛が近海防衛艦隊の中国への初派遣任務となった。同船団には護衛軽巡「天龍」、護衛駆逐艦「神風」級4隻、護衛駆逐艦「若竹」級2隻の計7隻が護衛として付いた。


 輸送船の数の割りに護衛艦が多いのは、復路で中国大陸からの輸送船と合流する予定であったからだ。


 この時期中国大陸における戦況は微妙であった。開戦時の盧溝橋事件等の戦闘こそ勝利を得られた日本軍であったが、その後は一方的な敗走こそしないものの、苦戦を強いられた。


 中国軍は米独ソ等から受け入れた軍事顧問団の指導の下良く訓練されており、兵器の質も決して悪くはなかった。また地の利を生かして戦えることも大きく彼らに味方した。


 そのため当初は首都である南京さえ落せば勝てると見ていた日本側の楽観論は大きく覆され、南京へ進撃するのさえ危うかった。


 海軍も中国空軍の予想外の奮戦により、巡洋艦「足柄」、空母「赤城」が損傷して戦線離脱するという被害を被っていた。


陸軍部隊の進撃停滞とともに、こうした暗い戦況は国民や兵士の士気を落した。また陸軍の進撃停滞には国際的な世間体を気にしているのも原因となっていた。


 日本軍は第一次大戦の折りヨーロッパへと出兵したが、そこで待っていたのは欧州で定められたルールによる戦争だった。そのため日清・日露で行ってきたような現地調達という名の食料補給が出来ず、やろうとした部隊は国際社会から激しく非難を浴びた。また、例えやったとしても、米等があるはずもなく、その時になってようやく日本側は武器の欠乏と共に補給の重要性に気づかされた。


 そのため、日本陸軍は大陸と日本の間に何度も人員・燃料・食糧・弾薬を満載させた輸送船を往復させなければならなかった。これにより出費が増えたのは自明の理であり、その輸送船も「さんとす丸」をはじめとして既に3隻が沈められ、2隻が全損、3隻が撃破という決して無視できない被害を被っていた。もちろん補給物資の到着が遅れたため進撃も鈍った。


 近海防衛艦隊に与えられた役目は大きかった。護衛艦隊司令官に就任した山口登少将は杉下中将から作戦の成功を厳命されていた。


 山口は地中海へ派遣された第一特務艦隊の駆逐艦艦長を経験した人物で、イギリスへの留学経験もあった。そのため、船団護衛に関しては日本でも数少ない理解者であった。


 彼は今回の作戦のために、英国から資料を取り寄せ、さらに過去に連合艦隊が接触した中国潜水艦の行動パターンを参謀や艦長たちと共に研究していた。


 彼がもっとも頭を悩ませたのが、敵潜水艦による群狼戦術であった。もし敵が4隻程度で襲撃する場合でも、現状の護衛艦数では足りない可能性があった。とにかくどこか一方でも穴が開くと、敵に攻撃のチャンスを与えてしまう。


 そこでまず山口が考えたのが、輸送船を並列に並べることだった。それまでは航行の容易さから単縦陣を採っていたが、並行に走らせるならば、万が一敵の魚雷攻撃を受けても、被害を減らせる。


 また航空機が飛んでいる時は敵の襲撃が少ないことに注目し、「天龍」と「峯風」級駆逐艦に水上機を搭載している。いずれも潜水艦搭載用の96式小型水上偵察機であったが、とにかく飛行機さえ飛ばせば敵を威圧できるし、何より急ごしらえであったから航空燃料や弾薬の搭載量が少ないので、小型機の方が便利であった。


 水上機はいずれも撤去された魚雷発射管の位置に搭載された。ちなみにいずれも潜水艦搭載機を潜水艦隊から間借りする形を採った。


 さらに護衛艦艇の動きにも工夫をこらした。それまでは輸送船の速度に合わせて直進させていたのを、それよりも高速で蛇行と円運動させることにした。これは燃料の消費量こそ増えるが、敵潜水艦を発見した場合逸早く現場へ向かえるようにとの処置であった。



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