日中戦争 2
「さんとす丸」が中国海軍の潜水艦に撃沈され、精鋭である第7師団の将兵3000名が戦死したことは、陸海軍に大きな衝撃を与えた。
陸軍としては虎の子の近代化・機械化部隊の将兵が戦わずして海に沈んでしまったことに、海軍としては敵潜水艦の襲撃を許して、あまつさえ敵潜水艦を撃沈できなかったことに。
しかも、悪いことに撃沈地点が日本本土からそう離れていなかったことや、中国側が大々的に戦果を報じたがために、この事件は日本国民の知るところとなった。
日露戦争の「常陸丸」に続いて再び日本の軒先で、兵たちが戦わずして海に飲み込まれたことに国民が激昂したのは言うまでもない。しかも、海軍にライバル意識を持つ陸軍の一部がこれを煽った。
さらに「さんとす丸」を保有していた商船会社もめずらしく海軍に対して遺憾の意を示す文書を送りつけた。(これは陸軍や市民の抗議に便乗した説も根強い。) 「さんとす」丸はこの3年前船舶助成施設で出来上がったばかりの新鋭船であったからだ。
船舶助成施設とは昭和7年に始まった政府や軍の資金援助の下で、当時大量に残っていた明治・大正期の貨物船を新鋭船に取り替える制度だ。欧米列強の商船会社が続々と新鋭高速船を竣工させたため、日本の海運業界は速度やサービス面で大きな苦境に立たされた。
そこで、そうした問題を解決しつつ戦時には特設艦船として優先的に徴用できる制度が船舶助成施設であった。これによって造られた「さんとす」丸は真っ先に徴用され、そして真っ先に沈められてしまった。商船会社にとっては新鋭の船と優秀な船員を失ったのだから、抗議して当然と言えた。
結局のところ、これを受けて護衛艦隊司令官を始めとして複数の軍人が予備役編入や降格という処分を受けたが、もちろんそれは問題を根本から解決することにはならない。
さっそく海軍内で研究会が開かれ、原因の究明が行われた。
第一要因に挙がったのが、敵潜水艦が複数にて襲撃してきたことであった。後の言葉で言うところの群狼戦術である。これにより駆逐艦が1隻を追っている内に防備に穴が開き、別の潜水艦が襲撃を行いえた。
当初中国海軍潜水艦の練度は劣悪であり、そんなことは起こりえるはずがないという意見が出たが、現実に駆逐艦や巡洋艦が複数の潜水艦を捉えたのは事実であった。
現実に中国海軍は群狼戦術を実行に移していた。これは潜水艦の建造技術を提供したドイツが、ついでに軍事顧問として派遣した元Uボート乗りや、若手のUボート士官によるものであった。
ドイツ軍が兵器の輸出先のお得意様として中国を見ていたのは以前にも書いたが、日中戦争が本格化するとその意味合いは大きくなった。ヴェルサイユ条約を破棄し、新兵器を続々と開発したドイツはその実験場を求めていたからだ。
その1つがヨーロッパのスペイン内戦であり、そこではイタリア製兵器と共にソ連製兵器との戦闘を行った。ただし海軍の出る幕はあまりなかった。
一方アジアでその実験場となったのが中国で、ドイツは1・2号戦車やHe51・Me109戦闘機、He111爆撃機やJu86爆撃機等をスペイン内戦ほどではないが輸出し、それを扱える軍事顧問も派遣していた。
そして何より重視したのが上記したUボートの乗組員であった。日中戦争では不甲斐ない面も目立った中国軍であったが、一部の精鋭は高い愛国心を持ち、優れた教育を受けていた。こうした兵士たちがいたからこそ、中国軍も光り輝く部分を持てたと言えよう。
中国版Uボートの場合もそうで、水上艦隊が日本の連合艦隊を警戒して内海や華南方面への非難を余儀なくされたのに対し、彼らは反撃の準備が整うと積極的に反撃を始めた。
潜水艦は単価が高く、水に沈む分保守が面倒という欠点があるが、乗員自体は40名ほどで済み水上艦より遥かに少ない。おまけに乗員が少ないので家族的雰囲気の元一致団結が容易という利点があり、この事が比較的高い練度を維持することに役立った。
こうした背景があって、中国海軍潜水艦は群狼戦術を採ることが出来たし、さらに水上艦よりも数を揃えることが出来た。日本海軍では稼動している潜水艦は20隻以内と見ていたが、実際に中国海軍がこの時期保有していた潜水艦は32隻で、内22隻を稼動させていた。さらに4隻ほどが竣工間近であった。
ちなみに、これだけの潜水艦を揃えられたのにはドイツ以外にアメリカやソ連が梃入れしていたからである。特にソ連からやってきた若い海軍将校たちは、ドイツやアメリカの軍事顧問が採る戦法や戦術を大いに学ぶという、どっちが教えるのか教わるのかわからない珍妙な現象まで起こしていた。
第二の要因として挙げられたのが、船団護衛のノウハウの不足だった。今回護衛していた艦艇については、数こそ多かったがその内3分の1が水上艦艇の襲撃に備えて対潜装備を持たない艦艇であり、残る駆逐艦6隻も艦隊における対潜戦闘は熟知していたが、スピードや動きが全く違う船団護衛では勝手が全く違い、隙を生んでしまった。
ただしこれに関しては海軍側だけではなく、守られる側の商船も船団形成には不慣れであった。船団は安全性こそ増すが、船足が遅くなる等非効率な面も多く平時だったらまず間違いなく行いはしない。
もっともこれに関しての責任を追及したら、それこそ戦争責任の追及にまで飛躍してしまうので、誰も口に出すこと等しなかった。
とにかく、この件に関しては連合艦隊駆逐艦に再度マニュアルや訓練の徹底をさせること以外対処する道はなかった。ちなみに近海防衛艦隊では、平時からそうしたマニュアルの改正や訓練をしっかり行っていた。何せ短い航路とはいえ彼らの主目的の1つは通商路保護であったからだ。
第三の要因として挙げられたのが駆逐艦に搭載されていた爆雷の数であった。実は日本の特型駆逐艦の場合爆雷は20個から30個程度しか搭載しなかった。これでは敵潜水艦に致命傷を与えるのには不十分である。
爆雷は海中で爆発し、水上に凄まじい水柱を生むが、その派手さとは裏腹に打撃を与えるには潜水艦の至近もしくは下方で爆発する必要がある。いきおい、かなり正確な位置に投下しないと撃沈には至らない。
実はこれに関しても、近海防衛艦隊では以前から指摘されていた問題であった。対潜訓練を行う中で、彼らは潜水艦が以外と小回りが利き、的として小さいことを熟知していたからだ。しかしながら、海軍内ではその戦訓は生かされず、クローズアップされるのは潜水艦に撃沈判定をされることばかりであった。
近海防衛艦隊の意を受けて建造された「占守」型では訓練結果を踏まえて爆雷定数を60個と特型駆逐艦の2〜3倍という数にしたが、これさえも当初は無駄遣いだの下手糞の泣き言などとバカにされた。
しかしながら、そんな感じで近海防衛艦隊をバカにして戦訓を無視した連合艦隊の将兵は、代償として一般国民からのバッシングの嵐に晒されることとなった。
近海防衛艦隊の兵士も同様にバッシングされることがなかったこともないが、彼らの場合は比較的地域密着で働いていた(特に救難。) ため、少なくとも母港周辺ではそのようなことはなかった。
連合艦隊はこの事件を契機に、ようやく船団護衛の難しさと重要性(ただし航路防衛とは違う観点で)悟り、駆逐艦の爆雷を増やしたり新たなマニュアルを配ったりした。
しかしながら付け刃的なそうした処置では効果が挙がったとは言いがたく、それどころか中国海軍のほうが調子にのって積極的な攻撃をしてくる始末だった。
結果連合艦隊は最強と自負していた特型駆逐艦3隻をUボートの雷撃で失い、軽空母「龍嬢」や戦艦「陸奥」大破と言った大火傷をする結果となった。
さらに海南島沖合いで空襲により空母「赤城」が大破したことから、連合艦隊は艦艇の投入に慎重になり、船団護衛に関してはすっかり意欲を失ってしまった。そこで昭和13年2月から近海防衛艦隊が船団護衛を受け持つこととなった。
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