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真の海防  作者: 山口多聞
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日中戦争 1

 昭和12年7月7日、中国北京(この時点では北平)郊外の盧溝橋で事件は発生した。条約に従い同地に駐屯、演習中だった日本軍部隊へ何者かが発砲したのだ。誰が撃ったかはわからない。中国共産党の陰謀か、それとも本当に国民党軍だったのか、そもそも発砲自体が悪意ある物だったかさえわからない。


 しかしながら、そのような事情は当の撃たれた側にしてみれば感知する所ではなかった。攻撃を受けたのであるから、軍隊として反撃を行うのは当然である。


 こうして日中両軍が衝突する所まで事態はエスカレートし、日本と中華民国は宣戦布告なき戦争に突入したのであった。


 ちなみに両国がともに宣戦布告もせずズルズルと泥沼の戦争に向かって行ったのは、正式な戦争にすると捕虜の扱いや物資の輸出入に支障を来たすからである。


 さて、この戦争は日本の陸海軍にとってはそれなりの好機と言えるものであった。陸軍からしてみれば、満州地域に次いで華北・華中地域をその勢力下における。こうすれば満州地域の安全をより強固な物に出来、さらに豊富な労働力や日本が欲する一部の資源を得ることも出来た。


 また海軍からしてみれば、第一次大戦後からこれまでに整備してきた軍備を試すチャンスであった。特に航空兵力は新型の96式陸攻と96式艦戦の配備が始まっていた。これらはいずれも世界水準を追い越した記念すべき機体であった。


 日本政府は当初、中国との全面戦争については不拡大の方針を採った。現に最前線では一旦日中両軍の停船条約が結ばれていた。


 しかしながら、満州事変以来続く前線部隊の独断専行がここでも行われてしまった。独断専行は時と場合によっては臨機応変という名で賞賛される時もある。現にドイツでは独断専行は奨励されていた。もちろん、それ相応の結果と責任が求められる物であったから、やる方も真剣であった。


 一方日本軍の独断専行と言うのはどうもドイツとは違い、あくまで自分または自分たち(つまりは軍)の利益、それも視野の狭い目先の利益を求めて起こす傾向があった。もちろん石原莞爾が起こした数十年も先を見据えたような高度な物もあったが、それは例外中の例外といえた。


 しかも日本陸軍はどうも謀略という物を好む傾向にあった。それさえも、目先の成功に捉われた物ばかりで、広い目で物を見るという視点に掛けていた。


 とにかく、政府の意思とは無関係に軍は勝手に中国大陸における戦線を広げ始めた。陸軍は増援兵力を大陸へと送り、海軍は台湾や長崎からの渡用爆撃を始めてしまった。


 首都を占領、もしくは破壊さえしてしまえば蒋介石は怖気づいて停戦交渉を持ち掛けてくるはず。そのような楽観論が日本の軍部には広がっていた。しかしながらそれは中国軍と中国という大陸を余りにも舐めきった論理だった。


 日本陸海軍はその洗礼をすぐに受けることとなった。


 開戦から間もなくの昭和12年10月、日本陸軍の増援部隊が日本本土から上海へ向かって輸送船に乗りこんで出発した。この時出撃した部隊は、第一次大戦の教訓を下に大幅な機械化と近代化を進めた精鋭の第7師団であった。


 第7師団は当時まだ最新の95式短機関銃や他の部隊よりも定数の多い迫撃砲や速射砲、その他の野戦砲にトラック、車両を保有していた。


 満州事変時の関東軍は、一応第一次大戦の教訓からある程度の近代化や機械化が為されていたが、やはり貧乏で工業力の低い日本においては色々と限度というものがあった。完全な近代化・機械化とは言い難い状態だった。


 しかしながら今回派遣される第7師団は貧乏国日本がようやくにして作り上げた精鋭部隊であった。


 陸軍としてはこの第7師団の実力を発揮するとともに、その力を持って中国軍を短期間で撃破して首都である南京への道を開こうと考えていた。


 第7師団を乗せた輸送船団は、陸軍の要請に応じて海軍が派遣した連合艦隊の重巡2隻、軽巡1隻、駆逐艦6隻に護衛されることとなった。


 さすがに戦艦や空母こそ出さなかったが、それでも重巡を出したのは青島に根拠地を置く中国海軍北洋艦隊を警戒してのことだった。中国海軍北洋艦隊は、この時点においてドイツからの援助もあって巡洋艦2、小型巡洋艦3、駆逐艦6隻の戦力を揃えていた。


 連合艦隊の敵とは言い難いが、それでも輸送船団には重大な脅威であった。


 先に行われた2回の戦争から、中国との戦争が本格化すると各商船会社は陸海軍に協力を要請して、主に中国大陸方面へ向かう船や中国大陸至近を通る船への武装化を行った。


 これに伴い、各商船には1〜2門程度の大砲と1〜2基程度の機関銃が搭載された。もちろんこれだけでは不足であるが、それでも丸裸よりは100倍もマシというものだった。


 だがこの時期になると、かつてのように商戦に武装を施せば戦力となりうるという時代は過ぎ去っりつつあった。どんなに武装を積んでもやはり商船は商船に過ぎない。この戦争ではその片鱗が見え始めることとなる。


 第7師団を乗せた船団は広島の宇品港を出港、門司で待機していた護衛艦隊と合流して一路上海へと向かった。


 この時期連合艦隊の主力戦艦は未だ瀬戸内海にその巨体を浮かべていた。そして空母機動艦隊は遥か南方へと派遣され、上海方面の陸軍を援護していた。


 連合艦隊では一応青島の中国海軍北洋艦隊の動きに気を配っていたが、やはり数で劣る弱小艦隊という印象を拭いきれていなかった。


 その中国北洋艦隊であるが、では近海防衛艦隊を作る切欠となった潜水艦の状況はどうなっていたのかというと、この時点において少なくとも16隻の配備がスパイからもたらされていた。


 帝国海軍では訓練中や修理中にあると考えて、この内の半分程度が出撃できる限度であると考えていた。さらにこれが出撃しているとしても、広大な海域に広がったとすれば大した脅威とはなりえないとも考えていた。仮に中国海軍が集中運用を行ったとしても、それは上海等激戦地近海であるという予測をしていた。


 そのため一応海軍では中国潜水艦出撃の可能性ありとは、陸海軍と各商船会社に伝えてはいたが、終始楽観的な態度を採っていた。


 それが大いなる間違いであることは、間もなく判明することとなった。


 第7師団を乗せた輸送船団と護衛艦隊は、予定通り門司を出港し東シナ海を南下していた。ところが、五島列島の西200kmの海域において突如として中国潜水艦の襲撃を受けた。


 その時の状況をまとめると、まず前衛駆逐艦の「吹雪」が聴音器に敵潜水艦らしきものを探知し、現場へと急行しようとした。そこへ今度は輸送船団左舷を進む駆逐艦「白雪」が同じく潜水艦らしきものを探知した。


 意外と早くに敵潜水艦を探知したが、これは護衛艦隊が輸送艦隊に合わせて速力を18ノットに落していたことと、優秀なソナーマンのお陰であった。


「白雪」も敵潜水艦攻撃のために一旦その場を離れた。


 しかしながらそれが大きな失敗だった。その2隻の護衛艦が離れた隙をついて、今度は別の潜水艦が攻撃を行ってきたのだ。その数4隻で、各艦からそれぞれ4本ずつの魚雷が放たれた。


 その結果足の速い駆逐艦と軽巡は回避行動でなんとかなったが、旗艦である重巡「古鷹」が1本を被雷し航行不能、さらにもう1本が船団内に飛び込み兵員輸送船であった貨物船「さんとす丸」を直撃した。


「さんとす」丸には3000名の兵士が乗っていたが、魚雷は船体中央部に命中したため真っ二つに折れて沈んでしまった。しかも悪いことに、兵員の多くは暗い船倉の中にいたために脱出する暇がなく、わずかに300名が他の艦船に助けられたに過ぎなかった。


 それに対して日本海軍側の戦果は未確認撃沈1に留まり、完全な完敗を決した。


 船団はその後襲撃を受けることなく、上海に入港したものの精鋭の第7師団は戦う前にその戦力の4分の1を失った。前代未聞の事態であった。


 この事件による波紋はまもなく陸海軍、さらに日本全国へ広がることとなった。


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