一次大戦後 5
ソ連と中国の海軍力増強から日本周辺(日本海や東シナ海)を守るべく造られた近海防衛艦隊であったが、その実情はお寒い限りであった。
近海防衛艦隊が設立当初の時点でその担当海域とされたのは、日本列島沿岸の太平洋側と千島列島、南樺太沿岸、日本海、そして朝鮮半島沿岸側の黄海であった。
連合艦隊主力が米海軍との主戦場と定めていた中部太平洋から小笠原近海までの海域と比べれば狭いほうだが、それでもかなり広い海域である。
しかしながら近海防衛艦隊に割り振られた予算は連合艦隊より遥かに少なく、当初配備された艦艇は旧式軍艦(日露戦争当時の装甲巡洋艦や巡洋艦)、駆潜艇、掃海艇、敷設艇等総計40隻にも満たなかった。しかもその殆どが2線級艦艇だった。また指揮下に入った航空隊は飛行艇と水上機が少数ずつに留まった。しかもこれまた旧式機ばかりであった。
無論これだけでは担当海域全域の哨戒さえおぼつかない。(それよりも狭い海域で数に勝る海上保安庁が北朝鮮の工作船を見過ごしていた事実からも、海上防衛の難しさがわかる。) それに加えて艦艇の性能にも大きな問題を孕んでいた。
配備された艦艇の多くは小型や旧式であった。これはまだ良い。この時期の潜水艦はスピードが遅く、水中での動きも鈍かったからだ。しかし、それを沈める肝心要の兵器に問題があった。
なんと爆雷投下軌条と投下台は備えていても、聴音機や探信儀を備えていない艦艇が多かったのだ。これではソ連や中国海軍が増強しているという潜水艦に対処するには心もとないレベルを通り越して無謀であった。
そのため艦隊司令官の杉下少将は設立後すぐに、上層部(海軍省)に意見具申を行っている。その内容は既存艦艇の対潜装備改善は元より、水上・航空両戦力の増強や、新造艦艇の設計・建造、さらに専門の人材の育成などであった。
杉下少将と言う人間は、性格が少しばかり変わっていたが的確な意見をする人間であった。実際これら意見具申は当然と言えるものばかりだった。
そして近海防衛艦隊にとって幸運なことに、間もなく満州国内で石油が発見されその重要度が再認識されるとともに、ソ連の脅威がより現実味を帯びたものとなった。
だから杉下の意見具申の内、まず対潜兵器の全艦装備が決定された。また専門の人材育成も、横須賀に海軍防備学校が設置されることとなった。これは近海防衛艦隊のみならず、これまで格下であった海軍の防備担当者を勇気付けた。
ところが新造艦艇の建造については、この時期戦艦や空母の近代化工事が立て込んでいることと、条約切れとなった際の連合艦隊用艦艇を建造するのに必要とされ暗礁に乗り上げた。
その代わりとして、旧式化している軽巡「天龍」型2隻と二等駆逐艦「樅」型、「若竹」型の艦隊配備からの退役を早めて近海防衛艦隊に配備することとなった。軽巡は護衛巡洋艦、二等駆逐艦は護衛艦に種類変更された。
これらの艦艇は武装を減らし(特に水雷装備)、一部の艦は老朽化していた缶を降ろし、対潜用装備を大幅に強化した。
この処置は、旧型艦を艦隊配備から外して、新型艦の建造を早める意味から連合艦隊にとっても都合の良い処置であった。この時期はまだロンドン軍縮条約が期限切れを迎えていなかったために、雷装を撤廃して駆逐艦でないと言い張り、条約で定められた排水量枠を増やそうと画策したのである。
しかしながら杉下としては、これではまだまだ不十分であった。特に新造艦の建造がストップされたのは腹立たしい限りであった。旧式艦では夏はともかく、冬の千島や日本海で働くのには、能力的に不十分であったからだ。船団護衛や対潜作戦どころか航行さえ覚束ないこともしばしばあった。特に比較的小型の艦艇ばかりなので、輪をかけてそうなる。
「これでは日本海を守ることさえ出来ません!」
と彼は何度も海軍省に上申したが、実際の所予算がないの一点張りであった。もちろんこの裏には、近海防衛艦隊を疎んじる勢力が存在していたのもあった。
結局昭和9年、10年と2年間は近海防衛艦隊にとって苦難の2年間となった。この間艦隊に配備されたのは上記した通りの性能的に不十分な二線級艦艇と、質的に劣る乗員ばかり。対潜訓練を行っても、潜水艦を撃沈できないどころか、逆に撃沈判定を受ける始末であった。
連合艦隊の人間から笑われても、ただ我慢するしかない日々が続いた。
状況が好転するのは昭和11年に入ってからであった。この年ロンドン軍縮条約の期限切れを見越して艦艇の建造計画が新たにスタートしたが、これにともなって駆逐艦の一部も取替えとなり、新たに一等駆逐艦の「峯風」型が改装の上で近海防衛艦隊に回されてきた。
「峯風」型も既に老朽化が激しく、北方海域での使用には困難が付きまとう艦ではあったが、それでもようやく1000t越えの艦艇が配備されたことは、近海防衛艦隊配備の乗員たちを勇気づけた。
さらに不足していた予算も、通商を司る逓信省や満州国の会計から補助される形で補填されることとなった。これによって昭和11年度予算で、ようやく新造の対潜艦艇として4隻の「占守」型海防艦が建造されることとなった。
「占守」型は2年間の近海防衛艦隊の訓練結果や既存艦艇の活動を踏まえて排水量960t、速力26ノット、武装は12cm砲3基と25mm連装機銃2基、爆雷60個と決定された。
「占守」型は北方国境警備任務を念頭に置かれた設計が為され、耐寒設備が忠実していた。また対潜訓練の戦訓から、水上・水中における潜水艦を圧倒する速力が求められたため速力は当初計画の20ノット強から大幅に強化された。ただし、その生産性自体は日本の艦艇に特徴的な手の込んだ設計がなされており、大量建造には向かないタイプであった。
またこの時期研究が始まった艦艇に魚雷艇(高速艇)があった。日本では魚雷艇の開発は行われていなかった。後に連合艦隊司令長官の小沢中将にしても「役に立たない」と結論付けていた。
これにはちゃんと理由があって、日本海軍が定めていた主戦場が外洋の太平洋であったため、モーターボートに毛の生えた程度の魚雷艇を有効に使えないと考えられていたからだ。
しかしながら、近海防衛艦隊の場合は対馬海峡の警備や朝鮮半島・日本列島沿岸地域の防衛・警備には充分使えると考えた。コスト的にも安く上がる。
ただしこの魚雷艇の開発も当初は上手く行かなかった。何せ日本側に技術的蓄積がほとんどなかったからだ。1号艇はエンジンの騒音が五月蠅く、振動があり、さらに最高速度も27ノットと完全な失敗作であった。その次の2号艇では振動と騒音を抑えたが、速力は伸び悩み29ノット強が限界であった。
最終的にまともな魚雷艇が出来上がったのは昭和13年中期完成の6号艇からで、ようやく巡洋艦と同程度の速力35ノットをキープした。
後に量産が始まった魚雷艇は主に対馬の厳原駐屯地に配備され、日本海へ侵入する可能性がある中国潜水艦や、逆に太平洋へ進出を図るソ連潜水艦の監視任務を行った。また日中戦争では中国大陸占領地沿岸の監視任務を、太平洋戦争では港湾警備や諸島における戦闘に投入された。
またこの時期日本の傀儡国家となった満州国の海軍も増強された。当初日本海軍では陸軍との縄張り意識から、海上警察の忠実を画策したが、それに近海防衛艦隊司令部が横槍を入れて阻止し、陸軍の要求どおり海軍を忠実させた。
結果満州国海軍には、旧式ながら二等駆逐艦3隻を始めとする艦艇が供与された。これらは主に渤海における警戒任務に使われた。
こうして日本周辺の通商路警備と対潜作戦の準備が少しずつではあるが進められていった。だがそのスピードは遅く、増強されつつはあったが貧弱な体制に変わりはなかった。そして、そんな中で昭和12年7月7日を迎えることとなる。
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