プロローグ
前回の作品が失敗に終わったので、今度こそやり遂げる所存で書きます。そのため更新ペースは第2話更新の後は7日から5日に1回ぐらいで行きたいと考えています。
1941年12月8日から1945年8月15日までの所謂太平洋戦争において、軍に所属しない汽船・機帆船・漁船併せて7240隻が撃沈され、船員60600名、便乗民間人59200名、便乗軍人101000名、便乗捕虜10800名の命が失われた。
この内物資輸送を行った輸送船や貨客船、タンカーと言った商船の場合2568隻(843万総t)が撃沈もしくは沈没し、それらによる船員の犠牲は35000人以上とされている。戦死率50%というこの数字は、戦死率19%の陸海軍軍人を大きく上回り、日本における戦時輸送がいかに過酷な物であったかを物語っている。
開戦時米英に次ぐ世界第3位の保有量を誇った日本商船隊は、敗戦時には事実上全滅しており、動ける船は80万総tに過ぎなかった。それらさえ、南方と日本を繋ぐことは不可能となっていた。それはすなわち日本に石油や鉄を始めとする重要物資が一切入らなくなったことを意味していた。
当時日本の海防を担う日本海軍においては、艦隊が敵艦隊と直接もしくは間接的に数回の海戦を行い、勝利を得ることで戦争を勝利へ繋げるという短期決戦思想が幅を占めていた。中には「船団護衛は女子供の仕事だ。」とまで言う軍人がいたという話もある。
その結果商船の護衛は後回しにされ、昭和19年半ばまで商船は危険な独航もしくは少数の護衛艦のみに護衛されて航行するという苦しい状況に置かれていた。
これに対し連合国(特にアメリカ)はその生産力に物を言わせて潜水艦や航空機を輸送船団攻撃に活用した。特に米潜水艦によるドイツ潜水艦顔負けの群狼戦術、新型レーダーやソナー等日本軍を遥かにしのぐ高性能な電子兵器、航空機による命中率の高い反跳爆撃の採用などで日本輸送船を撃沈していった。
昭和18年後半に入って本格的な海上護衛部隊である海上護衛総隊が設立され、昭和19年後半になってようやく護送船団方式を本格的に採用したものの、泥縄的な作戦と組織体制、旧式の対潜兵器、圧倒的な戦力の不足は損失を止めるには至らず、日本の輸送船団は悲劇的な末路を迎えることとなる。
戦時急造船の建造等も全てが泥縄的に行われ、日本の商船は自らの身を守ることも、また守ってもらうことも満足に出来ないまま悪戯に失われていった。
先に書いたことに加えて終戦時大型と呼べる戦前型商船の残存数は1桁に留まり、残されていたのは戦時急増の粗製乱造船ばかりであった。世界に誇った日本商船隊は3年8ヶ月という期間で事実上全滅していた。
海路の壊滅は、四方を海に囲まれ重要資源のほぼ全てを輸入に頼る日本にとっては死活問題であり、死を意味していた。その簡単な事実にさえ日本は気づくことなく、例え気づいていても見て見ぬ振りをして戦争を行った。
鉄やアルミ、石油の欠乏は大戦後半になって深刻な生産力不足と燃料不足をもたらし、航空機や艦艇の生産はストップし、艦艇は動くことが出来なくなり、航空機は訓練を行うことが出来ず、体当たりによる片道攻撃を行わなければならない所まで追い詰められた。
そんな無謀な戦争中でも、船乗りたちは懸命にお国のために働き続けた。軍人でも軍属でもないために、たとえ戦死しても靖国神社には入れずその扱いは軍馬以下とされ、軍の命令はどんな理不尽なものでも従わざるを得ず、恩給さえ出ない彼らはそれこそ数え切れない辛酸を味わったことだろう。
現実に成功の宛がない作戦を命じられ、船団ごと全滅したこともあった。軍に自らの意向を却下され、その結果船を失った船員がいた。また脱出時救命具を軍人にとられ、命を落した者もいた。
しかし彼らはそれらに対して文句を言うこともなく(もしくは言う機会を与えられないままに)戦い、そして多くが二度と故郷の土を踏むことなく、海深く沈んでいった。
彼らの苦労と功績は戦後忘れ去られ、ようやく最近になって陽の目を見るようになってきた。それでも人知れず海の底へと消えていった彼らの無念と怒り、そして彼らを取り巻いていた事実を知る者は少ない。
どうしてそのような事態が起きてしまったのだろうか?もちろん海軍の無策や無理解にその原因を帰すことも出来るが、では何故そのようなことに至ってしまったのだろうか?日本という国が航路防衛の重要性を認識する機会は幾らでもあったはずである。
秀吉の朝鮮侵略の際は朝鮮の李提督の補給路攻撃により補給が途絶え、日本軍は撤退を余儀なくされた。日露戦争の際は日本海に出没したウラジオ艦隊によって大陸へ向かう多数の商船が沈められ、多くの物資や人員が戦わずして失われた。近衛師団座乗の「常陸丸」が沈められたのは良く知られている。第一次大戦では同盟国として補給線を遮断された英国の窮状と現実を目の当たりにし、自らも地中海でUボートと死闘を演じている。
しかしながら、それらの前例や教訓はことごとく無視され、太平洋戦争においては全く生かされなかった。もし生かされていたならば、少なくとも多少なりと注意されていたならば、あの戦争の結果も変わったのではないだろうか。
歴史にIfはつき物である。現実にそれを覆すことは不可能であるが、それをシュミレートし、可能性を探ることは不可能ではない。
この物語は、そんな可能性を探る物語である。
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