山田、魔界に召喚される
「おい、山田ァ。お前もうデスメタル(デス)やんねーのかよ」
――ライブハウス『デスマッカレルタビー』での仕事が終わり帰宅しようとした俺の背中へ野太い声がかけられた。
振り返ると案の定革パンに革ジャン、室内なのにサングラスをかけたままのハゲかけたオッサンが立っている。
どう見ても不審人物にしか見えないがこのオッサンこそが俺の職場のオーナー、鯖島先輩だった。
「……みんな女の子にモテる格好いいロックがやりてえのかなって。いや、もはやロックすら時代にあってねえのかな。この時代デスメタルバンドのメンバー募集なんて誰も興味無ぇのかなって……」
言いかけると鯖島先輩が強い口調で俺の言葉を遮る。
「おいおい、なんだてめえ、今日はクサってんな。大事なのはお前がやりたいかどうか、だろ。お前の『好き』ってのは周りに流されて諦めちまう程度のもんかよ? 俺ァお前のきったねえ歌声嫌いじゃ無ぇんだがな」
「褒めてるか貶してるかわかんねぇ……先輩みたいなオッサンに言われてもなぁ」
「あーあ、試供品のコーティング弦あったのによぉ」
「あれ……先輩今日なんかスゲェふさふさだ……!」
「うるせぇ! 無いのにふさふさとか言うんじゃねえ! 余計凹むだろうが! 大体俺のはハゲじゃなくて――ま、今はいい。もってけ。だがそりゃ貸しだからな、返品もきかねえ。……別に急ぐ必要はねえけどよ、また俺んトコ(ココ)でやってくれや」
冗談のように言った先輩だったが、その小汚い優しさは俺の胸に突き刺さった。
俺は無言で笑うと先輩とグーをぶつけ合った。
俺がギターボーカルを勤めていたインディーズデスメタルバンド、ハルキゲニアは不本意ながら一週間前に解散していた。
「夏場にあんなゴムマスク被るとか正気の沙汰じゃ無い! もう、あせもはいやなんだよ!」
「俺の実家駄菓子屋なんだぜ……魔界侯爵の末裔なんて嘘をつくのはもう嫌なんだ……」
マスクバンドにしようとかメンバーが魔界貴族設定だのの提案をしたのも俺では無く脱退したメンバーだったのだが、どういう訳か俺以外の皆は居なくなり独りだけ残されてしまった。
後に聞いた話によると、新たなヴィジュアル系バンドを結成しメジャーデビューする為、やり手のプロデューサーに再プロデュースされる事になったのだと聞いた。
今にして思えば頑なにメタルバンドで在ることに拘っていた俺は都合が悪かったのかもしれない。
元々はモテたくてバンドを組もうとしていた奴らを無理言って集めて結成したバンドだっただけに、ジャンルへの執着はそもそも無かったのだろう。
俺だって夏場にロン毛のままゴムマスクを被って歌うのは拷問に近いと思っていた。
クサいし暑いしよく見えない。
それにこの時代にどうして売れもしないし女の子にも好かれないメタルなんぞやっているんだとはよく聞かれた。
俺自身初めてメタルを聞いた時はただの雑音にしか聞こえなかったし、見せられた映像の中で汗だくでロン毛を振り回しているオッサンは一体何を考えてこんなゲロを吐くような声で歌っているのだろうと思っていたからそういった意見も凄く解る。
だが、頭ではそう思っていても、俺の心はメタルに惚れ込んでいた。
俺がそんなメタルと出会うきっかけとなったのはかつて不良の集団にいじめられていた先輩の猫を俺が助けた事だった。
当時の先輩は無茶苦茶で喧嘩をすれば絶対に負けないわ、野菜はフライドポテトしか食べないわ、ピスタチオも殻ごと食べるわでもうなんか別の生命体なんじゃないかと思うほどだった。
夏でもライダースを着込んでるし、絶対に半ズボンを履いたりしない。すね毛も剃らない。
けれど、それでも己を貫く先輩は俺にとって格好良かった。誰の意見にも左右されず、自分の好きな物を好きだと胸を張って言える先輩が羨ましかった。
そんな先輩が愛していたメタルに俺が出会うのは必然だったのかもしれない。最初はただの憧れから無理矢理聞いてみただけのはずだったのだが、気がつくといつの間にかどっぷりハマっていた。
見た目に関して今ではハゲ散らかして当時の格好良さの名残は微塵も残っては居ない先輩だが、俺にとっては憧れの人そのものだ。
「うおおおお! メタルはまだ死んでねえ!」
帰り道、俺は叫びながら河原岸をダッシュしていた。
皆は成長するに従って自分を周囲に適合させていく。
出る杭は打たれるからと、皆普通とかいうつまらない物に擬態する。それだけなら良い。けれどいつしかそういった普通に馴れて、自分の好きな物を忘れてしまう。
そうして個性を失った状態を『大人になった』と言うのだ。
それは本当に正しいことなのだろうか。
皆で流行りの音楽を聴いて、流行りの服を着て、流行りの食べ物を食べて、イイネを集める事が本当に『大人になる事』なのだろうか。
もしそうなら俺は死ぬまでガキで良い。
住宅街に入ったので流石に全力疾走は止めた。
走っている時は良かったが歩き出すと途端に蒸して不快になる。
汗で顔に張り付く髪の毛をかき上げ、後頭部で雑に縛り、羽織っていたライダースも脱いで肩にかけた。
ロン毛ではあるがサイドは刈り込んでいるので後頭部で縛ればそれなりに涼しいのだ。
ボロアパートの階段を上りきると二階の一番手前にある表札の無い部屋のドアを開けた。
「うなー」
帰宅早々飼い猫のトトが出迎えてくれた。
緑がかった金の瞳を細めて俺を凝視している。
勿論餌を寄こせというだけなのだろうが。
ふてぶてしい顔をしながら前足をタシタシと動かして玄関脇の餌皿を指し、俺に催促する。
「ちょっと待てよ、すぐに餌やっから」
「なー」
餌皿にカリカリをひとすくい入れてやるとはふはふと音を立てて食べだした。
いいな、お前は、と思い茶虎模様の背中を優しく撫でた。
「お前は悩みとかねーんだろうなぁ」
食べ終わったトトは様子を見ていた俺の膝をデニム越しにがりがりとひっかき、ひょいと膝に乗った。
まだ靴も脱いでないのに、と思いつつもこういう時に一緒に居てくれる目の前の毛玉に感謝する。そうしてトトを抱き上げてたぷたぷしたお腹に顔をうずめて深呼吸する。
落ち込んだ時にこれをやると大体元気が出る俺の秘密の儀式だった。
猫のたぷたぷした腹部を専門用語でプライモーディアルポーチだと呼ぶという割とどうでも良い豆知識を思い出すと同時に、唐突にふわりとした浮遊感を感じた。
夢でも見ているのか、と驚いて顔面からトトをどける。だが謎の浮遊感は残ったままで、三半規管が狂ったかのように平衡感覚が失われ視界がぐにゃりと歪みだす。
更にいつの間にか周囲まで真っ黒になっており、その中をプラネタリウムを早回しにしたかのように無数の光が流れていく。
状況を把握しようにもどうしていいのかまるで解らない。
必死で床に手を付き、転ばないように体を支えようとするが既に床すら存在しない。
「な、なんじゃこりゃああああ!」
徐々にグルグルと回っていた感覚は収まっていき、視界と平衡感覚は正常な物に戻っていった。
「うなーぉ」
嫌そうな顔をして、猫のトトはのろのろとどこかに行く。
あたりを見回すと黒とピンクのカーペットにお花の壁紙が目に入る。
明らかに先ほどまで居た俺の部屋ではない。
これは、どうみても女の子の部屋だからだ。
「……来た……!」
声が聞こえた。とても可愛らしい声だったが、聞き覚えは全く無い。
「……出来た……! やはり私は天才だった! はーははは!」
何言ってんだこいつと驚いて声のした方向へ視線を送ると、声の主と思われる少女が真っ黒なローブを着て部屋の真ん中に立っていた。まるで間違った用法の中二病のようにのけぞりながら天を仰ぎ、可愛らしい声で笑い声を上げている。
「な、なんじゃここは……!?」
驚いた俺は声を出しかけ、あわてて口を塞いだ。
状況が解らない今、この子を怖がらせてしまっては交番に駆け込まれてなにやらよく解らない部屋でカツ丼を食うはめになってしまうかもしれない!
ならばまずは冷静に状況を判断しなくてはならない。
ひとしきり中二病ポーズで高笑いをした少女は折れそうな程にそらせていた背中をゆっくりと元に戻す。それによりローブがずり落ちて隠されていた顔が視界に飛び込んできた。
肩まで伸びたピンクゴールドの髪はふわふわとウェーブし、とても柔らかそうだった。
やや八重歯の目立つ口元に、ルビーのように赤い瞳、そして向かって右側の目尻にある逆五芒星型のホクロのようなもの。小さな口を目一杯開けて豪快に、笑い声を上げていた。
一体どういう状況なのかまったく理解できない。だがそんな俺のことはお構い無しに謎の少女はこちらへ顔を向けゆっくりと歩いてくる。こちらを見つめる顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
「おい、お前。もう一度喋ってみろ」
高圧的な態度の少女は唖然として身動き出来ないままの俺の側にしゃがみ言った。
けど、だからといって安易に声を出すわけにはいかない。相手は少女なのだから。
そう、見知らぬ少女と部屋で二人。それは現代日本において最上級のピンチであるといっても過言では無い。
まずは落ち着いて今後の状況をシミュレーションしてみよう。
恐らくこの後すぐにおまわりさんを呼ばれ、俺は取り調べを受けることになるだろう――。
「どうして女の子の部屋にいたんだい?」
「飼い猫の腹部に顔面を当てて泣いてたら謎の女の子の部屋にワープしていましたぁ!」
「うん、そっかぁ、なら仕方ないねェ……おい! 薬物の検査キット持ってこい!」
はい有罪! 俺の人生終了!
ネット上にロリコン死ねとか書かれて俺の面もテレビで延々流されて仕事もクビになるに決まっているのだ!
ならば今は喋ってはいけない。
口を塞いで「黙秘権を行使する!」と心の中で強く思い、相手の人間離れした真っ赤な瞳をにらみつけた。
「ほう、この私にそのような態度、いつまで持つかな?」
謎の少女はいたずらな笑みを浮かべると、立ち上がり、迷わず自らの指先を噛み切り血を滴らせた。あまりに突飛な行動に驚いた俺を尻目になにやらその血を使って床に模様を描き始める。
「――ヴェルベット・チャーチの名において汝を召喚す。黒き至宝を糧とし我が血の盟約を持って応えよ! フェリスフェリス……マンチカァン! 出でよ、アモン!」
――アモン、その名前は聞いたことがあった。記憶が確かであれば魔界の序列でも高位に存在する悪魔の名前だった。
……何で知っているかってそりゃメタルバンドやってる人間からしたらソロモン七十二柱の魔神の序列など基本問題に等しいからだ。断じて中二病などでは無い。
アホな事を考えつつも額に脂汗がにじむ。ただの冗談ならばそれで良かった。
だが少女が床に書いた魔方陣は光を放ち、動いているのだ。
この少女は、ただの人間では無い。何だかよく解らないがこのままでは最悪殺されてしまうかもしれない。
確かに俺はバンドでは魔王キャラで売っていたがまさか本物の魔法使いのような存在と戦って勝てるはずも無いのだ。ここは素直に謝って洗いざらい喋った方が賢い選択かも知れない。
「ちょ、まっ! 降参降参!」
だが俺の判断は遅かったらしく既に召喚は終わっており、部屋の中はもやで満たされていた。
少女の血によって床に描かれた魔方陣の上には既に黒いシルエットが確認出来る。
もやは徐々に薄れていき、俺の目の前に姿を現したのは漆黒の巨人だった。
立ち上がると部屋の天井まではあるかというその巨躯は異常に発達した筋肉で覆われており、不敵に腕組みをしている。
ファンシーな部屋の内装とは明らかにギャップがあり、オイルでも塗り込んだかのように光るその肌は例のシゲルよりも更に黒い程だった。
そしてその背後にはコウモリのような巨大な翼。
表面に走る太い血管はゆっくりと脈動している。これは明らかに作り物ではない。
呆然としてその姿を見つめると視線が合う。その目に走る縦長の猫のような瞳孔がぎゅうと広がる。
そしておもむろに組んでいた腕を解くと、ゆっくりと人差し指を立てて徐々に自らの胸を指さした。何だ……一体こいつは今から何をするつもりだ!?
俺は恐怖に身体を支配されており、既に何も喋ることは出来ず、ただ促されるまま、震えながら相手の指先を見つめる事しか出来ない。
そんな俺を確認した巨大な悪魔アモンはにやりと不適な笑みを浮かべると直後、俺に見せつけるかのように指さしていた大胸筋をビクンビクンと動かした。
「キモーーイ!!」
女子高生みたいな台詞が俺の口をついた。相手は膝と腰を使いながら大胸筋を震わせて俺の前で謎のパフォーマンスを開始する。
「アモン、トラウマにならない程度に可愛がってやれ」
怪しげな笑みを携えながら少女は黒い巨人にそう指示を出したがもう既に結構な精神的ダメージを受けている気がする!
少女に向かって委細承知とばかりに頷くと黒い巨人は即座に行動に移す。
後頭部で両手を組み、嬉しそうな顔でリズミカルにステップを踏みながら自慢の筋肉を見せつけてくる。
だがそれ以上に丸出しの脇にちょびちょび見える脇毛の剃り残しが気になって仕方が無い。っていうかなんで剃ってんだこいつ!
俺はその様子を見て逃げなければと思いつつも全く動けない。
俺の前に近づいてきたアモンは不可思議な呪文を唱える。するとその姿は鏡写しのように複数体へと分身し、俺の周囲を囲んだ。分身の内一体が俺を後ろから羽交い締めにする。
「なんだ!? やめろ、俺なんか喰っても美味くないぞ! 骨張ってるし絶対筋張って不味い自信が――って露骨に俺の乳首に触るな! 親にも触られたことねえわ! それに、ああ! この感触はなんだ! 腿に! 腿に!」
太ももにアモンの、なんか宇宙的恐怖なダゴン(アレ)がふよふよと当たっている!
「当ててんのよ」
「わざとかよちきしょぉぉぉ!」
お前その見た目で口調それなの!?
俺の言葉は無視してもう一体のアモンが俺のまぶたにそっと触れて目を閉じられないようにこじあけた。
眼球が乾き、痛みを感じ出す。
だが更にもう一体のアモンがスプレーのような物を使って俺の眼球に水分補給してくれた。
優しい。
優しいけど、違うそうじゃない。
今欲しいのはそういう優しさじゃ無い。
アモンの分身は羽交い締めにされた俺の目の前で次々に自慢のポーズで筋肉を披露する。
「それじゃ行くわよ。MMP48(魔界マッスルポージング四十八手)」
「解った負け負け! 俺の負けでいいから! やめろおおお!」
「はははは! いいぞ! やはり良い声で鳴く! ……よし、アモン、もう帰っていいぞ。私もちょっとそれ全部見るのは辛いからな」
少女が声をかけた事で俺は無限にも感じられた地獄の筋肉フルコースから解放された。
少女はそばにあったテーブルからやや黒ずんだバナナのような何かを手に取り、黒い巨人アモンに手渡す。複数存在していたアモンは分身が溶け込むように一体へと統合され、嬉しそうに頬を染めてにっこり笑い、召喚時に使った魔方陣から溶け込むようにどこかに帰っていった。
「この魔方陣を抜ければここでの全ての記憶は消える。今頃あいつは突然その手に王家御用達の最高級バナナを握り締めている事に驚き、そして喜びに打ち震えているだろう……」
謎の決めポーズをとりながら少女はそう言った。
……あ、はい。
とりあえずよく解らんがあれは凄いバナナらしい。ようやく呼吸が整ってくる。
先ほどからこの少女が使っているのは明らかに魔法か、それに類するものに見えた。
そしてあの暗黒筋肉魔神アモンは一体なんなのか。
俺にトラウマを植え付ける為のなんかの罰ゲームなのか。理解はまったく追いつかない。
そんな俺をほったらかしにしながら高笑いを上げていた少女はこちらを向いてにやりと笑みを浮かべる。
「合格だ。お前、名前は何と言う」
「や、ヤマダだ」
また変なのを呼び出されても困るので今度は素直に答えた。
先ほどしこたま叫んだのでやや声が掠れている。俺の返答を聞くや否や少女はやや大げさに、まるでワインのテイスティングを行うソムリエのように、
「んー! 実に良い声だ! 素晴らしい。よし、ヤマダ! お前、私の影にならないか? まぁ、なると言うまで返さんのだけどな!」
と言いながら満面の笑みで手をわきわきと動かす。
「影? なんだよそりゃ」
「私の代わりに魔王になってくれという意味だ。見た目と、声だけな!」
魔王? 俺の中で何言ってんだこいつという想いと、先ほど見たイリュージョンのような光景がバトルして、結局俺はよくわからないままにこくりと頷いていた。
「全然意味分かんねえ……」
いやほんとに意味わかんねえ。
同時に太ももに残るいやーな感触が唐突に思い出され、俺は何か大事な物を無くしちゃったのかもしれないなぁとぼんやり考えていた。