Paradise lost
章タイトル「大いなる赤き竜と陽(日)をまとう女」はウィリアム・ブレイクの絵画の名前です。
良い絵なのでお暇ならぜひ検索してみてください。
かつて天界に、神に次ぐ者と呼ばれた至高の天使が居た。
その名を大天使ルシフェル。
やがて、彼はその傲慢から自らこそが神に相応しいと思うようになる。
そうして彼は神に戦いを挑み、敗れた。
罰として天界を追放され流刑地へと堕とされたルシフェルは神への復讐を誓い、自らの名から神を敬う「EL」の文字を捨て、自らをルシファーと名乗った。
彼が堕とされた流刑地には何もない。
光も届かず、大地も腐り、ただいくつかの罪人の遺体が転がっているだけだった。
ここへ廃棄された者はいずれも死に絶えるしかない。
だがルシファーは神への復讐心だけを支えに、屍肉をむさぼり、土すら食んでひたすらに生き抜いた。
何も無い流刑地で、ルシファーは世界の裏側を見つけ出した。
虚数界クリフォトと名付けられたその世界は本来『存在しない』世界であった。
数秘術により世界の理を書き換えることで観測する事の出来るその世界は何も無いがゆえに無限の可能性を秘めていた。
その力を研究し、幾万の夜を越えたある日、ルシファーはついには神を殺しうる力の端緒を手に入れた。
生命力を虚数界へと流し込み、爆発的な力に変換。
生成した反魔力物質は因果律すらねじ曲げ、躱すことも防ぐことも出来ない絶対貫通の魔術的対消滅を引き起こす。
けれど、それを放つ為に必要な対価たる生命力はこの魔界にはほとんど存在しない。
たまにこの流刑地に堕とされる者達は居たが即座に死んでしまうからだ。
ルシファーは、多くの生命を欲した。禁呪を放つ、ただそれだけの為に。
やがてルシファーは流刑地を栄えさせることにした。
手始めに自らの心臓を半分に割り、永久機関黒の月を作り出した。
そうして民を増やし、この地を多くの生命で満たす。
それらの命を吸い上げて、喰らい、いつの日か神を焼き尽くす為に。
子をなす為、ルシファーは天界から堕とされた女を娶った。
やがて、流刑地は魔界と呼ばれ、繁栄していく。
魔界の民はルシファーを魔王と呼び敬った。
けれどルシファーにとって住人は全てただの生け贄だった。
それは彼の大量の臣下達ですら例外ではない。
魔界が繁栄するに従っていくつもの問題が浮き上がり、ルシファーを悩ませた。
住人が増えると同時に衝突も増えた。
勝手に殺し合いをして個体数をいたずらに消耗される事は許されない。
ルシファーは法律を作り暴力を防ぎ、結果として魔界は平和になっていった。
住人は更にルシファーを讃えた。
それでもルシファーの瞳には何も映りはしない。
彼がした事は全て魔界を安定させ、住民を増やすことが神を殺す最も近い合理的な方法だったから。
ただのそれだけだったのだから。
更なる夜を越えて彼は不意に一人の悪魔に心の内を初めて語った。
自らが魔界を繁栄させる理由を聞いた彼は、ルシファーに一つ質問をし、ルシファーはそれに答えた。
「……俺は、ただ神を殺す為だけに生きている。それ以上でもそれ以下でも無い」
相手は悲しそうな顔をして、「友として、君を殺そう」と言った。
二人の悪魔の戦いは熾烈を極めた。
破壊の力を司るルシファーと、守りの力を司る大悪魔の力は拮抗した。
その決着は永遠に付かないかのようにも思われたがルシファーを突き動かす憎悪の力の差が勝敗を分けた。
毒の大地、その丘で息も絶え絶えに仰向けに倒れた相手の喉元にルシファーは刃を向けた。
「僕の負けだ。殺せ」
「ああ、殺してやる。俺の邪魔をするのであれば、相手が誰であっても必ず殺す。たとえ、お前が相手だったとしても」
ルシファーの手は震え、その手は動きを止めていた。
ルシファーにとって自分以外は全てただの道具だった。
そのはずだった。
邪魔をするなら全て殺す。
……けれど、今自分は何と言った?
お前が相手だったとしても?
彼は自分にとって何か特別な存在だったのか?
瀕死の悪魔はルシファーに問いかける。
「君はどうして泣いているんだ」
「泣く? なんだそれは。――これが、そうなのか」
その頬に手をやると熱い水がその指先をぬらした。
「……君は、偉大なる魔王だ。
僕など比べるべくもない存在だ。
きっとその力はいつか神にも届くだろう。
けれど、その目的を果たした君は一体どうする?
君は一体どうなる?
きっと君は、願いを叶えることで、復讐を遂げることで死よりも深い絶望に落ちるだろう。
全てを後悔し、絶望の中、死ぬことも出来ず、誰も居なくなったこの世界で永遠に死ぬことも出来ずただ一人さまよう事になるだろう。
だからそうなる前に僕は君を終わらせるつもりだった。
それが僕に唯一出来る君への恩返しだった。
結果的には敗れてしまったけれど、でもそれは杞憂だったようだ。
だから、もういい。
……さようなら、我が友よ」
そうルシファーに告げると、その悪魔はもう二度と動く事は無かった。
ルシファーは、訳も解らず涙を流し、叫んでいた。
やがて気がつくと毒の大地は黒い華に覆われていった。
それから更に幾万の夜を越えた。
神を殺しうるであろう量の生命は既に十分な量に達していたが、その中でふと友の言葉を思い出した。
どうして自分は神を殺したいのだろう。
かつて身を焦がした傲慢は既に身を潜めている。
目的があった。
けれど理由はなかったのかもしれない。
まるでそう作られたかのように。
自分はどうして神になりたかったのだろう。
どうして友は最後に……。
その時、理解した。
自分にとって、本当に大事な事を。
神を殺す事、魔界。
そして友、ベルゼバフ。
子を得る為だけに多くの女を娶った。
その中で一人、良く笑う女がいた。
ふと会いたくなり足を運んだ。
けれど彼女はとうの昔に死んでいた。
残された孫は、ルシファーをおじいさまと呼び、かつて祖母から託されていた手紙を渡した。
ルシファーは、それを読み終わると大事な物を失ったのはこれで何度目だったのだろうと漸く気がついた。
自分は何をしていたのか。
なにをしたかったのか。
自分は、おろかだった。
自らを慕う物ををただ道具としてしか見ず、この数百万年、何一つ心を動かさず、ただ神を殺す事だけを言い訳に生きた。
自分の生は無意味だった。
けれど、少女は言う。「おばあさまに会いに来てくれて、有り難う」と。
多くの間違いを犯した。
多くの命を屠った。
けれどそれでも彼は最後に大事な物を得た。
ベルゼバフが自分に何を伝えようとしていたのか、最後に言っていた言葉の意味を理解した。
復讐の為に生み出したこの世界には、いつしかそれが在った。
そして、それが復讐に染められた自分をも変えていた。
その事を知って自らの生に意味はあったのだと、漸く感じることが出来た。
同時に彼を支え続けていた怨念ははらはらと消えていく。
「そうだ、おばあさまの育てていた花を見て欲しいの! 来て!」
少女は笑顔でかけていく。
その後ろ姿を見守りながらルシファーの身体は乾いていく。
『君は何の為に生きている?』
かつての友の声が聞こえた気がした。
「ああ……俺は……お前達を……この世界を……いつの間にか……愛して、いたのか……」
やがてその身体は細かな光の砂となり、彼が愛した女の墓の前にさらりと広がっていた。