幼女と月と心臓と
ヴェルベットが目を覚ましたとの知らせを聞き、俺は部屋へと足を運ぶ。
魔王城のヴェルベット私室、その重苦しい色をしたドアをノックすると中から入れと返事が聞こえた。
「よう、体の調子はどうだ」
「……大丈夫だ」
中に入ると他には誰もおらず、ベッドの上で小さくそう答えたヴェルベットは震えていた。
恐らくは生まれて初めて感じるであろう魔界の民から向けられる悪意に、この小さな少女は耐えられ無いのではないかと感じていた。
「お前は……キューの事何か知っていたりするか。あいつが一体何者なのかも」
「……本当に何も知らないんだ。ずっとキューと一緒に居た私自身が一番驚いている」
ヴェルベットは自嘲気味に力なく笑った。
「そうか。……ならどうするか、心は決まったか」
「…………ッ!」
それは、ヴェルベット自身が魔界を喰らうか否か、そういう意味が含まれていた。
あの規格外の化け物バル=ヨハニを倒す事が可能だとすれば、確かにマスティマの言ったようにヴェルベットがルシファーから受けついだ力でしかありえないだろう。
だがそれを行うという事は魔界の民全ての命を喰らうという事。
「分かってるんだ、私にしか出来ないんだから、皆を喰らってアイツを倒さなきゃいけないって。でも、そんなこと……!」
それはそうだろう。今のままではたとえ成功したとしても、この魔界でヴェルベットは一人ぼっち、厳密にはエナジードレインの影響を受けない俺と二人きりになってしまう。
それは既に魔界が失われることと同義だった。けれど。
「ヴェルベット、お前はどうしたい。理屈は考えなくて良い。お前の望みだけを答えろ」
「そんなの……父上の敵は討ちたいよ! この世界を守りたいに決まってる! でも、みんなを死なせたくないんだ! 出来るはずが無いじゃないか!」
皆が生存するだけの魔力を残してエナジードレインを行い、かつバル=ヨハニを撃破する可能性。
それは、ある。
「分かった、だったらそれで行こう。お前が本当にそれを、本物の魔王となってこの魔界を救う事を望むなら」
「どうやって! そんな都合の良い話があるわけが――」
「――ある!」
言い切った。ヴェルベットは泣き顔のまま唖然として俺を見ている。
「よく考えろ。ルシファーのインフェルノヴォラクスは、復讐の為に作られた禁呪だ。――それなら、ルシファーは自分の魔力を計算に入れていたと思うか?」
ヴェルベットは俺の言葉を聞いてはっとした。
ルシファーが作ったその禁呪はその時点では自らの魔力を考慮していなかったはず。
神を穿つ為の燃料として作られた魔界は順調に民の数を殖やしていたはずだ。
それならば、禁呪の発動に必要な全ての魔力を民の生命力で賄おうとしたのではないか。
燃料に慮り、自分の魔力を使う事などあり得ない。
「意味が分かるか、お前がその身に宿す膨大な魔力で、皆の命を肩代わりして守るんだ。それだけじゃない――」
ノックが響く。
俺もヴェルベットも返事を返せないで居ると静かにドアが開く。
ドアの向こうに立っていたのはシャーリーだった。
いつもどおり自信満々の表情には微塵の弱さも存在しない。
「失礼致します――姫様、戦いましょう。先ほどご覧になられて既にご存知かもしれませんが、私の中にはヘルデウス様の心臓も御座います。これを、お使いください」
「早かったな、シャーリー。……で、お前は何の為にここに来た?」
「フン、分かりきった事を聞くな。私は、姫様と……ヘルデウス様の愛したこの世界全ての未来を守り抜く為に、ここに来たのだ」
シャーリーの力強い言葉を耳にした俺は無言で笑顔を返す。
シャーリーもにやっと笑ってくれた。これほどまで恐ろしく、そして力強い味方は居ない。
「父上の……なら皆を死なせなくても、大丈夫なのか……? あいつに勝てるのか……?」
「それはまだ解らねえ。だが、まだあるぜ。初代魔王ルシファーの作り出した黒い月だ。
あれから魔素を吸い上げて魔力に変換しろ、前借するんだ。
そうして今代魔王、先代魔王、初代魔王、それらの魔力で魔界全ての悪魔が生存に必要な最低限度の魔力を残せるように術式を組みなおせ。――そして、勝率を上げる為にもう一つ」
そこから先の言葉にはシャーリーも驚きを見せた。
「ヴェルベット、お前はもう一度きちんと魔界の民と向き合え。
下手糞でも良い、全ての民にお前が自分の言葉で語りかけろ。
自分こそが魔王だと認めさせるんだ。
今のままだときっと成功したとしても、遺恨を残す事になる。
いいか、これは魔界最強の悪魔ヴェルベット・チャーチとしての戦いじゃない、本物の魔界の王ヴェルベット・チャーチとしての戦いだ。
お前が本当の意味で王になる事が出来れば、きっと皆は協力してくれる。
エナジードレインだって無理矢理吸い取るより、皆が協力してくれた方が絶対効率は上がる、そういうもんだろ?」
確かに無理矢理吸い取るよりは、自発的に協力してくれたほうが効率はよくなるかもしれない。
けれど、この演説の最大の目的はヴェルベットに魔王としての自覚を促し、覚悟させる事。
そしてその覚悟を民にも理解させること。
民から向けられた憎悪をそのままにしていては、この先バル=ヨハニとの戦いの中でヴェルベットの心は折れてしまうかもしれない。
そうなっては全てが水泡に帰す。
だから、その前に魔界の民のバックアップと言う最大級のモチベーションを得る必要があると思ったのだ。
ライヴだってそうだ。オーディエンスがいるから、応援されるから実力以上のパフォーマンスが出せる。
人間だって、悪魔だって心を持っている。
だったら、きっとそういうものなのだ。ヴェルベットは涙を拭い、真っ直ぐに俺を見た。
「……分かった、やる! 私は、確かに魔王など、強ければそれだけで良いと思っていた。けど、それだけじゃ駄目だったんだ。私は、父上のように……いや、父上以上に立派な魔王になりたい、ならなくちゃいけない。だから、がんばって、やる!」
震えながらも顔を上げて、そう決断したヴェルベットの背中をぽんと叩く。
「それでこそ魔王様ってやつだ」
ヴェルベットは涙をぬぐい笑顔を作る。
「当たり前だ、私をなんだと思っているのだ」
「おう、やっと笑ったな。んじゃあ見せてもらおうか、魔王様らしいところをな。……あんなぽっと出のハゲに負けてたまるか」
「ああ!」
俺たちは固く手を握り合う。
けれど俺は、それがヴェルベットにとってある意味最大の試練となる事を、理解していた