黒の心臓
「ぎっ――!」
「起きたか」
魔王城、シャーリーの私室。
目の前のベッドから跳ねるように上半身を起こした彼女にそう告げた。
「姫様は!?」
「無事だ、安心しろ。ずっとお前のことを看病してて、ついさっき漸く仮眠したところだ。起きたら礼言っておけよ。っつーか、まずは自分の腕を心配しろよ」
顎をしゃくってシャーリーの左腕を示す。
肘から先の前腕部はあの化け物に綺麗に食いちぎられていた。
その他の部位も外傷が酷く、その体は殆どが包帯に覆われている。
「――姫様が無事なら、良い。左腕が無いなら右腕であいつの心臓を貫くまでだ」
「相変わらずだな、お前は」
ふふっと小さく笑った。
既に俺の心は先ほどの惨状を見てどこか緊張の糸が切れてしまっているのかもしれない。それはつまり、心のどこかで諦観にも似た物を感じていると言う事だ。
あの化物――バル=ヨハニをどうにか出来るビジョンがどうあっても浮かばないのだ。
「今の状況はどうなっている」
シャーリーは真面目な顔をして問う。
俺はあの後城に逃げ込んでから解ったこと、起こった事を簡潔に告げた。
多くの民がジズの犠牲になったこと。
生き残った殆どの民を城に迎え入れ、怪我をした皆はマゴット達を中心に結成された医療班によって治療が行われていること。
マスティマの言葉は魔界全土に響き渡っており、起こった惨劇は既に魔界全域に広まっていること。
それは……この魔界の民全てがルシファーの復讐の為、ただの燃料として殖やされていたという事実を知ったという事。
そしてその力はヴェルベットに受け継がれているという事。
それらのせいで民の行き場の無い怒りはヴェルベットへの憎悪へと変化している事。
史上最悪の魔王、魔界喰らいのヴェルベットなどと揶揄されて。
「馬鹿な……! 姫様にはなんの罪も……!」
俺は手を伸ばしシャーリーの涙を拭ってやる。
「――触るな」
即座に右手で俺の腕ははたかれ口笛をぴゅうと吹いた。
「……シャーリー、お前も教えてくれ。あの野郎、マスティマについて知っていることを。それだけじゃない、お前の……あの力についてもだ。俺は魔界の事はよく解らん。だが、それでもあれが普通の物じゃ無いって事くらいは解る」
そう、確かに先代魔王ヘルデウスの親衛隊だった過去を含め、シャーリーが腕利きだとは聞いていた。
けれどあの時マスティマに向けられた殺意と暴力はそれだけでは説明が付かないものだった。
黒い炎を外骨格のように纏った後のシャーリーはヴェルベットですら苦戦したジズ、その完成体を一人で屠ったのだから。
俺の問いは当然予想していたのだろう。シャーリーは一瞬の逡巡を見せ、口を開いた。
「……大体はあいつが言った通りだ。ヘルデウス様は表向き病死という事になっているが、実際はあいつに、殺された。……この私の目の前でな」
シャーリーはゆっくりと答えた。
静かな声色だったが、そこに幾重にも絡みつく憤怒と怨念はその黒さを隠そうとすらしていない。むき出しの憎悪そのものだった。
思い返せば俺が最初に城に来た時に確かにマスティマの名を知らないか問われていた。
最初からシャーリーはマスティマの存在を知っていたのだ。
だからこそ必要以上に警戒し、ヴェルベット以外の全てを疑っていたのだろう。
シャーリーの殺意に満ちた告白の後、どう声をかけて良いか解らなかった。
たっぷりとした沈黙の後、シャーリーは漸く言葉を継いでいく。それはまるで告解のような雰囲気すら感じさせた。
「私は親の顔を知らない。良くある話さ、私の幼い頃の記憶など血と争いだけで埋め尽くされている。名前も無かった私は黒竜などと呼ばれ、荒くれ者どもの頭を気取っていた。
だがそんな私を諫め、名付け、拾って下さったのがヘルデウス様だった。
――私は、その時からあのお方をお守り出来るように、恩を返す為に、ただひたすらに強くなろうと思った。そうして親衛隊筆頭の地位を手に入れた。
――強くなれたと、思っていたんだ。
だが、結局それはただの驕りでしかなかった。マゴット達との融和を目指したヘルデウス様はあの日マゴットの王との会談に臨んだ――臨もうとした。
だが私たちは道中、突然現れた白い異形――恐らくはプロトタイプのジズ――とマスティマに襲撃された。親衛隊の殆どは不意を突かれ初撃で命を落とした。
生き残った我々は必死に応戦した。
だが、奮闘むなしく、皆がやられていった。最後に私が捕まり……マスティマは、私を人質とした。そうして動きを封じられたヘルデウス様は、あろうことか自分の命を差し出す代わりに私の助命と、マスティマが今後一切魔界へ干渉しない事を願った。
マスティマはあっさりとその願いを受け入れた。――そして甲高い声で、けらけらと笑いながらヘルデウス様の腹を割いた。――そうして死に行くヘルデウス様の目の前で、私の胸を貫いた!
約束を反故にして、絶望するヘルデウス様の目の前に私の心臓を差し出し、笑いながら、それを握りつぶした!
私はその最後の光景を目にして死んだのだろう。
憎きマスティマの顔を、網膜に、脳裏に、この魂に刻みつけ、たとえ幾度転生しようと、輪廻の先で必ず見つけ出し復讐してやると誓いながら――!」
話の内容は俺の想像を遙かに超えていた。
シャーリーはヘルデウスの目の前で殺された? では、今目の前に居るこの存在は一体……。
そこまで語り終わるとシャーリーはおもむろに衣服の前をはだける。
慌てて視線を外したが、どうやらそこにある物を見せたいという意図を感じ取り、目を向けた。
「――ここに、在るのだ。ヘルデウス様の心臓が」
生々しく、残虐な傷跡だった。
シャーリーは胸の合間に刻まれたその傷跡を愛おしそうに指でなぞる。
だが突然ぶすりとその右手の爪を立て、皮膚を裂き血を流す。
「やめろ」
その手を掴むと、まるで自傷行為に気付いていなかったかのようにはっと顔を上げ、小さく自嘲する。
「……悪魔にとって心臓とは命そのもの。魔力を生成しコントロールする最重要機関。
自らの命が助からぬと知ったヘルデウス様は、その場で最も生存の可能性が高かった私にそれを託し亡くなられたのだ」
シャーリーの持つあの異常な怨念と、力の根源を漸く理解した。先代魔王ヘルデウスの力をそっくりそのまま受け継いだシャーリー。あの暴力はシャーリーとヘルデウスの絆そのものだった。
「ヘルデウス様がそうした理由は解っていた。死んだと思われている私がマスティマの手から魔界を、姫様を守り抜くこと。
丁度姫様も私に懐いてくれていたしな、その為に私が生かされた事くらい理解している。
であるならばその為だけに生きるべきだった。
けれど私は……禁忌を犯し、ヘルデウス様の体内時間を逆行させた。
初代の残した秘宝を無断で使ってな。そうすれば生き返るのだと信じて。
だが、時間干渉とは、私が思っていたような生ぬるいものでは無かった。
単純に全てを巻き戻すような万能の力などでは決して無い。
流れる川の水を全て逆しまにするような物では無く、それは川の一部に僅かな渦を短時間作るだけでしかなかった。
任意の場所に過去時間の表層を持ち込むだけだ。
失われた物は失われた物であり、心臓も二重に存在する事は出来ない。
心臓を失ったまま、命だけをその場に戻されたヘルデウス様は苦しみながら、形だけ蘇生した。私は……そんなつもりでは無かった……!
ヘルデウス様を苦しめるつもりなど!
私は自らの愚行に戦き、絶望した。
けれど、それでもヘルデウス様は微笑みながら私を許した。
そうして最後に姫様との時間を所望され――やがて、ヘルデウス様は二度目の死を迎えた。
……私の、浅慮な行いのせいで!」
時間制御。時を戻せば全てが元に戻ると、そう思うのは自然な事だろう。
だがそれは、つまりこの世界への叛逆行為だった。因果律の否定による世界の歪み。
ヘルデウスは一時的に魂をその身に戻すも、そのまま再度死んでいった。
時間とは、初代魔王ルシファーの残した偉大なる力を持ってしても大いなる流れに対し僅かに抗う事しか許されない絶対不変の理だった。だが、一つ大きな矛盾に気がつく。
「ヴェルベットが魔王就任スピーチを一度時間逆行で無かった事にした事は聞いているか?」
「……なんだと? いや、それはありえない。それは私があの秘宝を使った後なんだぞ? あれは一度しか使えない類のものだと聞いている」
だが、現に魔界の民はヴェルベットの姿を知らない。ヴェルベットが嘘をついているようにも見えない。ならばヴェルベットは秘宝に残された魔力の残滓を自らの魔力でなぞり時間逆行を発動させたと言う事だろうか?
「まぁそれならいい。とにかくお前はそれ以上自分を……」
ここでどう返すべきか。シャーリーは赦しなど求めていない。
その罪にどれだけの理由があろうと、シャーリーはそれを自らの咎としている。
シャーリーにとっての赦しは、他者に与えられるものではない。
残酷だが、誰も手を貸すことは出来ない。
何故ならそれは自らで赦さなければならない類のものだからだ。
「……お前は、この後どうしたい」
「それを私に聞くのか。――私の願いは唯一つ、例え刺し違えてでもマスティマを殺し、ヘルデウス様の復讐を遂げること。それが結局姫様をお守りする事にも繋がる」
予想通りの答えだった。
シャーリーは既に自らの命を捨てている。
全ての楽しみを捨てて、復讐の為だけに生きている。
ならば、俺が今告げるべき言葉は決まった。
「よく分かった。……お前が恩知らずの馬鹿メイドだって事がな」
シャーリーの顔から表情が消える。
「――もう一度、言ってみろ」
残った右腕でぎちりと襟首を掴まれる。だがそんなことで俺はひるんだりしない。
その腕を掴みシャーリーの怒りに染まった眼を見ながら答える。
「何度だって言ってやるよ、馬鹿メイド。
てめえは悲劇のヒロインぶって、周りの事なんか何も考えずに、自分の事しか考えてねえんだろうが。
――そんなんじゃヘルデウスが浮かばれねえ!
お前は、一度でもヘルデウスの気持ちを考えた事があんのかよ!」
「なん、だと……!」
「今のお前は死んで楽になりてえだけだろうが! ヘルデウスがどうしてお前を生かしたか考えてみろ! お前にヴェルベットが懐いているから? 思い上がるんじゃねえ!
当時のヴェルベットにとってお前が父親以上の存在だとでも思ってんのかよ!
本当にヴェルベットの為だけを思ったのならヘルデウスはお前なんか見捨てて、マスティマをぶち殺して、城に帰ればよかったんだよ! だがそうしなかった! それは何でだ!?」
ヘルデウスが魔王として最も合理的な対応を選んだとしたら、そうなっていただろう。
シャーリーに託されたあの力を見れば、少なくとも当時の彼にも試すだけの力があったはず。
だが、そうはならなかった。それが意味する事。そんなもの、一つしか無い。
「違う……!」
「違わねえ……ヘルデウスは、命をかけてでも守りたかったんだ……!
ヴェルベットと、お前を!
それなのに、お前は未だに刺し違えて復讐がどーこー言ってんのか! なんでわかんねえんだお前は! そうやってあいつを、ヴェルベットをもう一度悲しませるつもりなのかよ!
自分の復讐心だけを満たして、はいさよならってか!
――答えろ、シャーリー・モラクス! お前が守るべきものは何だ! おまえ自身の恋心と、復讐心か!
それとも――お前を愛したヘルデウスの想いと、ヴェルベットか!
どっちなんだよ!」
俺は生前のヘルデウスを知らない。
けれど、彼にとってはヴェルベットだけではなく、シャーリー自身も、彼の守りたい存在だったのではないかと思う。
「違う……! そんなわけが……!」
シャーリーは涙を溢れさせながらふるふると首を振る。
そうして俺から手を離し、自らの体をかき抱く。
「シャーリー、お前はこれから自分自身がどうしたいかもう一度じっくり考えてみるべきだ。まぁ、その時間はさほどないかもしれないがな」
肩越しに言って、部屋を後にした。
閉じた扉の向こうから聞こえてくるのは、冷徹なメイド長シャーリー・モラクスのものではなく――
――ただのちっぽけな少女の泣き声だった。