窓の外
先ほどのライラとの一件は、僕の中でくすぶっていた。
しかし僕から何か慰めることも出来ない。
鍛練が終わるとライラはそのまま、さっさと鍛練室から出ていったのだ。
背から見える茶色の尾はくたっとしており、彼女が沈んだ気持ちなのがわかった。
それでも、ライラからはそれだけだった。
ライラがどう策を考えても、僕にはイライザが一番だ。
イライザを抱き合わせの対象にはしたくない。
その日の午後、僕は最後の詰めをすませるためにイライザと会合していた。
椅子を隣り合わせて、イライザと同じ書類をにらめっこしていた。
今日のイライザの香水は、グレープフルーツの爽やかさがある。
だぼっとした魔術師の服も袖が多少短くなっていた。
なんとなくイライザと目が合わせづらく、僕は透き通ったガラス窓の外を見ている。
雲が半分ほど空に散らばり、気温は高くなく過ごしやすい。
空の端からは黒雲が迫っている。もしかしたら出発の時には雨になるかもしれない。
明日の朝、日の出とともにディーン王都を出る手筈になっていた。
「そういえば、もう梅雨の季節だ……」
婚約破棄されたのは、暖かくなり始めた頃だった。
次に短い梅雨が訪れて本格的な夏になる。
「雨具の準備はしていますが……グラウン大河では洪水や疫病の季節になります。軍は動かしづらい時ですね……」
「それも独立商業都市が出兵を渋る理由だね……」
「はい、モンスターも活発になるとか……本当のことなのでしょうが、教団への対処を遅らせてよい理由にはなりません」
僕は頷くとともに、ちらりと不安が胸をよぎった。
かつてエルフの村でもあったが、すでにブラム王国の手が回っていないだろうか。
イヴァルトは大陸を代表する商業都市であり、諸国と繋がっている。
歴史がないのと離れているために繋がりがないのは、フィラー帝国だけだろう。
「ブラム王国もイヴァルトで動いているだろうけど……」
「ディーン王国の人間も公式、非公式に出入りはしています。綱引きはしているはずですが……警戒は必要でしょうね」
「そうだね、いきなり敵に囲まれたりしないよう、慎重に行かないと」
イヴァルトは共和制だ。力ある商人の集まりーー議会が実権を握っている。
そのため一人の王という概念がない。
議長はいるが選挙制であり、5年で交代するのが通例になっている。
ディーン王国とは政治に対する考え方が根本から異なっている。
日和見な外交姿勢も商人議会という特質が、大いに影響しているのだろう。
頭となる一人がいない寄り合い所帯なのだ。
「何かありましたか、ジル様……?」
「へっ……!?」
「いえ、何時になく……窓の外をご覧になられているので」
しまった。自分で思うよりもはるかに、外を見てしまっていたらしい。
イライザはライラと僕が一緒にいたことさえ知らない。
神聖魔術については宮廷魔術師にも秘匿してください、とライラは言っていた。
「……顔色も悪くありませんか」
イライザが心配そうに首を傾ける。
僕はぶんぶんと首を振り、否定する。
「快調そのものだよっ!?」
「そうですか……? 魔力も乱れているような……」
「そ、そう……?」
「はい……ちょっと珍しいくらいです」
イライザは僕の首筋に手を伸ばし、そのまま脈を確かめるように撫でた。
さらにイライザは目を閉じ、集中する。
「……本当に何もありませんか?」
「う、うん……まぁ、王宮暮らしなんて初めてだからね。それもあるかも……」
イライザは外交役として飛び回っている立場だけれど、任務がない時はディーン王宮で暮らしている。
僕なんかよりもはるかに王宮暮らしには慣れているのだ。
「それも今日で終わりですが……あ、そうです!」
イライザはぐっと僕を抱き寄せた。
少し体勢を崩した僕の顔が、イライザの胸元に吸い寄せられる。
柔らかな感触が頬に当たり、すっと清涼な香りが僕を直撃する。
「私の魔力と同調すれば……少しは違うはずです」
ゆったりとしたイライザの魔力が僕を包んでいく。
寄せては返す、さざ波のように。
僕の気持ちを知っていて、この接し方は身体に毒だった。
とはいえ身じろぎしか出来ずに、僕はされたまになる。
ぽん、とイライザの手が僕の頭に置かれた。
そのまま、僕は髪をさすられる。
まるで熱を出した子どもがあやされている、みたいだ。
でも愛しい人に触れられている今は、嫌じゃなかった。
僕はなんとなく、気持ちが落ち着くのを感じた。
わからないけれども神聖魔術の訓練が、僕を乱していたのかもしれない。
僕はしばらくイライザに甘やかされた。
不思議な気持ちだった。好きな人と距離が短いほど、穏やかな気分になれる。
横目で窓の外を見ると、遠く空の果ては黒く塗り潰されている。
それでも今だけはーー僕も目を閉じる。
イライザの優しさを味わっていた。




