イライザの抱擁
イライザの部屋も、同じ階にある。
エリスと僕の婚約に絡む人達は、まとめてこの館に住んでいるのだ。
窓からは、アラムデッド王宮がよく見える。
国の規模を反映してか、故国の王宮よりも造りは小さい。
しかし、大きな戦乱に巻き込まれることもなかった国だ。
黒い塔、石堀の冷たく硬質な壁、ところどころ不釣り合いなきらびやかな彫像が、ヴァンパイア族の気質をよく示している。
通路の護衛ももはや顔馴染みだし、僕は挨拶しながら通路を歩いた。
歩幅は狭く、かなりゆっくりだ。
どのようにイライザに接すればいいのか、少しだけ迷っていた。
もちろん、普段通りに会うしかないけれど。
昨夜のことを謝るくらいなら、アエリアの言う通り、イライザを抱くべきだったのだ。
なぜそうしなかったのか。
エリスが僕を裏切っても、僕はまだエリスを裏切れなかったのだ。
どうなるのかわからない中で、欲望に身を委ねきれなかった。
もしかしたら、エリスと再度婚約することになるかもしれない。
もちろん、全てが元通りにはならないだろう。
これまで振り回されながらも、僕はエリスを嫌いにはなれなかった。
男爵の自分には、エリスは到底手の届かない高嶺の花だ。
野にある銀の猫のような王女だった。
金、掟、国といったしがらみを越えて、彼女と愛し合えたらどんなに良かっただろう!
現実は水を弾くなめらかな肌に、満足に触れることも出来なかった。
新しいスキルは、きっかけになるのだろうか。
昨夜の婚約破棄を覆す材料になるのだろうか?
全ては、イライザにかかっている。
護衛に挨拶すると、彼女たちは部屋の扉をノックする。
「ジル様がお見えです」
護衛の顔がこわばっている。イライザ付きは高位の護衛だ。
おそらく婚約破棄を知っているのだろう。
「……今、出ます」
立場としては、僕の方がイライザより上だ。
魔術師の服をきこなしたイライザが扉を開けて、出迎えてくれる。
ああ、気づきたくなかった。
イライザの目は真っ赤になっていて、寝不足みたいにふらついている。
束ねて整えている髪も、ぼさっとしていた。
アエリアの忠告は、事実だった。
僕は早くもイライザの元に来たことを後悔したが、もう遅い。
ええい、と僕は部屋に入っていったのだった。
イライザの部屋は、実は僕の部屋よりも大きい。
魔術師としての研究室や書斎が併設されているからだ。
僕よりも余程機密性が必要な役柄なので、やむを得ないことだった。
丁寧に椅子と紅茶を進めてくるのを辞し、早速本題に入る。
正直、さっさとスキルの確認をしたかった。
そして、身勝手だけれど帰りたかったのだ。
「イライザ……調べてほしいことがある」
「何でしょうか……?」
沈んだ声だ。
昨夜に比べると、心なしか距離も遠い。
僕は、あえて声を掛けそうになるのを抑え込んだ。
「僕、新しいスキルが目覚めたかもしれないんだ」
「本当ですかッ!?」
弾けるようにイライザは僕に歩み寄る。
好奇心が、暗い気持ちを押しのけていた。
「どんなスキルですか? いえ、どうしてそう思われたのですか? んん、まずは調べるのが先ですよね!?」
かつてないほど、イライザは早口でまくしたてた。
ドアを開けた時とは、一変してる。
ただただ、良かった。
僕は無責任に、前向きになったイライザに安堵した。
「ではジル様、ぎゅっとしてください!」
笑顔で、イライザは両手を広げる。
「はい?」
「密着しないと調べられません」
にこやかに、きっぱりとイライザは言い放つ。
僕は身じろぎして、動けない。
腕を軽く上下させて、イライザは誘いこむようにしてくる。
どうやら、イライザに他意はないようだった。
「…わかった」
腕を広げて、真正面から抱き合う形になる。
身長はほとんど変わらない。
ふんわりとした夏の若葉のようなイライザの匂いに包まれる。
柔らかくて大きな胸が、僕の胸に押しつぶされていく。
けれども、イライザは特に気にした様子もない。
ちょうど、僕のあごがイライザの肩にくる。
「もっと、強くお願いします。あごは肩に乗せるように」
知的興味に突き動かされるイライザからは、いつもの遠慮がちな態度が消えている。
言われるまま、腕を背中に回して力をこめた。
あごを肩に乗せると、さらさらの髪の毛が目の前で揺れている。
僕はかつてないほど、異性と密着していた。
魔術師服は厚手だが、イライザの体型を伝えてくる。
イライザの息を吸ったり吐く、かすかな音が耳元でする。
「では魔術を始めますね。しばらく、このままにしてください」
ぴりっと、イライザの身体から魔力が放たれた。
「ところで、どうしてスキルが目覚められたと思ったのですか?」
「アエリアへの日課だよ。血が甘くなったとか言われてさ」
もう一つ彼女のスキルに関することは、秘密の方がいいだろう。
根拠はアエリアの味覚と、勘ということにしておこう。
「なるほど、なるほど。ヴァンパイア族の鋭敏さを思えば、確かに……。でも、血の味がですか」
「うん……僕にはわからないんだけど」
イライザが震えはじめていた。
いや、それだけじゃない。
嫌な予感が、全身を走っていた。
「えぐっ……ぐす……」
抱き合ったまま、イライザが静かに泣きはじめているようだった。