冥界のほとり
僕はネルヴァの言葉を反芻した。
蛍が数匹、僕たちの前を通り過ぎる。
ちかっ、と命の輝きそのものが目に入った。
「ジル男爵も聞いたことないかな。死にかけた人間が第2のスキルを得るとか、そういう伝説」
それは婚約破棄の夜に、まさに僕に起こったことだった。
イライザは死ぬような目にあって第2スキルを得るのは、恐らく既にスキルを所持している人間だけーーと言っていた。
漆黒の夜に立つレナールを見れば、その精神状態は察せられた。
顔つきは険しく、心ここにない有り様だ。
「俺も来たことがあるけれど《死の神エステル》の領域ってのは、本当に死にかけた奴だけが来られるところなんだよね。臨死っての? 要は魂が本当に、冥界に行ってしまうような……ね」
また蛍たちが、ゆらりと闇の奥から現れた。
今度はレナールに集って、小さな光を振りまいている。
僕はぼんやりと映し出されるのレナールの胸元が、赤黒く染まっているのを見て取った。
まるで、心臓を何かで一突きしたかのような跡だ。
レナールの視線が、近寄る蛍に吸い寄せられる。
僕は身構えたが、レナールはお構い無くぽつりぽつりと語り始めた。
「ここは……どこだ。僕は死んだんじゃないのか。何がどうしてーーそれともこれが末期の夢という奴なのか」
誰に向かうともなく投げられた言葉に、暗黒の川から応えがあった。
優雅に詩を歌うように、言葉が紡がれていく。
「私は追放された者……取り戻したい命があるのは、あなた?」
「誰だ!?」
「無礼者ねぇ。あなたから、私の住まいに落ちてきたというのに。それとも、私そのものには興味はないのかしら?」
するっと白く細長い脚が、川向こうの闇から出てきた。
対岸から身体がゆらりと、蛍に照らされながら浮かび上がってくる。
腰までの銀髪に、均整のとれた美しい肢体。
僕はその女性を知っていた。
「エリス……!?」
「ああ、やっぱりそうなんだね。レナールも同じ人に会っていたのか。僕も川辺で彼女に会ったんだよ」
そんなはずはない、エリスのはずがない。
だが暗すぎる中とはいえ、蛍をまとう女性は確かにエリスだった。
しかしーーおかしい。
今、川に佇み銀髪をかきあげる女性は、王宮で僕と婚約していた頃のエリスだった。
王宮から追放される時なら、エリスはもっと子どものはずだ。
対するレナールも、銀髪の女に明らかに驚いていた。
「あなたは、いや……その姿は成長したエリスか……?」
「ええ、そうよ……私にふさわしい器、その理想的な状態がこれ。ああーー私のこと、わかったかしら」
レナールは、目を細めて銀髪の女性を見つめた。
「僕は胸をナイフで突いたはずだ。……ここは、伝説にある冥界のほとりなのか……」
「ええ、その通りよ。あなたは自害した……。私があなたを、ここにちょっと引き止めているだけ。私が離せば、あなたの魂は二度と戻れない闇へと落ちる」
銀髪の女性の涼やかな声が、川辺に響く。
「私の名前は《死の神エステル》、あなたが必死になって追い求めた死霊術の主よ」
射ぬく目線が、エステルからレナールへと向けられる。
こうして過去の記憶を覗いている僕でさえ、背筋が凍りそうだった。
「……すでに廃嫡された僕を生かして、どうするつもりだ」
「《神の瞳》があるでしょう……それを使うのよ。私を地上に戻すために働きなさい」
「無理だ、監視が厳しくてとても出来ない」
レナールは顔を伏せ、首を振った。
エステルは、ゆっくりと対岸から川に脚を掛けた。
エステルは水面を素足のまま、レナールと僕たちの方へ歩いてくる。
水の上に、死の神は浮かんでいた。
その足元から波紋が広がり、蛍のぼうっとした光が幻想的に続いてくる。
「あなたの先輩が、方法を教えてくれるわ……あなたはこうして私に会えた。私のために働く者には、相応の報奨があるわよ」
「報酬……」
レナールの声に、執念が宿っている。
僕には、今後の展開がなんとなく予想できた。
「おかしいな……俺の時は、確か……」
ネルヴァは何かを思い出そうとしていた。
あと少しで、エステルは川を渡り切ってこちら側に来るだろう。
「でも今でも知識と技は、教えられる……アルマを出し抜きたい? いいわよ、私の下僕であり続けるならね」
レナールが、顔を上げる。
顔には急速に生気が戻ってきていた。
歪んだ欲望に顔を輝かせるレナールに、僕は吸い寄せられていた。
このやり取りは、一言も聞き漏らせないと思ったのだ。
「もちろんだ! もう引き返せない……なんでもする!」
ついにエステルの歩みが、水から砂利へと変わった。
心なしか、エステルの声が猫撫で声になっている。
「本当に?」
砂利の上になってからは、エステルはなおさら愉快そうにステップを刻んでいる。
かつての舞踏会で見た、エリスそのままだった。
「ああ……ずっと、そうだとも! 僕はあなたの一番の従僕だ!」
「そうね、あなたは本当に優秀ね……。ジルを私の前に連れてきてくれたもの!」
「まずいっ! 戻れ!!」
エステルが僕に飛び掛かってるのと、ネルヴァの声は同時だった。
僕は血の刃を、とっさに前方に繰り出した。
レナールがーー僕を見て、間違えようもなくにやりと笑っていた。
僕は罠にはめられたのを、いまさらながらに悟ったのだった。
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