レナールの記憶
穴に落ちていく感覚だけがあった。
五体を投げ出し、奈落から吹き上げる風を受けていく。
必要なのは成り行きに任せて受け止めることと、それでも自分をしっかりと認識していることだ。
そうでなければ、他人の記憶と精神に圧倒されてしまう。
「へぇ、慣れてるんだね」
肩口のネルヴァが感心する。
「もう何度かやっているからね……あまり慣れるもんじゃないとは思うけど」
「……それがわかってるなら、いいよ。気を付けて、あいつが何を仕掛けてくるかわからないからね」
ふわりと降り立ったのは、執務室のような一室だった。
時間は夜、星明かりがない真っ暗な日だ。
調度品も暗く、重々しい。
僕がアラムデッドで見てきたものと、そっくりだった。
つまりここは、アラムデッドのどこかーーということになる。
部屋の中央の机には、レナールが向かっている。
顔は林で出くわしたときよりも、生気がある。
しかし苦々しいというか、苦悶の表情だ。
レナールはこちらをちらっとでも見ない、多分記憶の影法師に過ぎない。
その隣には、一人の女性が立っている。
女性は儚げで、うつむいている。
短く切り揃えられた金髪と、質素な服装の美女だった。
「レナール様……アルマ様は何と仰っておりましたか?」
「……僕たちの結婚は認められない、と。いつも通りの答えだ」
レナールがふぅ、とため息をつく。
女性は心配そうに、レナールの肩に手を置いた。
「あまりアルマ様に楯突くと、差し障りがあるのでは……。私のことは、どうか……お諦めください」
「何を言うんだ!? 君だって貴族の家柄だ。アルマにそこまで指図される謂れはない!」
「……ですが私の家は四代前にアルマ様の勘気を被り、風前の灯火……」
「言わないでくれ、どうか……」
レナールが、唇を噛んだ。
僕にはーー彼の気持ちが少しだけわかる。
身分、前例は僕も無関係ではなかった。
「四代前……死霊術に触れた罪だったか。……何か、家に残っていないのか?」
「何を……お考えなのですか」
「このままでは、駄目だ……死ぬまでアルマの言いなりだ。僕は嫌だぞ。君も諦めない……」
レナールの瞳に、薄暗い執念の炎が燃え始めていた。
僕は思った。
これが全ての始まりだと。
そして、レナールは意図してこれを僕に見せているのだと。
また場面が変わる。
部屋は同じだが、いる人物が違う。
部屋をくるくると動き回っているのは、アルマだ。
白い髪先を弄りながら、部屋を歩いている。
レナールは机に向かっているが、顔面は蒼白になっている。
がたがたと今にも震え出しそうだ。
「……彼女は見逃してくれ。悪いのは僕だ。僕一人だけだ」
顔を伏せながら、レナールは懇願していた。
「死霊術の資料を隠し持っていた罪、研究した罪……他にもいくつかありますが……生かしておく必要があるのですか?」
「彼女の家にあったのは、単なる走り書き程度だ……。使えるようなものは何もなかった! それに巻き込んだのは僕だ。彼女は最後まで消極的だった」
……あれから、死霊術の件が明るみになったのか。
レナールの隣にいた女性は、もう捕まったのだろう。
これは、アルマの尋問の場面だ。
「聖域に赴き、何かしましたか?」
「王都の北にある遺跡のことか? 知らない、何もしていない!」
僕の胸にある《神の瞳》が、脈打つように光った。
事件が明るみになった後に、王宮から抜け出すのは不可能だろう。
タイミング的には、レナールはもう《神の瞳》を持ち出していたはずだ。
アルマは首を傾げながら、呟いた。
「はぁ……彼女を火炙りにすれば、何か思い出しますでしょうか?」
「やめろ、やめてくれ! 何も知らないんだ!」
レナールの悲痛な叫びが、部屋中を満たす。
アルマはそんなレナールを、半ば呆れるように眺めていた。
それがレナールの絶望をなおさら掻き立てる。
……さらに騒ぐレナールの声が、遠ざかっていった。
◇
そして、また場面が変わる。
今度はこれまでとは全く違う。
足元に砂利の感触があるが、目の前が暗すぎる。
ネルヴァの鮮やかな青でさえ、見えづらい。
でも耳をすませると、ここが何処だか検討がついた。
川、川だ。
流水のせせらぎ、それに濡れた草木の匂いがする。
本当に闇だけだ、見上げても空に何も映らない。
雲の流れさえも、全くないようだ。
そこにわずかに灯りがともる。
十匹ほどの蛍が、ゆっくりと円を描く。
淡く消え去りそうな明かりの中、小さな石が転がる川縁で、レナールが呆然と立っていた。
頬はこけて、林で会ったときのようだ。
いや、それよりも数段悪い。
右手には光を発していない《神の瞳》を持っている。
レナールは、今にも川に飛び込みそうな雰囲気だった。
「俺が思うにさっきの事件が一段落した後だな、これは」
僕は頷いた。
「さっきはアラムデッドの王宮だろうけど、ここは……知っている?」
レナールの居る場所なら、アラムデッドだろう。
だけれど、見たところ周りに誰もいない。
王都から遠ざけられた後でも、さすがに監視はつく。
それに、右手には剥き身で《神の瞳》を持っているのもおかしな話だった。
それとも追放された所から抜け出してきた後だろうか?
でなければ、辻褄が合わない。
「教団と出会った場所かな……」
僕の推測にネルヴァがひゅう、と口笛を吹くように応じる。
「半分、当たり。俺も一度来たことがあるけれど……ここは《死の神エステル》の領域。大司教にならざるを得なくなる場所、さ」




