血にまみれた世界へ
僕は仰向けになりながら、《血液操作》を働かせていた。
「何を……するつもりっ!?」
ネルヴァは、ナイフを握る力を緩めない。
命を奪う青いナイフに、《神の瞳》の紅い光が反射する。
ネルヴァの戸惑いの顔が、照らし出されていた。
その様子に、僕は確信した。
ネルヴァは《神の瞳》を知らない。
彼はーー利用されているだけだ。
「君を……死霊術から解き放つ」
「できるわけがないっ! あいつから逃げられるわけが……」
断言できる訳じゃない。
それに生きている人間に《神の瞳》を使うのは初めてだった。
ネルヴァに接した僕の血と《神の瞳》に意識を集中する。
目をゆっくりと閉じて、深呼吸をする。
僕たちを取り巻く霧は、濃く先を見通すことはできない。
邪魔は入らないはずだ。
甘いと言えば、甘い。
ネルヴァが死霊術の禁忌に触れたのは、確かなのだ。
でもそれを言えば、僕だってそうだった。
《神の瞳》がなければ、グランツォに取り込まれて終わっただろう。
紅い光が、暖かみを帯びてくる。
「ネルヴァ、君も戦ってくれ……。操り人形をやめたいならーー」
「君ってば……ナイフを目の前にして、そんなこと言う?」
はにかむように、ネルヴァが微笑む。
真紅に包まれたナイフが、震えている。
「君がどうするのか知らないけれど、わかったよ!」
僕は《神の瞳》への集中力を最大限に高めた。
高台の時と同じく紅い光が強まっていき、間もなく爆発するのだった。
◇
光が爆ぜた後、僕の意識は血を伝わりネルヴァへと直接流れこんだ。
思った通り、《神の瞳》を使えば生きている人間にも干渉できる。
アンデッドや魂へ出来るのだから、当たり前か。
いまや僕は、ネルヴァの意識の中にいた。
それは不思議な光景だった。
赤くさらっとした血が、一帯に撒かれている。
雲も鮮やかな紅だが、空は黒い。
風はなく、風景に比べて臭いもない。
地平線の彼方まで、何もない。
ただ、ずうっと果てまで続いているように見えるだけだ。
まるでーー世界の終わりのような、不気味な心象世界。
僕自身は、変わりなく立っている。
外界で活動するのと、まるで同じ感覚だった。
手を握り血の剣を作るのも、普段通りに出来る。
恐らくここに、ネルヴァの精神の中に彼を縛りつけるものがあるはずだ。
グランツォの剣をクロム伯爵が引き抜いたときの、支配が弱まったように。
この世界にも、同じような楔があるはず。
それを見つけて壊せば、ネルヴァは自由になる。
空から一匹の小鳥がやってくる。
手に乗る程度、青く涼やかな羽が印象的だ。
小鳥は羽ばたきながら、言葉を紡いだ。
人間そのままの発音で。
「やぁ……ようこそ。最悪の世界へ」
「ネルヴァ……?」
「うん、まぁ……ここはイメージの世界だからね。俺の姿も自分で思い通りにはならないのさ。ジル男爵は変わらないようだけどね」
「とある力のおかげで、融通がきく」
「ここに、来れたのもそのおかげか……」
ネルヴァが、僕の左肩にそっと降りる。
重さはほとんど感じない。
「……なんとも痛々しい風景だね」
ネルヴァが首を振る。
「これは俺の心象風景じゃない。レナール……あの黒いヴァンパイアのものさ」
ネルヴァを通して、繋がっているのか。
あるいはグランツォの底知れなかった闇にあたるのが、この血で濡れた風景なのか。
「俺が知ってるレナールの力は、苦痛を与えた相手を乗っ取る……そういうものだ。傷つければ、奴の思う壺になる。おっと、今まで喋れなかったのに……なんでだ?」
「……どうやらそれが僕の力でね」
「なるほど、勝算はあるわけだ」
地面の血が、波打ち始めている。
雲も、北へとうごめいていた。
どこかへと、世界そのものが動いている。
「レナールが呼んでいるよ」
「僕が来たのを知ったのかな?」
「たぶんね……見てわかるだろうけど、ろくでもない奴さ。覚悟はしてくれよ」
僕は右手で肩に乗るネルヴァを撫でた。
なんというか、生きている感触がする。
目の前の地面が傷のように、開いていく。
黒い穴が空き、血が虚空へと滴る。
見たところ、底はないようだーー最もここは精神の世界だ。
全ては見せかけに過ぎないはずだった。
レナールの誘いだ。
僕は穴の縁に立つと、勢いよく飛び込んだ。
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