出立④
「フィラー帝国以外も、イヴァルトを初めとして既に動き始めておる」
そこでナハト大公が、僕に視線をくれた。誉めるように目尻に皺を寄せている。
イヴァルトで僕が働いたことは、ここにいる皆にも周知のはずだ。
イヴァルトを引き込んだことも含めての人選である――とナハト大公は語っていた。
「故にわしとしては、このままの編成で出立するのが最も望ましい。遅れを取りたくはないのでな」
ナハト大公が言葉を切ると、沈黙が降りてきた。
講堂の貴族は用心深げに周囲を窺っている。ナハト大公とサイネスを秤にかけているのが、ありありとわかった。
気持ちはわかる。大々的に飴を謳うナハト大公に付いていきたいという思いと、ナハト大公に対立する第二派閥のサイネス。
仮にナハト大公の言う通りになったとしても、ターナ派とは角が立つ。
領地があっても、一人で生き抜けるわけではない。僕もそうだったので、よくわかる。
結局、敵を作らずに味方を増やすのが貴族としては安全な生き方なのだ。
もし将軍が僕でなく、サイネスならばこうはならなかったかも知れない。
ナハト大公の案で、ターナ派から責任者が出る形なら――全て丸く収まる。
どちらの派閥にいても、気兼ねすることはない。最初の計画、講堂の貴族の計算ではこうだったのだろう。
それがナハト大公派で、しかもサイネスと因縁がある僕が将軍になってしまった。さらにサイネスが、この決定に血相を変える始末だ。
これでは他の貴族は、身動きできない。
もはや簡単に結論を出せるものではない――僕以外は。
僕はもう、ターナ派とは決別している。イライザを渡すつもりもない。
それにこれまでのことで、ナハト大公からの信頼と恩恵は十分にあったと思う。
それに報いるのは、今だろう。
「謹んでお受けします、ナハト大公」
僕は立ち上がり講堂中に聞こえるよう、声を出した。
「ほっほう、受けてくれるかのう。事前に通達せなんだはちと悪かったが。ぎりぎりまで調整しておったのでな」
「いえ……そんな」
ナハト大公は従者に指図して、包みを取り出させた。光沢ある黒塗りの布が、うやうやしくナハト大公の手に渡される。
かつてエリスが僕に渡した、黒塗りの筒を思い出させる色合いだ。
(だとすると、かなりの重要な品物……)
布包みを確かに手に取ったナハト大公は、
「近くへ寄るがいいのじゃ、ジル男爵よ」
と手招きしながら、言った。
僕は心臓が高鳴るのを自覚しながら頷く。注目されているのが、痛いほどわかる。
「……ディーン王国では、将軍となるものにこれを授ける習わしになっておる。受け取ってくれるかの」
ナハト大公が布包みを両手で持ちながら言う。もちろん、快く受け取る。
僕も膝を屈め、捧げ持つようにする。手のひらにずしりと重さがやってくる。反面、思った通り手触りはすごく滑らかだ。
一歩下がり、どきどきしながら布包みを確かめる――間近で見ると、棒のような形だ。
「開けてみるが良い」
「……はっ、そうさせて頂きます」
くるくると布包みを解くと、中から現れたのは白銀の小さな指揮棒だった。
所々に細かな水晶があしらわれており、輝くほどに磨き抜かれた逸品だった。高貴な雰囲気を、存分に漂わせている。
この指揮棒は多分、ホワイト家では過去誰も持ったことがないだろう。
騎士から貴族になった身分では、とても将軍位は望めないからだ。
そう思うと、熱いものが込み上げてくるのが止まらない。同時に、僕の手が無意識に少し震えていた。
うまく指揮棒が握れない。焦る。取り落としたりしたら、一大事だ。
落ち着け。ゆっくり、しっかり持てば問題ない。
あれ? 持てない、まずい。汗が……。
焦りがますます募り、意識が遠くなる気がする。
「ジル様、緊張なさらないでください」
いつの間にか隣に来ていたイライザが、僕の手に自分の手を乗せた。
はっと気を取り直すと、震えはもう止まっている。
「……ありがとう」
ちょっとだけ泣きそうに彼女を見ると、イライザは先ほどまでの怒りが嘘のような微笑みを浮かべていた。
「いえ、お気になさらずに」
しっかりと指揮棒を持つと、目の前でひゅんと一振りをして顔の前に持ってくる。
「問おう、ジル男爵よ。そなたはディーン王国の将軍として、しかと一軍を率いるかの?」
ナハト大公が、ゆったりと問いかけてくる。答えはとうの昔に決まっていた。
それはずっと前からホワイト家が、武功の家としても望んでいたものでもある。
ここまで来れば、サイネスが何と言おうと関係ない。僕は、僕に与えられた機会と職責をやり遂げるだけだ。
「……命に代えましても」




