ターナ公爵①
三章の「貴族の当然」と「汚したくないから」を振り返っていただくと、より楽しめると思います。
ライラはサイネスの自室に近づくにつれて、苛立ちを募らせた。
この一角は丸々、ターナ公爵派の影響下にある。ナハト大公には譲るものの、権勢を誇るだけあって装飾はきらびやかだ。
(はぁ……しかし、落ち着きがないというか下品というか……)
ライラの目からして、一角の金銀や名工の手による飾り付けは過剰すぎるほどだった。ごてごてとして、品性が欠けるように見えたのだ。
聖教会にも清貧の思想はあり――特に審問官は賄賂に左右されるような精神は持ち合わせない。
途中からサイネスの護衛に連れられ、奥の一室へとライラは通された。
回廊に比べて、さらに金をかけた一室だ。可能な限り、色鮮やかな宝石や珊瑚で盛り付けられている。
しかも宝石よりも高価な、青白く光る魔力具さえも惜しげもなく置かれており――間違いなく、来客を威圧するための部屋だとライラは認識した。
部屋にいる護衛3人もだいぶ、体格が大きい。とはいえいざという時には、5秒もあれば制圧できるとライラは踏んだ。
「ああ、ライラ殿……よく来られた!」
サイネスは両手を広げ、ライラを歓迎した。
「……いえいえ。夜のミサがありましたが、せっかくのお呼び出すもの。今宵は何用で、私なぞを?」
用件も明かさない、ぶしつけな呼び出しなのだ。このくらいは許されるだろう。
ディーンの所属でもないライラには、サイネスに会わなければならない義理もない。
今回来たのは、偵察を兼ねての興味本位だ。
長居するつもりも、実のある話もする気がなかった。
「まぁ、まぁ……とりあえず喉を潤してはいかがかな。上等なワインがある」
差し出されたワイングラスには、なみなみと濃密な紫の液体が注がれていた。
豊潤な香りが、ライラの鼻をくすぐる。
サイネスがグラスを持ち、景気よく声をあげる。
「乾杯っ!」
「……乾杯」
しかし、ライラはグラスに口をつけただけだ。一滴も飲まなかった。飲む振りをしただけだ。
(何を仕込まれているかわかりませんしね……)
すっとグラスをテーブルに置き、ライラは作り笑いをした。
「それで、ご用件は?」
「まだ、乾杯をしただけだろう? 質の良いハムもある」
従者が副菜を乗せた皿を用意する。ライラはわざとらしくため息をついて、席を立ち上がりかけた。
「……もう晩餐は済ませました。申し訳ありませんが、用がないのなら祈りの儀式をしに行きます」
これまでにこやかだったサイネスも、さすがに気色ばんだ。
「待ちたまえ……わかった、本題に入ろう」
サイネスは咳払いをひとつした。
「私の幕下に来ないかね? ちょうど聖職者の席が空いたのだ」
「……ほう?」
「突然ではあるが、あなたの評判はとても良い――若くして聖教会の高等審問官となった見識、イヴァルトでも見事な働きをしたと聞く。あの小僧に付き従うのは、本意ではあるまい」
「ジル様のことですか?」
ハエを払うように手を振り、サイネスが答えた。
「地方貴族の成り上がり者だ、あれは――ヴァンパイアの国に生贄同然に送り込まれたはずだったのに。いつの間にか、特使だの将などと……門閥貴族から選ばれるはずの役につく、伝統から外れた小生意気な奴だ」
ライラは憎らしげなサイネスの様子から、あえて情報の追加はしなかった。おそらくサイネスはまだ知らないのだ。
ジルが700年振りに守護騎士となることを。
「ずいぶんな言いようですね、サイネス様」
「私だけではないぞ。おおよその門閥貴族は、同じように感じている」
「それはそれは……」
へし折ろうかな。
むくむくと物騒なことが、ライラの頭に渦巻いてきた。
ライラはジルを貴族としては悪い意味でなく、変わり者――と思ってはいる。
しかし、こんな風にあしざまにされるのは、気持ちのいいものではない。
「これからの君の地位も、ますます安泰だと思うが……?」
そう言ったサイネスの顔が一瞬、好色さに歪んだ。ライラはそれを、見過ごさなかった。
鳥肌が立つ。
「ありがたいことですが、私には今の地位でも十分過ぎるほどで……」
「殊勝だな。ますます気に入ったぞ」
優雅にグラスを持ちながら席を立ったサイネスが、ライラの横に回り込んだ。
芝居がかった仕草に、ライラはストレートに気持ち悪さを感じた。
部屋には護衛もいるのに、まるで気にしないほど馬鹿なのだろうか。
「……私は賢い女性が好きだ」
ライラの前に手をつく。顔も近づいている気がして、ライラは横を見る気にもなれなかった。
「私には地位も金もある。私と組めば、将来は枢機卿――いや、教王とて夢ではない」
枢機卿は聖教会にあっては、教王の次席にあたる。それぞれ大国の聖職者を束ねる役柄だ。
高等審問官から枢機卿への昇進はほとんど例がない。家柄も非常に重視されるし、殺人者の審問官には所詮縁遠い。
ライラが任命されることは、まずありえない地位だった。そればかりか、サイネスは巧妙に囁きかけてきた。
聖教会の頂き、全ての聖職者を統べる教王の地位まで。
確かに――教団との戦争に勝てば、ディーン王国の発言力はかつてないほど高まるだろう。もしかしたら、史上初の大陸を制覇する国になるかもしれない。
年齢を考えれば、一蹴するほど無茶な話でもなかった。日陰者、人殺しの審問官から王族もへりくだる枢機卿へ――そして、大陸の裏の王でもある教王へ。
鮮明なビジョンが、ライラの脳裏に浮かんだ。あれほど焦がれたはずの地位だが――今はかつてほどの輝きを感じなかった。
「それを抜きにしても、君は魅力的だ……」
サイネスがライラのあごに触れて、自分へと振り向かせた。
口づけをするように、甘い口調で。
とっさにライラは、サイネスのその腕をねじりあげて、テーブルに思いっきり身体を叩きつけた。
「あぐあっ!?」
それまでの美男子の雰囲気はどこへやら、サイネスは情けない声を上げた。
「あ……気持ち悪かったもので、つい。私、男性に触れられるのがすごく怖いので」
ジルは例外として、サイネスに触れられるのは本能的な恐怖だ。
ライラの頭からは、色んな考えがなくなっていた――サイネスへの嫌悪が、全てを吹っ飛ばしていた。
部屋の護衛が飛びかかろうとするのを、ライラは片手で制する。
「……もう安い劇はいいですか? ターナ公爵様」
「なるほど、見抜いておられたか」
部屋の奥の景色が揺らめき――魔力具の側から中年の紳士が現れた。
幻術を使い、隠れて様子を見ていたのだ。
青い髪には白髪が混じり、油断ならない細面の顔には深いシワが刻まれている。
ナハト大公がタヌキなら、ターナ公爵はさしずめ蛇か。
「父上……こいつ……!」
「聖位侮辱罪、不純交遊罪、不正幻術罪――サイネス様、正式な爵位にないあなたの生殺与奪は今、私の腕の中ということをお忘れなく。そうですよね、ターナ公爵様?」
これらの罪は、実のところ大した罪ではない――せいぜい罰金程度だ。
だが高等審問官に対する場合は別である。元が罰金刑であっても、審問官は独自裁量により略式処刑を執行できる。
相手が正式な爵位になければ、だ。
これが審問官が恐れられる理由であった。
「……ああ、そうだ。それらについては謝罪しよう」




