第三話
その女生徒は人混みをかき分け、挨拶をするような相手も探さずまっすぐ自分の席へ向かった。
「神田さん、誰にも言ってないみたいで安心したよ。」
芦屋の目の動きに気付いて、皐月はあえてそう彼に言った。
「さあ。これから俺を脅して来るかもしれないけどな。」
「それは無いよ。彼女本気で怖がってたし。」
「ふーん。」
「だから近づくなよ。」
「わかってる。」
生返事な芦屋に、皐月は鼻から深いため息をついた。
「卓。次体育だぞ。」
大嫌いな数学の一時限目が終わり、休憩時間に即座に現れた皐月。
彼はすでに着替え終わっているのに、芦屋はまだ数学の教科書を出したまま椅子に座ってぼーっとしている。
「今日はやらねえ。」
「どうしたの?サボり?」
「体操着忘れた。」
「ええ?嘘じゃないだろうな。」
と、芦屋の机の横を覗く。
「無いもんは無い。俺保健室にいるわ。」
ガタ
芦屋はそう言ってそのまま教室を出て言った。
「…あ。」
試しに芦屋の机の中を覗くと、そこにはぎゅうぎゅうに詰まった体育袋がずさんに隠されていた。
「荒いなぁもう。せめてバレないように隠してくれよ。」
皐月はそう言って違う友達と一緒に体育館に向かった。
ガラ
保健室の戸を開ける。
今日は保健の先生がいない。
実はそれを知っていてここに休みに来た。
全てがセルフな保健室は体育を休むのにちょうどいい。
保健室から外を覗くと、女子は陸上競技をしていた。
その中には、やはりあの女が
「いねえ。」
多分どれもこれも違う。
体操着だからもしかしたら見間違いがあるかもしれない。
窓に張り付いてあいつを探してもそれに心当たる女はいない。
ガラッ
「!」
扉が開いて、振り返るとそいつもびっくりしていた。
「あ…芦屋君…。」
「お前…。」
神田だった。
制服姿のままのあの女だった。
「…。」
芦屋の姿を見た彼女は目を見開いて、部屋に入る足を一歩戻した。
だが変にうろついたりすると、違う先生に見つかり厄介なことになる事も嫌だ。
それで怒られるのが彼女のプライド的にそれを許さない。
それと戦っているのか、彼女はただ保健室の扉の前でたじろいでいた。
「入れよ。もう襲ったりしねえよ。」
「…。」
バタン
と、無言で保健室の扉が閉まった。
彼女は扉の前でたたずんで、芦屋の校庭を見る背中を緊迫しながら見つめている。
「…。」
「…。」
時計の秒針の進む音だけが大きく聞こえる室内。
その空気と早く授業が終わらないかとハラハラする神田の鼓動が聞こえて来そうだ。
あれから数分、無言の終わりを迎えたのは、芦屋が急に振り返ったときだった。
「神田…だよな。」
「…なに?」
「……悪かったな。あんなことして。」
「ああ、…うん。別にもういいわ。」
「俺の話聞いたんだろ。」
「…。」
「同情してくれたのか。可哀想だって。」
「…。」
「いつまでそこに立ってんだよ。」
芦屋はそう言うと、近くにあった丸い黒い椅子を彼女のいる扉付近にまで滑らせた。
「ありがと。」
「…お前もサボり?」
「違う。風邪気味なの。」
「そうか。」
「…私もうあなたに怒ったりしてないから。」
「そうか。」
「その過去の事もそうだけど、何より渡部君のあなたを守りたいと言う気持ち凄く伝わったから。あんないい人を私は傷つけたく無いって思ったの。」
「…。」
「それが無かったら私あの日に先生に訴えたかもしれない。」
「いい奴だよあいつは。」
「そうね。凄く。」
「…あいつを傷つけたくない。けどどうしたらいいのかわかんねえよ。」
「私に分かるわけがないわ。」
「そうだな。そうだ。俺もわからねえ。」
「けど、甘えようとする気持ちが1ミリでもあるなら彼にとってはそれはかなりの重りであることには間違いないわ。あんないい人、他には絶対にいない。私もあんな人初めて見た。」
「たまに考えるんだ。もし皐月が俺から離れたらって。一年の時あいつは何故か俺にしつこく優しくして来た。不登校だった俺が今毎日学校に入れるのも、あいつのおかげだと思ってる。」
「そう思うのなら少しは感謝したらどう?」
「してる。沢山。」
「行動で。あなたの態度、側から見れば、ずいぶんと偉そうよ。彼の前では知らないけど。」
「なにすりゃあいいんだ。」
「知らないわ。でも感謝は言わないと伝わらないものよ。」
「お前…。」
と、いきなり椅子から立ち上がる芦屋。
それに神田も警戒して立ち上がった。
「な、何…?」
ゆらりとゆっくり近づいてくる芦屋に背中で扉の取っ手に手をかける神田。
「流石に次はないわよ。」
と、神田が扉を右に引こうとしたときだった。
ガバッ
「!?」
いきなり無防備だった右腕を彼に捕まれ、またあの時の図書室の時のように強く抱きしめられた。
「ちょっと!何!?」
「良い奴だなお前。」
「離して!」
神田はすぐに芦屋の胸を両手で後ろに押した。
「いくらなんでも抱き着くなんてセクハラよ!」
「せくはら?」
「あなたの気持ちは分かった。たまに変な噂とか流れてたりしたから。でもそういうの嘘だったってことも。その友達を大事に思ってるって事も。」
「お前聞いてたのか。」
「耳に入ってくるだけだわ。けど、芦屋君もそんなに他人に流暢に話せるならあの人だけに頼ることもやめてみたら?」
「あ…なんでだろうな。」
「え?」
「俺なんでお前にそんな事言おうと思ったんだろうな。」
「知らないわよ。」
「なんでだろうな…。」
と、自分より背の低い彼女の顔をまじまじと見つめる芦屋。
「何考えてるのよさっきから!」
神田はその真っすぐ過ぎる彼の鋭い目に耐えられず目をそらす。
「私をもて遊んでるの?趣味が悪いわ。」
「は?」
「自覚がないの?」
「さっきから何言ってんだお前。」
「恥ずかしい人…。」
バチッ
神田は少し頬を赤らめ、いきなり右手を振りかざして芦屋の顔面に鋭いビンタをした。
「いって!何すんだよ。」
「私に無断で触らないで。それと、もうこうやってあなたとお喋りもしないわ。」
神田がそれを言った瞬間、大きなチャイムが学校中に響いた。
「さよなら。」
彼女は颯爽と保健室を出て行った。
「…。」
芦屋が教室に戻る頃、既に体育終わりの男女が何人か戻ってきていた。
その中には、自分の席で頑なに誰とも絡もうとしない窓の外を見つめている神田もいた。
「卓!」
「汗くさ。」
教室の廊下の前、皐月が小走りでこっちに来た。
「よく眠れた?」
「寝てねえよ。」
「保健室で何してたの?」
「別に。ボーっとしてただけだ。…なあ皐月。」
「ん?」
「…その………いつもありがとうな。」
「ええ?急にどうしたの?らしくないなあ。変な薬でも飲んだ?」
「ちげーよ。ただそう思っただけだ。言ってなかっただろ。こういう事。」
「ふふ。可愛い奴め。」
皐月は拍子抜けた顔をしていたが、すぐに滅茶苦茶嬉しそうに芦屋の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「怖いなあ。こんな事もあるんだ。」
「怖いってなんだよ…。」
芦屋は恥ずかしそうにそういいながら、窓際の神田を皐月の背中からじっと見ていた。