第十一話
「宇佐、大丈夫?」
皐月は一人、体育終わりに宇佐の元へ向かっていた。
「う、うん。」
「何があったか教えてよ。宇佐がいつも助けてくれるように、今度は俺が宇佐を助けてあげたい。」
「…彼が怖い…。」
「誰のこと?」
「…芦屋君が怖い…。」
「卓がなにかしたの?」
「わからない。彼じゃないかもしれないけど…。」
宇佐は涙ながらに答えた。
「金曜日にあの山で、得体の知れない物を食べさせられて、その、食べさせて来た人が…芦屋君かもしれないって…。」
「落ち着いて。」
皐月は宇佐の背中を優しく撫でた。
彼の体は小刻みに震えて、怯えている。
「そいつが、人肉を食べさせたって言ったんだ…。僕の口に放り込んだものがそれだって。」
「本当に人肉だったの?」
「わからない見えなかった。でも、血生臭いのと、滴るそれは赤い血で間違いないよ…それに、そいつが履いていたスニーカーが芦屋君のものと似てるんだ…色はわからないけど…。」
「警察は?やっぱりダメなの?」
「君の知り合いに何とかして欲しい…。」
「まだ返事はないんだ。ごめん。宇佐。薬あげるから飲んで。」
そう言うと、皐月は胸ポケットから錠剤の入った瓶を宇佐に渡した。
「これはね、精神患者が落ち着くために飲んでるとんぷく薬なんだ。」
彼はそう言って錠剤を一つ取り出す。
「これを舌の下に入れて溶けるまで待って。徐々に聞いてくると思う。毎回あげるから毎日一錠飲んで。今みたいに寝る前とかがいいかな。」
「ありがとう…。」
「教室には戻れそう?」
「…。」
宇佐は雨に濡れた子犬のような顔で首をかしげた。
「ごめん。僕がまた勝手に起こしたことだよ。自己責任だって事もわかってる。芦屋君を避けるのはいけない事だって事も分かってる…。違うと思う…。だけど、あの事が凄く怖くて、僕が食べたものが本当に人間の肉だったと思うと…。」
「違うよ。人間の肉じゃないよ…。」
「そいつが去り際に言ったんだ。僕を後継者にしてもいいって。そんなセリフを言うってことは、そいつは僕にまた会いに来るんじゃないかって、そう思うと居ても立っても居られなくて…。それで…それで…!」
宇佐はパニックになって頭を両手でおさえた。
「大丈夫!これ飲んで!」
宇佐の口元に錠剤を持っていくと、彼はそれを言われた通り処方した。
また泣き出す彼を落ち着かせるために、皐月は宇佐を優しく抱きしめた。
「大丈夫。とにかく今日はもう帰ったほうがいいよ。ここでひとまず寝て。帰り不安になったら連絡して。」
皐月は彼の背中をさすりながら優しく囁いた。
ガラ
「遅かったな。」
芦屋は教室に入ってきた皐月に呑気に話しかけた。
「うん。宇佐がね…。」
「あいつがどうかしたか?」
「お前何にも知らないよな。」
「は?」
「いや、別に。」
「ついに当たったんだろ。足を踏み込み過ぎて身を滅ぼしたんだろ。」
「まあ、そう言う事だな。」
「自業自得だ。」
「…。」
「やっぱいてーわ。」
体育終わりの十分休憩があと数秒で終わると言うのに、蓮本は先程のバトミントンで手首の変な痛みに耐えかねていた。
シップを貼りにいくために保健室に向かう。
「ん?」
目の前の保健室の扉が開くと、中から渡部皐月が出て来た。しっかり制服に戻っていて、反対方向に足早に去っていく。
「…。」
ガラガラ
蓮本は先生不在の保健室の戸を開けた。
「どれだ?」
蓮本は右手を庇いながら湿布を漁る。
授業のチャイムなどガン無視で、マイペースに探している。
「あった。」
残り僅かの湿布の残りを一枚、テーブルの上に取り出したその時だった。
「うわああああああ!!?」
「!?」
目の先のカーテンの閉まったベットからいきなり叫び声が聞こえた。
この部屋の規模と明らかにお門違いな声のボリュームに思わず心臓が飛び跳ねる。
「なんだよ!!うるせえな!!」
シャッ!!
と、一発殴ってやろうとカーテンを思いっきり右に引いた。
「嫌だ!!やだ!来るな!!」
「!?」
蓮本は、その光景にギョッとしていた。
同じクラスの女顔の男が何かに怯えていた。
布団を頭から被り、ただひたすら叫びながら震えていた。
「おい!どうした!大丈夫かよ!」
「ごめんなさい…山に入ってごめんなさい!お願いします…もう僕の元に現れないで…!!」
「さっきから何言ってんだお前…。」
蓮本は暴れる宇佐の胸ぐらを掴んだ。
「うぐ…ごめんね芦屋君…だからもうやめて…。」
「芦屋?お前、芦屋になんかされたのか?」
「ひっく…うう…もうあの小屋には立ち寄らないから…もう何もしないから、ごめんねごめん…許して…。」
宇佐の目は蓮本の頭の上を見ていた。その見えない何かに怯えている。
目から大粒の涙をボロボロと流し、瞳孔が開きっぱなしで演技とも思えなかった。
「しっかりしろよ!!何があったのか説明しろ!!」
宇佐の体を揺らすと、彼の胸ポケットから何かが落ちた。
「ん?」
それは小さな小瓶に入った錠剤の薬だった。
それ以外何もわからない。
「これお前の薬だよな。これ飲めば大丈夫か?」
と、飲ませようと思ってみたが、なんの薬かわからない以上飲ませるのも怖いと思った。
「水買って来る。待ってろよ。」
蓮本は近くにある中央口の外にある自販機に走った。
幸い乱雑にポケットに入っていた小銭で、安い水をゲットできた。
「ほら飲めよ。」
キャップを取り外したペットボトルを宇佐の口につけてゆっくり飲ませた。
肩で息をしていた彼も、落ち着きを取り戻してようやく我に返ったようだ。
「大丈夫か?お前まさかあぶない薬やってんじゃねえだろうな。」
「…違う…渡部君からもらった薬を飲んだだけ…。」
「薬?この錠剤か?」
「うん…でも関係ないよ。これは精神を正常に治す薬みたいだから。効いてるかわからないけど。ありがとう蓮本君。」
汗だらけの宇佐がニコッと笑いかけた。
「それより、さっき芦屋がどーたらって、なんなんだよ。」
「いや、これは僕の思い込みが幻覚に変わっただけなんだ。悪夢を見ただけ…。」
「いいから教えろよ。その思い込みに芦屋が出て来る訳をよ。」
「先週の金曜日、僕が山の中に入ってね…。」
宇佐はまだ荒い息を整えながら金曜日の夜の話を洗いざらい話した。
「それ本当かよ。その人殺しが芦屋かもしれないって。」
「いや、ごめん。違うと思う。僕がずっと芦屋君を怪しんでいたからその固定概念がそのまま記憶の中に残っているだけなのかもしれない。でも、思い当たる節もあるから、僕は、同級生を思い込みのまま…。」
また宇佐が取り乱し始めた。
「勝手な思い込みで、勝手に怖がって取り乱して、普通に生活している芦屋君に申し訳ない。でもあの時の恐怖と、人の肉を無理やり食べさせられた時の絶望とか、口の中に広がる血の味とかが、どうしても脳裏に浮かんできてどうしようもないんだ…。さっきの悪夢も、蓮本君の頭の上にそいつが笑ってて…怖くて…。」
と、大粒の涙を流しながら震えていた。
「呪いの山に行くからだろ。けど、そんな話は聞いたことねえよ。そのやばい奴が人肉食わせて来るとか。」
「…。」
「宇佐川。お前をそれから俺が守ってやるから、その話とお前の持ってる芦屋の話全部くれ。俺にも何回か思いあたる節はあるんだよ。」
「駄目だよ…この件はもう触れてはいけない。芦屋君にも、あの山にも。」
「うるせえ。こっちは一年片想い中の女がかかってんだよ。この状況を打破するにはそれしかねえ気がしてきた。」
「こんな風になってもいいの?知らない方が幸せなこともあるよ…。」
「ふん。俺は今それよりも不幸せだから関係ねえよ。」
蓮本はそう言って親指を力強く立てた。
「宇佐早退するんだ。」
皐月は戻って来た宇佐に尋ねた。
「うん。調子が悪いから…。」
「そっか。お大事に。」
渡部は心配そうに、荷物を肩にかけて出て行く宇佐を見送った。
「ふん。哀れだな。」
芦屋はそれを鼻で笑った。
「卓、お前最近調子良さそうだな。」
「そうか?」
「あまり指噛まれる事なくなったから。」
と、白い筋の見える手を裏返して見ている皐月。
「神田さんを好きになったからなのかな。」
「さあ。また嫌なヤツが現れたけどな。」
「蓮本、神田さん諦めてなかったからね。」
皐月はそう苦笑いをした。
「次から次へと嫌な奴ばっか現れやがって。」
「ほんと、まさか蓮本がね。ダークホースだ。」
「はあ。また歪んだらあのクソ野郎のせいだ。」
芦屋はそう言って頬杖をついた自分の小指に噛み付いた。
「殺すとか物騒な事あまり言うなよ。」
「言わせるほうが悪い。」
「…宇佐、あの呪いの山で何か見たみたいだった。」
「何を見たって?」
「いや、詳しくは聞かなかったよ。」
「ふーん。」
「あれ?」
皐月はふと廊下を見ると、蓮本と神田が何か話しながら廊下を歩いていた。
「…。」
芦屋は子供のようにすぐ不機嫌になって、眉をしかめている。
ガタ
そして、芦屋は椅子から立ち上がった。
「行くの?喧嘩しないでね。」
皐月はまた心配そうな顔をして、我が道を行く芦屋の背中を見送る。
「神田。芦屋は危険だ。近づかないほうがいい。」
廊下ですれ違った彼女を捕まえ、蓮本は必死に説得していた。
「急に何よ。」
「本当だって。宇佐川から聞いたんだよ。あいつ人殺すって。」
「そう。」
「信じてないだろ。あいつ誰かにあの山で人の肉食わされたとか言ってたんだぜ。」
「そんな話信じると思う?怖い話でも全然面白くないわ。」
「だから本当だって!お前だってなんか気づいてんだろ?あいつのそう言うところ。何するかわからないって!」
「…。」
「お前がそんな奴に近付くなんて危険すぎるだろ。」
「私には噛み付かないわ。」
「は?」
「あなたには危険人物かもしれないけど。」
と、神田はチラッと蓮本の後ろを見た。
その視線に、蓮本はそっと後ろを向いた。
「うわ!?」
すぐ後ろに芦屋が突っ立っていた。
蓮本の心臓はビクッと跳ね上がった。
「つけてこないでよ。」
神田は芦屋を睨みつけた。
「何話してんたんだよ。」
「別に。大した話じゃないわ。」
「…。」
芦屋の視線は蓮本に向いた。
身長は同じくらいの、頭のネジの部品の型が一緒な二人は、バチバチと火花を燃やしていた。
「神田に宇佐川みたいな事したら許さねえからな。」
「俺だって殴ったことすらねえよ。」
芦屋のその一言に少し吹き出しそうになる神田。
「とにかく!お前みたいな何考えてるか分からない奴をのうのうと近づけさせられるわけねえだろ!本当の目的だって違うかもしれない!」
「何言ってんだてめえ。」
「ここで喧嘩したら嫌いになるわよ。」
神田が冷静に鎮火すると、二人は牽制状態に留まった。
「俺が神田に何すると思ってんだ?」
芦屋は半笑いで蓮本を睨む。
「快楽的に殺すとか。」
「馬鹿じゃねえの?」
「お前に限ってない話じゃねえだろ!!」
「私もう戻るわ。」
しびれを切らした神田は教室の中に戻った。
「お前、何考えてんだよ。変なこと言ったり俺の命もらうとか言ったり…。冗談に聞こえねえんだよ。」
「なんか証拠でもあんのかよ。勝手なことをべらべらと。」
「お前が宇佐川をあんな風にしたんだろ。何が目的だ?」
「お前こそそんなホラ吹いて何が楽しいんだよ。いい迷惑だ。」
「…。」
何も証拠もなく、蓮本はただ唇を噛んでジッと睨んでいるしかなかった。
「ふん。なんか見つけてきたら持って来いよ。」
芦屋は相手を小馬鹿にするように鼻で笑いながら教室の中に消えた。