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限りなく空色に近い空

     序  ‐スケッチ‐


 街には、遠くで聞こえる鐘の音と馬車の音で埋め尽くされている。雑多な街ではあるが、それでも美しいものに身をやつす覚悟であるのか道脇には絵売りが腰かけていた。思い思いに彩られたカンバスを並べ、そのほとんどが人の行き来を眺めている。皆、自らの絵に思いを込めているゆえ必死だ。それもそうだろう。先の理由もあるが、これが売れなければ自分の明日の命さえ危ういからだ。

 だがそんな中で、一人上を見上げる青年がいた。同じ様に並ぶ絵描きとは裏腹にその眼は空を見据え、腕の中には何枚もの紙を抱えている。紙を買う費用もないのか、色は白くはない。カラカラの古ぼけた茶紙だ。小さくなった黒鉛が、さらに彼の状況を物語る。

 しかし、彼の眼は光を失ってはなかった。自らの限界を限界と知らず、いまだに上を見続けられる力を秘めている。彼の夢は画家になること。絵描きになら誰にだってなれる。なぜなら、どんなに劣っていたって絵を描けるだけで絵描きを名乗れるからだ。周りに拡がる同業者の中にも、正直美しくないものを売っている者だってある。だから彼が目指すのは、誰しもに認められる画家であるのだ。

 何よりも美しさを追い求め、現実と絵の具を繋ぎとめることを渇望する。あの、高い高い空に憧れて、いくつもそれを描写していた。

 いつものように空に夢中になっている中で、青年は近くで馬車が止まるのを聞いた。この道中で珍しい。何か気になるようなものでもあったのだろうか。しかし彼にはお構いなしだ。どのようなことだって、彼の空に対する思いを打ち消すことはできない。

「君は、画家かね?」

そう、思っていた。不意に掛けられた声に、思わず反応する。感情を抑えた、低めの声だ。青年が眼を少し落すと、黒が良く似合う男性が立っていた。

「どうした? 口が利けないのか?」

「い、いえ、そんなことはございません…っ」

しばらく呆気に取られて言葉が出ずにいると、そのようなことを言われてしまった。慌てて訂正する。

「そうか。それなら良かった。私は絵が好きでね。いや、好きなものは絵だけではないけれど。美しいものには眼がないのだよ。時に、君の並べている絵画は素晴らしい景色だ」

「あ、ありがとうございます」

 褒められている、のだろう。だが青年には、男性の言葉は入ってこなかった。自分より遥かに身分の高い者が突然目の前に現れて、自分の絵を褒めている光景はとても現実味がなかったのだ。どうして男が高貴だと分かるのか、と問われれば、まず馬車に乗っていること。その車は漆黒であり、金の縁取りがされている。それは男の装飾品にも関わらず、荘厳な圧を感じた。

 纏うは黒いタキシード。そこから覗く純白なシャツ。自分の羽織るそれとは、全く色も質感も異なる。絵売りの彼には、気恥ずかしささえ覚えた。

 緩く波打つ黒髪は、それでも丁寧に手入れをされているのか落ち着いている。聡明な黒い瞳と相まって、この辺りではあまり見かけない血が混じっていることを感じさせた。

 男の風貌は美しく整っていて、青年の眼を奪う。彼の憧れだった、空を忘れさせるほどに。

「これは、どこの風景だ?」

 暫く絵を物色していた男の口から、質問が漏れる。絵描きは注文に応えた。

「それは、自分の故郷の景色です。何もないところですが、美しいところだと自分は思っております」

「何もないことはない。君の言った通り、美しいところだ。君はまだ、画家ではないのか?」

「…はい、志望ではあります。誰もが認める画家になりたいと思っておりますが、こうして露店に出しているだけでさっぱり売れません」

 痛いところを突かれてしまった。画家志望ではあるが、自分の実力などまだまだだと感じているからだ。自分の前に高貴な男が立っていることも、冷やかしだろうとしか思っていない。

「誰もが認める、か。なるほど。セルジュ、背中を貸せ」

 言うと、一人の老人が男の近くに寄って来た。海老茶色のローブを着込んでいるが、背中が異様に丸まり歪だ。老夫は主人に掌大の紙と羽根ペンを手渡し、背を向けた。そこで男がペンを走らせる。なるほど彼は、貴族付きのせむし男なのだ。せむしでもこのような人に付けたら幸せだろう、と絵描きはぼんやりと考えていた。

「君、名は何という?」

「ぇ…。ロラン…、ロラン・ヴァレリーと申します」

 ピッ、と紙の破ける音を聞いて我に返る。差し出された紙にはLoran・Valéryの文字と、500,000の数字。彼の生活の中で、見たことのないゼロの数だった。

「おめでとう、ロラン。これで、君も画家の端くれだ」

 受け取った、絵を描く以外の紙。それは絵描きが持つそれより、白く輝いていた。否、今からの彼は、画家というべきか。

「これからも素晴らしい画家になるよう精進するといい。包みを」

「かしこましました、旦那様」

 最後の声は、傍らに控えるセルジュと言われた男に投げられたものだ。老人らしい、しゃがれた声で応える。使用人は馬車から大きな紙を取り出して、ロランの絵を丁寧に包み込んでいった。貧乏で粗末なカンバスすら買えない為、手作りの木枠の後ろを見られるのはやはり恥ずかしい。

「あ、あの、こんな絵で本当によろしいのですか!?」

「…こんな絵? 君は自分の世界を自分で否定するのか?」

「い、いえ…、そういう訳では」

 堪らず口に出した謙遜は、逆に悪いように取られてしまったのかもしれない。かねてから自分が信じている、美しい世界。見ているものを他人にも理解してほしい思いから生み出した、独自のものだ。確かに、それなりに誇りはある。

「ならば自ら卑下するのはやめた方がいい。それは己ではなく、君の世界を認めた者を卑下することになる」

「…はい、分かりました」

 画家はまだ、その言葉を深く考えはしなかった。考える前に、買い手が踵を返したからだ。

「終わったかね? では屋敷に戻ろう」

 手際よく終了したのを見計らって、男が馬車に乗り込む。カツカツと石畳に響く靴の音だけが、耳に聞こえた。

「あ、…ありがとうございました!」

 画家は帰る男に礼を言って、見えないところで頭を下げる。今更ながら、心臓は激しく脈を打っていた。柄にもなく緊張していたようだ。

「何、どうということもない。君はいつまでも美しいものを作り上げてくれればそれでいいのだ。それを続けられるならば、いずれまた会える時が来るだろう。ではね」

 扉が恭しく閉められると、木を小突く音と鞭の音が続く。馬が高らかに嘶き、黒い車は滑り出した。

 見送りながらそこで、彼の周りには街の雑多が戻って来た。他人にとっては束の間の、何ということもない時間だったかもしれない。しかしわずか短時間で大金を手にした彼は、とてもそうは思えなかった。名もなき絵描きが、一人前の画家になった瞬間だ。初めて、自分の世界を買ってくれた、認めてくれた。紙切れを持つ手の震えが、止まらなかった。

 それは恐怖か、嬉しさか。

 握りしめてはいるが、皺が寄らないようにとずっと柔らかく気を付けていた。その紙をじっと見ていると、青年はじわじわと実感がこみ上げて来る。

 Loran・Valéry‐ロラン・ヴァレリー‐

 一人の画家の人生は、ここから始まる。



     第一章  ‐下描き‐

 時は晩春。花が落ち、青々とした緑が息づく季節。眼に映るのは、一面の青い世界だ。空と、草原が混じる。

 爽やかな風が、一人の男の横を駆け抜けた。それは彼の萎れたシャツを凪ぎ、艶やかな髪を巻き上げる。その秋の味覚のような髪色を持つのは、名もなき絵描きだ。何色にも汚れた手に絵筆を持ち、片方にはパレットをかざす。

 カンバスを真剣に見つめる双眸は鳶のようで、中央に灰青が混じり寄る。薄く引かれた唇によく通った鼻筋、陶器のような真白い肌。否、この場合血色が悪いというべきだろうか。持つ全てが、男であることが勿体なく思う程だ。しかし絵筆を持つそれはやはり骨張っていて、男らしさを感じた。

 彼が描くは故郷の景色。そのままの生命の熱を収めた、風景画だ。幼い頃から被写体はそれくらいしかなかった為、風景に関しては天下一品といえよう。

「ロラン!」

 その名に意味を持つのは、近い未来。愛しい声に呼ばれて、青年は振り返る。

「…アンドレ」

 先程の雰囲気とは嘘のように、顔が綻んだ。優しく、愛しく。最愛の女‐ヒト‐に声を掛ける。

 小走りに駆け寄る彼女は、アンドレ・ミッサといった。蜂蜜を掛けたような髪は嫋やかで、彼女の長いスカートと共にふわふわと揺れている。瞳は、さながら湖を照らしたような明るいブルー。少女らしい白く抜けた肌によく似合っていた。

「また、絵を描いていたの?」

 桜色の唇から紡がれるは、鈴を転がしたような吐息。音には、まだ幼さが残る。

「あぁ、俺は画家になりたいからね。でもまた母さんに怒られたよ。そんなものばっかり描いていないで、ちょっとは金になることしたらどうだって。確かに今は金にならないかもしれないけど、画家として認められれば莫大な金が入ってくる。そうなれば母さんだって楽にしてやれるし、アンドレとの結婚だって認めてくれるだろ?」

「そうね。私も父さんから色々と言われてるわ。結婚どころか交際だって…。でもね、私はロランのこと応援してるわよ? 絵の才能は私にはないけれど、素敵なものを素敵だと判断できる眼はあるわ。私はロランの絵、大好きよ」

 ロランはアンドレの問いに答えてやると、ぽつりと不平を漏らした。アンドレも同じことを考えていたらしく、秀麗な顔を少し翳らせる。しかしすぐに優しい笑みに直した。持ち前の明るさが、彼女の魅力の一つだ。

「ありがとう、アンドレ。小さい頃にアンドレが俺の絵を好きって言ってくれなかったら、画家になるなんていう素晴らしい夢を見つけられなかったと思う。この村でそんなこと言ってくれるのは、アンドレだけだよ」

 そう。幼い頃、あの葡萄畑の蔓の下で独り、絵を描いていた。蔓の間から見える景色を懸命に。カンバスは土で、絵筆は小石だったけれども。それは葡萄のような、甘酸っぱい思い出だ。

「そんなこと…。いずれフランス中に認められるわ。だって、ロランの描く風景は素晴らしいもの。どこまでも景色が拡がってるみたい」

 いずれフランス中に、その言葉はすぐに叶うことになる。

「風景画はカンバスに収められた一瞬だ。風は吹き続けているし、雲は流れ続ける。生きている世界をそのまま生きて描くことは難しいけど、自ら世界を殺して描こうとは思ってないから、そう、感じてくれるのかもしれない」

「え…?」

「あ、ごめん。ちょっと自分の世界に浸りすぎたかな。はははっ」

 言ってロランは、照れくさそうに笑みを零した。それでもいつだって、彼の眼はカンバスを穿つ。それ程自分の持つ世界に一心不乱なのだ。

「ふふっ。…私には難しいことは分からないけれど、美味しい葡萄酒と柔らかいパンを持ってくることはできるわ。よかったら、一緒に食べない?」

 見ると、太陽は真上より少し奥に傾いている。正午を疾うに過ぎていることを表していた。

「もうそんな時間だったか。助かるよ、アンドレ」

 一度気が付いてしまうと不思議なもので、胃が一気に縮小した。そこに麦のいい香りが飛び込んできたものだから尚更だ。アンドレが白いクロスを剥ぎ取ると、中からよく膨らんだパンが顔を出す。次いでコルクで簡素に締められた、液体の入った深緑の瓶が覗かれた。

 古来よりコルクの用途はあまり変わっておらず、彼らも同じように使っていた。入っている液体は、ミッサ家が持っている葡萄畑で作られた果実酒である。とはいってもそれ程高価なものではなく、質の悪い葡萄で作られた田舎の家庭の娯楽用だった。

「食事を終えたら、今日も街に出て絵を売ってくるよ」

 パンをちぎりながら、ロランが言う。ロランは市街に出て絵を並べるのが日課になっていた。

「行ってらっしゃい。今日は売れるといいわね。私はこれから父さんの葡萄畑のお手入れに行かなくちゃ。帰ってきたら、街で見た面白い話を聞かせてね」

 心底祈るように、アンドレが答えた。彼女はこれからまた仕事だ。父の管理する葡萄畑を家族と共に育てている。実るのはまだもう少し先だが、丁寧に育てないと質が落ちるのだ。

 アンドレは、この田舎から出たことはなかった。この景色に包まれながら、すくすくと人生を歩んできたのだ。だから彼女にとっては、彼は自慢であり誇りそのものであった。自分の知らない市街に単身で出かけ自ら夢を追って実行していることは、とても頼もしく思える。だからこそ、この絵描きを心から愛しているのだ。もちろん理由はそれだけではないけれど。

「あぁ、行ってくる。アンドレに土産話を持ってくることが今の唯一の楽しみさ」

「ちゃんと売らなきゃだめよ?」

 眉を軽く吊り上げているが、怒っているという素振りではないようだ。それすらもあどけなく可愛く映るのだから、将来の画家はいい彼女を持っている。

「分かってるって! …よし!」

 ロランは彼女の思っていることを理解して応えた。絵描きは残っていた大きめのパンの欠片を頬張ると、手際よく準備する。毎日行っていることなので、もう体の方が覚えているようだ。

「もう行っちゃうの?」

「あぁ。そんな寂しそうな顔するなよ! アンドレを置いて長いこといなくなったりはしないから。すぐ戻るよ」

 愛しい彼女の問い掛けに、優しく返した。寂しさで潤む瞳をいつも見るのはロランだって辛い。だけれども自身の夢の為に、行かねばならぬ時があるのだ。大それた時間という訳ではないが。

「待ってるわ、ロラン。愛してる」

「俺も愛してるよ。行ってくるね、アンドレ」

 言って、二人はころころと笑いあった。

 ロランがアンドレと別れて乗り込んだのは、いつもの馬車だ。それは、荷物や人を運ぶ市街行きの多人数用だった。所々にガタが来ていて、毎度のことながら市街まで持つのかすら怪しい。しかしそれなりに頑丈のようで、ロランをいつも街まで送り届けてくれていた。

 だけれどもやはり、貧乏人や物が乗るのだから粗悪なものだ。道が今のように舗装されていないこともあるだろうが、馬車引きは乱暴に鞭を振り、馬の制御もろくにできていない。馬車が揺れるたびに荷があちこち移動するので、他のそれより軽いロランのカンバス達はロラン自身で抱えていなければならなかった。一つでも売れれば少しは楽になるだろうか、とぼんやり考えながら、青年は自らの夢に思いを馳せていた。

 しばらく揺られていると、石畳に入ったのが感じ取れた。市街に入ったのだ。ロランは例を言って馬車を降りた。あのような乱雑な運転でも、自分を運んでくれたのには変わりない。田舎からここまで歩けと言われた日には、堪ったものじゃないのを知っているからだ。

 やっとの思いで辿り着いたロランは、一つの違和を感じた。遠くで聞こえる鐘の音や、靴の音は変わらない。いや、靴の音といえば靴の音なのだ。今日に至ってはどうしてか、街往く人々が少なく感じた。いや違う、人は少ないのだ。ロランは一瞬、降りる場所を間違えたと思った。だがそうではない。聞こえる鐘の音は確かにこの場所を表しているし、街並みはやはり見知ったそれだ。しかしその違和は大きくは感じず、ただ単に人口が少ないだけだと考えた。例えばどこかで何か開催されているとか、祭りが他所の街であるとか。そう、ただ単純な、簡単な理由。人っ子一人いないなら流石にこの青年も訝るが、特に気に留める程の人の数ではない。

 そう思い絵描きは、いつもの路地に腰を下ろそうとした。なのでいつもの道順を辿る為に、先に大通りを通る。こちらもやはり賑わいが少ないが、彼と同じように自らの夢を追い求めて魂を売る者はいた。しかし、しかしだ。その並びの中に、一人分のスペースが空いていることを発見した。

「あれ…? ここ、空いてる…」

 ロランは辺りを見渡してみた。この大通りなら朝から一杯で、自分なんかが座れるところじゃない。一度早い時間に行ってみたことはあるのだが、いつ来たのかというくらい埋まっていて、とてもじゃないが付け入る隙などなかった。

 しばらくそんなことを考えていても、特に人が来る訳ではなさそうだ。もう一度見回してみても、絵描きやその他の芸術家が現れる気配すらない。

『そうか、これはチャンスだ…!』

ロランは心の中でそう呟くと、逸る気持ちを抑えて麻の敷物を拡げた。きっと神がチャンスをくれたのだ、と信じ、一つ一つ丁寧にカンバスを置いていく。知ってか知らずか、その心はじきに叶うことになる。

街往く波は、小さく混じっていく。こちらに並べたところで、新参者のロランは特に変わりはないかもしれない。買い手は、自分の好きな芸術家の作品を見ていくのだ。初めて座ったロランには、まだファンが付いていない。だがそうなら青年は少し失敗したと思った。どこかで祭りがあるなら、そちらへ行った方が宣伝できたかもしれない。そう思っても、この氏がない絵描きにはどこで祭りが開催されているかを知る由も、知ったところでそこに行く余裕もなかった。仕方がないのでここで客を待つ。

ふと空を見上げると、自分の故郷と同じ空が拡がっていた。空は好きだ。全ての物事を忘れさせてくれるような、ひたすら青い空。この青年は、空に魅入られていた。流れる雲を見ていれば、時間だってあっという間に過ぎる。美しい景色を収めるために、絵描きは干からびた茶紙と、小さい黒鉛を抱えた。

だから、近付く馬車車の音に気付かなかったのだろう。いつでも自らのやりたいことに、真摯なのだ。

 手に入れた真白い紙は、一瞬空なんかより魅力的に感じた。皆と同じように流れる時間。何の変哲もない紙。いや、絵描きが見れば、このような小さな紙片でもカンバスにすることだろう。しかし今はしてはいけない。書かれた数字は落書きではなく、実際に存在する数字なのだ。上から塗り潰すことは、決してできない。

 この新しく誕生した画家の頭には、先程の男爵が放った言葉が巡っていた。

『おめでとう、ロラン。これで、君も画家の端くれだ』

 画家。そう、自分は画家になったのだ。己の絵を、正式に売買したのだ。一つ空いた絵の隙間を見ながら、ようやっと実感が湧いてきた。初めて、抱える絵の数が減っている。それはやはり嬉しさか、それとも安心したのか。ロランの顔に、笑いが自然と生まれた。

「画家…、画家だ! 俺は、画家になれたんだ!」

 多少乾いてはいるが、明るい笑いだ。込み上がる感情を、反芻しながら噛み締める。そこで青年は愛しい者の存在に気付いた。

「あ、アンドレに報告しなきゃ!! きっと吃驚するぞ。驚く顔が楽しみだ!」

 言って画家は、早く帰り支度を進めた。一枚、絵が売れただけで、どうしてそんなに急いて帰ろうとするのか。そう思う者も少なくないだろう。それでも初めてのことで嬉しくて、早く愛する人に言いたくて、ロランはカンバス達をしまう。長年の仲間が一ついなくなってしまって、周りの絵達は心なしか寂しそうにも見える。が、きっとそれはロラン自身が思っていることだろう。売りに出してはいるものの、丹精を込めているので我が子のようなものなのだ。

「…よし、と」

 最後に麻の布を巻いて抱えると、人にぶつからないように急いで駆けていった。向かうは、帰りの馬車の元だ。

「ちょっと…! すいません! そこの馬車、待ってください!」

 息を上げながらそう叫ぶと、馬車引きは意外な顔をして青年を見た。それもそうだろう。先程顔を合わせたばかりなのだ。

「兄ちゃん、絵描きのかい? さっき下ろしたばかりじゃないか。忘れ物でもしたのかい?」

「い、いえ。急に帰りの用ができたので…。乗せてもらっても?」

「あぁ、いいぜ」

 馬車は丁度、地方からの荷を配り終えたところらしかった。体は屈強で大きくても、気さくで陽気な馬車引きだ。運転の乱暴ささえ何とかしてくれれば、更に言うことなしなのだが。

「よかった…。じゃあ、お願いします」

 ロランは賃金を渡して乗り込む。まだ真昼のことなので、中には人が少ない。逆に、田舎行きの荷が多かった。ロランはいつも夕刻に帰宅するのでそれしか知らなかったが、人が溢れんばかりいるのでいつカンバスが人の圧力で壊れるか冷や冷やしていたものだ。それに比べれば多少寂しくは見えるがこちらの方が幾分かましだろう。だけれども毎回この時間に帰る訳にもいかないので、きっと次からはまたあの馬車に乗り込むのだろう。そう考えると憂鬱だが、それより何より、今はそのようなことを気にしている余裕はなかった。

 ガコガコと揺れる馬車の中で小さな紙切れを必死に握り締めて、故郷に帰る。最愛のアンドレを考えるととても楽しくて、乗車時間なんてすぐに過ぎた。

 やがて慣れ親しんだ草の匂いが近付いてくると、ロランの心が躍る。帰ってきたのだ。アンドレは、早く帰ってきた自分にどんな顔を向けるだろうか。これを見せたとき、一体どんなに嬉しがってくれるだろうか。そう考えていると、馬車が止まり幕が開いた。

 開いた瞬間に飛び出していったものだから、馬車引きは乗せる前よりも更に眼を丸くしてロランを見送る。

「すみません! 急いでるので!」

 軽い謝りを入れるが、頭はもう馬車引きには向いていない。若草に覆われた小高い丘を駆け上がると、瑞々しい葡萄畑が見えた。その中で一際神々しく、新緑を摘む者がいる。

「アンドレ!」

 蜂蜜色の髪をたなびきながら、それは振り返った。

「ロラン! 市街から帰ってきたの? 今日は早いのね?」

 草の入った籠を抱えながらアンドレが優しく聞いた。ロランはずっと言いたかったことを口にする。

「あぁ、画家のロランが帰ってきたぞ!」

「画家のロラン…? まさか…!?」

 アンドレはそれを聞いて息を呑む。思ってもみなかった単語。いつか聞けると思っていた画家という立ち位置。

「あぁ、俺の絵が売れたんだ! 見てくれよ!」

 言ってロランは、大事に大事に握り締めていた白い紙を差し出す。見たこともない綺麗な紙だが、アンドレは自然とそれが何か分かった。小さなそれは、数字の書かれた小切手。並んだ数は、彼女にとって指を添え数えていかないと額の大きさが分からない程だ。

「まぁ、こんなに…! 今日はお祝いね! ワインを開けましょう! いつも持ってきてる葡萄酒よりもっといいものを!」

 やっと数え終えたアンドレから、嬉しい言葉が漏れる。少し顔が紅潮しているところを見ると、興奮しているようだ。大きな眼を更に円くして喜びを表す。

「ありがとう、アンドレ。それもこれもみんな、君が応援してくれたからさ」

「そんなことないわ。ロランが頑張ったからよ。そういえばどちらの方が買ってくださったの?」

 柔らかく首を振ってアンドレが否定した。次いだ言葉を聞いて、ロランは一旦我に返る。

「あっ、しまった…。お名前をいただくのを忘れてしまった」

 あまりにも咄嗟の出来事だったので、そのことはすっかり頭から消えていた。自分の恩人であるのに名前を知らないとは。

「ちょっと待って、これその方のお名前かしら?」

 すると小切手を見ていたアンドレが、不意に名前を口にする。

「ジュスタン・ド・ボーマルシェ…」

 見ると、達筆な字でそう書かれていた。持ち帰ることを必死としてきたので、今まで気付かなかったらしい。その麗しい貴族の名前は、聞き覚えがない。

いや、待て。どこかで…。

「…ボーマルシェ? もしかして、あ、あのパリ有数の資産家貴族の!? そんな人が俺に…! 嘘だろ…?」

 ジュスタン・ド・ボーマルシェ。一代にして、貴族でありながら資産家として成功を収めた人物。元は地方の貴族であったらしいが、パリにまで足を伸ばしてきたとのこと。この頃、貴族は腐るほどいるが、これ程名を馳せた者はごく一部しかいなかった。顔は初めて見たが、中々どうして整っているとは思っていた。良い家の出なら、なるほど合点が行く。

その貴族の爵位は侯爵‐マーキス‐。ロランなど足元にも及ばない、むしろ考えたことすらないだろう。自分がそのような人に眼に掛けてもらえるなんて。

「よかったじゃない、ロラン!」

「あぁ! こんなに嬉しい日はない!」

 ともすれば震える心を落ち着かせようと、アンドレを抱き締める。持っていた籠が、草を撒きながら跳ね落ちた。

「きゃっ!? どうしたのよ、ロラン?」

「いや、ごめん…。なんか、嬉しくて…」

 アンドレは、そんなロランの背中を優しく撫でた。互いの胸の中は、温かくてほっとする。

「これからよ、ロラン。貴方は今、画家になったばかりなんだから。うまくいけば、お屋敷付きにもなれるんじゃない?」

「…そうかもしれない! ありがとう、アンドレ。俺は、母さんにこのことを伝えてくるよ」

「分かったわ、ロラン。今晩はお祝いするからね!」

「あぁ! 嬉しいよ!」

 サクサクと小走りに草原を駆ける。名残惜しいのか、しばらく後ろを気にする素振りを見せていた。景色は、何事もなかったかのように微量な風が凪ぐ。照る太陽は、これから少しずつ熱を増していくのだ。青年と共に、時が経過していく。もうすぐ、夏の季節だ。

 風が通り過ぎるのは、青年の元だけではない。街の誰にだって、それは頬を打つ。先程とは少し遡って、こちらは侯爵の屋敷。赤い絨毯の上を、磨かれた革靴が足早に去って行った。

 切れ長の黒い瞳は、端金で買った板切れを見つめている。荒い構造の裏側を掴んでいるので、手袋に木のささくれが刺さっていかんともしがたい。だが彼にとっては、裏ではなく、カンバスから広がっている世界が重要なのだ。画家は後ろを気にしていたようだが。

 限りなく空に近い、空色。この国にまだ、このような絵が描ける者がいようとは。敬意を込めて、ここに飾ろう。たくさんの絵画や陶器が列を成すこの屋敷で、意味のある物などなくなりつつあるこの場所で、まだ、どこかへ行ける絵を。

「パスカル、これを私の部屋に飾る。額を用意しろ」

「かしこまりました、旦那様」

 恭しく腰を折るは、老年の執事長、パスカル・クロー。主人より質の悪い手袋、とはいってもボーマルシェ侯家の執事長だけあって地方貴族がしている程の質だが、でカンバスを受け取る。何を言われようが言い付けを守り、何をされようが黙秘を貫く。執事の鑑である。

 モノクルの奥の眼を細めて、この空に見合った額を頭の中で探し始めた。

「整ったらロマを私の部屋へ。それを持たせて連れてこい」

「…かしこまりました」

 多少、声に硬さが乗った。主人が気に入っているとはいえ、やはり気分が良いとは思えない。ロマとは、近頃主人が買ってきたジプシーの名だ。パスカルやジュスタンの生まれた土地では、ジタンと称される。奴隷市場、というと聞こえが悪いが、実際そうなのだからどうということもない。自分が知らないところで、外出した主人がいつの間にかくっ付けてきていた。

 どこの生まれかは知らないが、肌は浅黒くそのような色は生まれてこの方見たこともない。主人と同じ黒髪なのはまだ眼を瞑るが、女の色香も全くない短髪には眼を剥いたものだ。そして一番の問題は、口が利けない。いや、利けないというわけではない。言葉が通じない、といった方が正しい。

 そのような者を由緒正しい屋敷に迎え入れるなど、快く思っている方が怪しいものだ。だからパスカルは、心の内でその名を呼ぶといつも苦虫を噛み潰していた。だが主が申し付けるのは仕方がないので、本日もフランス流に着飾らせた浅黒いジタンは屋敷の扉へと消える。



第二章  ‐本描き‐


「ロラン? ロラン!?」

遠くで、愛しい人の声がする。柔らかい音で全部包み込むような、優しい声。徐々に頭に血が巡る感覚を楽しみながら、次いで聞こえてきた鳥の声で今の時間を確認した。

「ん…、んん…。アンドレ…?」

「大丈夫? もうお昼よ、早く起きて?」

 眼を開けると、自分より少し上でアンドレが微笑んでいた。そうか、俺は寝ていたのか。思ったより時間は過ぎていたらしい。どうしたことだ、普段はそんな遅くまで寝ていないのに…。

「…俺は、どうしたんだ?」

「もう、覚えてないの? 昨日あんなに飲んだもんね。じゃあこれも覚えてない? 私のお父さんがロランとの交際…、ううん、結婚を認めてくれたこと」

覚えてない? そんなことはない。はにかみながら伝えてくる彼女は、とても抱き締めたいほどだった。

「そうだ…、俺、昨日俺の絵が売れて、嬉しくて…。やっと二人のこと認めてくれたんだったよな? アンドレ」

 笑みながらそう応えると、嬉しい言葉が返ってくる。

「そうよ、ロラン。私アンドレ・ミッサは、これからアンドレ・ヴァレリーになるの。画家の妻よ」

「アンドレ…」

 思わずベッドから起き上がり、アンドレの青い瞳を見つめる。愛しい顔は、どれだけ見ても飽きない。

「これからもよろしくな。式はいつにする?」

 するとアンドレは眼を少し円くした。

「もう気が早いんだから! でも私も、今からでもしたいくらいだわ」

 何気なく放った一言が、ロランの胸を甘く引っ掻いた。

「よし! 今からしよう!」

「えっ?」

「心配するな! 俺には金がある! 昨日までの一文無しのロラン・ヴァレリーとは違うんだ! 市街に行くぞ、アンドレ。準備しろ!」

 そういうことを気にしているのではないのだが…。しかし勢いよく跳ね起きたロランを止める術は、アンドレにはなかった。

「でも、そんな急に…」

「構うな構うな! 馬車を呼んでくる! それまでに用意をしていないと置いて行くぞ?」

「ロラン?!」

 ロランは急いで外に馬車を呼びに行ったようだ。バン、と音を立てて扉が閉められて、アンドレの声は遮られる。残されたアンドレは、仕様がない人、と思って軽く溜息を吐いた。

 初めて乗った馬車は少し腰を痛めたけれど、その間愛しい恋人が気を使ってくれたり楽しいお喋りをしてくれたりした。なのでアンドレの気持ちはそんなことお構いなしだった。何より、彼がいつも乗っている物に乗れたこと、その大変さを理解できたことが一番嬉しかったのだ。やがて街に入ると不安にはなったが、見たこともない景色と以前からロランに聞いていたことを照らし合わせながら辿っていくと、そういう思いも薄れていく。

 大勢の人の声、足音、遠くで聞こえる鐘の音。いずれ自分たちは、その場所で厳かに契りを交わす。そう信じてやまない。ロランと共に行けたのが嬉しくて、その手は一生離れないと思っていた。

馬車から降り立つと、人混みはいよいよ怖くなってくる。田舎から出てきて初めての場所。そう思うのも仕方ないだろう。一歩を踏み出すのも勇気がいる程だ。だけれどもロランはそんな自分を構うことなく軽やかに進んでいった。

「アンドレ、市街は初めてだろ? 俺も初めてきたときは驚いた! でかい建物が所狭しと並んでるんだもんな!」

「ちょっと、ロラン…! 待ってよ、どこに行くの?!」

 どうしてそんなに簡単に人の波に入っていけるのか。私を置いて行かないで。馬車の中でどうしてくれたのかすぐ忘れて、自分を大事にしていないと思い上がる。

「どこって、教会に決まってるだろ?! 式を挙げるんだから」

「ほんとに今から挙げるの? 無謀にもほどがあるわよ!」

 ロランがどこか遠い人のように感じて、未熟な自分と共にいることを願う。

「そうかい?」

「そうよ! 私だって今日の仕事があるし、だいたいドレスだって…」

「なぁんだ、そういうことか! じゃあまずこっちだな!」

 やっと向いてくれたと思ったのに。踵を返すロランに叫びを投げかけたが、特に意味はなかった。

「えっ? ちょっ、ロラン! ロランってば!」

「それならそうと早く言ってくれないと。確かこっちの方にそういう店が…。あった! これ、アンドレに似合うかと思ってたんだ! いつも絵を売りに来るときに前を通る店でさ、いつかこれを着てもらいたかったんだよね!」

 独りでに何か話してると思ったら、ガラス張りの高級そうな店の前で立ち止まった。その頃にはアンドレに、不安からくる怒りが込み上がっていた。人の気も知らないで、勝手に行動するんだから。

「ロラン!? いい加減にしてよ!」

「アンドレ! ドレスならこれを着たらいい!」

 純白の、レースと花があしらわれたウェディングドレス。それは少なくともアンドレの心を揺さぶったが、今はそんなことよりロランが欲しい。

「はぁ? …そんな立派なもの、私には不釣り合いよ! それにお金だって」

「金ならあるって言っただろ? 着てほしいんだ。もっともっときれいになるところを見たいから」

 アンドレの言葉を遮って、ロランが語った。やはりその言葉の方が、アンドレの心に響く。

「もう…着るだけよ? 着たら帰るからね?」

「え、…気に入らなかった? ごめん。…この店で一番高いやつをもらおうか!?」

「ロラン!」

 そういうことではない。嬉しかった言葉は、そちらではない。聞きつけた店員らしき人が寄ってきたので、何となく気恥ずかしくなって店を後にした。

「あぁ、いえ! いいんです! すみません、帰ります! 行くわよ!」

「アンドレ? 何怒ってるんだよ? 他の店の方が良かった? ねぇ、ちょっと待ってよ!」

 少し勢いのなくなった声が後からかかる。しばらくすると、腕を強く掴まれた。

「離してっ! 私が待ってって言っても待ってくれなかったくせに!」

「そんなことで怒ってるの?」

「違うわよ! なんで分からないの? 私の止めるのもきかないで…、強引すぎるわ!」

「ごめん…。つい嬉しくなっちゃって。すぐにでもアンドレを自分のものにしたくて…」

 その瞬間、人混みは意味を失くした。二人の世界に、何物も無用だ。

「…。嬉しいのは分かるけど、私は〝物〟じゃないの。分かって?」

「あぁ、分かってる。悪かった。でも、教会には来てもらってもいいかな? 二人だけで、秘密の結婚式を挙げたい」

 真摯な瞳は、アンドレが昔から愛している人のものだ。何も変わりはない。きっと舞い上がってそうしてしまったのだということは、アンドレにも分かっていた。だから今のその気持ちにはしっかりと応えてやる。

「…分かったわ」

「ありがとう、アンドレ。愛してるよ」

「こちらこそありがとう、ロラン。愛してるわ」

「じゃあ行こう」

「うん」

 そう、その心が欲しかったのだ。互いに手と手を取って、共に歩んでいくことを夢見る。しかしすぐに歩みを止めたロランに、アンドレは訝った。

「……どうしたの? ロラン」

「あの馬車は…、ごめん! ちょっと待ってて!」

「ロラン?」

 駆け足に寄っていくのは、黒い馬車。金の縁取りで装飾されており、嫌味の少ない高貴さを醸し出している。やけに光沢があるのは、あれは漆だろうか。

「失礼ですが、ボーマルシェ侯爵様の馬車ですよね? 自分です、ロランです! 昨日絵を買っていただきました、ロラン・ヴァレリーです!」

扉の窓に付いているカーテンが開くと、昨日見た顔が覗いた。顔を見てロランは、胸を撫で下ろす。侯爵は突然のことながらも丁寧に馬車を止め、馬車引きに扉を開けさせた。元々ゆったりと走っていたので停めるのも他愛なかったらしく見える。

「ロランか…、奇遇だな。どうした?」

 開けられた扉から腰は動かさずに、画家に投げかける。それでも脅迫的な威圧はなく、それすらも恭しく思えた。

 しかしロランはというと身分の差を意識したからか、昨日より畏まってしまっている。口の中の水分が失われていくのが分かった。

「改めて、お礼を言いたくて…。本当にありがとうございました! これで恋人と一緒になれるんです!」

「そうか、それはおめでとう」

 眼を細めるのは、好意の現れだと思っている。睫毛の房の奥で、細められた黒真珠のようなガラス玉が光った。

「はい! それで…、おこがましくも馬車を停めて申してしまいました。申し訳ございません。ですが、本日もたまたま市街に出ておりまして、そこでお見かけしてしまったので見て見ぬふりはできず、思わず声をかけてしまいました」

「いや、堅実な心掛けだろう。私だけでなく、そういうことは多くの他の者にもするべきだな。私の認めた画家だけはある」

「そんな…、そこまでおっしゃられると、気恥ずかしいです」

 眼を泳がせながら、ロランは頭を掻く。心臓が、緊張とは他の感情でキュッと締まった。

「そうだ、ロラン・ヴァレリー。これから私は茶会に行くんだが、君の絵をそこで自慢しようかと考えているのだ。いいものはすぐにでも世間の目に映さなければね。共に参っていただいた方が自慢し甲斐があるというものだが、今からどうだ?」

「えっ?」

「嫌か?」

「いえ、嫌というわけでは…」

 その困りようを見ると、侯爵である自分より大事なものがあるらしい。青年の後ろに眼を遣ると、蜂蜜色の髪の毛を退屈そうに弄っている少女が見えた。成程、あれが画家の妻か。あのような田舎娘がこの私の申し出を断る原因だというのなら、少し虫の居所が悪くなる。

「まぁ、そちらにも都合はあるからな。私の認めた画家だから、きっと友人も気に入るかと思ったのだが」

 『友人』の単語を聞いて、ロランの瞳が揺れる。庶民の知り合いに貴族はいない。その逆も然りだ。それはその先の、甘い生き方を誘っているように感じた。

「…ちなみに、本日はどちらでお茶会を…?」

 聞いてしまった。聞いてしまったら戻れないのに。そのことは分かっていたはずなのに。しかしそういうことは気にも留めずに、眼の前の貴族は続ける。

「本日は私の親類である、シャレット伯家で行うことになっている」

「シャレット伯って…、マリユス・ド・シャレット伯様ですか…?」

「ああ、それがどうした?」

 若き青年は考えた。シャレット伯。ボーマルシェ侯爵よりかは爵位は劣るが、それでも自分に比べれは立派な家柄だ。資産家貴族のボーマルシェ家とはまた違い、こちらは王道の貴族一族を貫いている。

 ロランにとっては、又とないチャンス。これを逃したら今度はいつ相見えることだろう。その遠いだろう未来を考えるより、今目前に転がってきた好機を捕まえる方がいくらか現実的だった。

「いけない。そろそろ行かなければ。では、また会おう、ロラン・ヴァレリー」

 その突き放した言葉に、ロランは思わず反応する。焦りと期待からか、勢いよく返しが口を出た。

「っ! ま、待ってください! 俺も…、自分も同行させてください! お願いします!」

「…いいのか? あれは、君の恋人‐アムルーズ‐なのでは?」

「…あ」

 こいびと? そうだ自分は、後ろで愛しい人を待たせていたのだった。どうしたことだ、そんなことを忘れるなんて。後ろに駆け寄って、言わなければいけないことを伝える。

「…アンドレ! 悪いけど急用ができた! 先に帰っててくれないか?!」

「ええっ? 勝手に行動しないでよ! 教会は? 結婚式は?!」

 それはアンドレの頭では、聞くはずのなかった言葉だ。

「そんなのいつでも行けるじゃないか! 俺は今、人生をかけた仕事に行かなきゃならなくなったんだ。これが成功すれば君にも楽させてやれる! お願いだ、行かせてくれ」

 憤りを通り越して、悲しみさえ覚える。しかしその真剣な眼を見ると、どうしても止めることは出来なかった。今思えば、ここで止めておくべきだったのかもしれない。だが夢を追い求める姿勢は、アンドレが愛したそれだったのだ。

「…あの方が、ボーマルシェ侯爵様? しっかりした方ね。分かったわ、行ってらっしゃい」

「感謝する!」

 ロランは嬉しそうな笑顔を見せると、すぐに踵を返して馬車に近付いていった。アンドレには、見守ることしか出来ない。この出来事が、自分たちの将来を導いてくれると信じて。

 その後はとぼとぼと帰りの馬車を待つ為に、先程降り立った場所へと向かっていった。雑踏は邪魔で仕方なく、独りで歩くととても心細い。初夏に向かっているとはいえフランスは気温が低く、それも更にアンドレの心を冷たく吹き付けた。遠くで、鐘の音が聞こえる。去ることしか出来ない自分に、別れを告げているようだった。

「ロランの馬鹿…。散々連れ回しといて仕事だなんて。成功したいのは分かるけど、どっちが大事なのよ…」

 それをぽつりと零すのが、精一杯だった。

「侯爵様! 彼女には話をつけてきたので、共に参りましょう! お願いいたします!」

意識はもうこちらに向いている。青年はやはり若い。若すぎる故に、事の重大さをまだ理解していないように思えた。

「承知した。乗りなさい。セルジュ、出せ」

しかしそれを誰も咎めることなく、馬車は動き出す。滑るような乗り心地に、ロランは密かに感動した。街並みが、見知ったそれから屋敷の立ち並ぶ景色へと変化する。背筋が自然に強張り、伸びきっているのが分かった。

「よかったのか? 愛する者を残して」

すると不意に、ジュスタンから声が掛かる。少し声は固かったが、しかと答えた。

「彼女には自分の仕事を理解させてます。画家の妻になる女性ですから」

「…そうか。言わなかったが、本日は茶会という名の夜通しパーティになる。シャレット伯夫人がそういう嗜みを持っていてな。いいか?」

 聞いてロランは、よく考えて言葉を選んだ。

「夜通し、ですか? ええ、構いません。もっぱら絵を描くことが仕事なので、チーズ工場や葡萄畑などの管理はありませんよ。ご安心ください」

「…成程、仕事は絵描きということか」

 その応えの合間に、少し時間があったような気がした。僅かに訝ったが、きっとそれはその人それぞれが持つ間の範囲内だろうとロランは思う。

「はい。家の手伝いは多少していますが、今日明日くらいは大目に見てくれるでしょう。アンドレからも…、自分の彼女からも、説明はしてくれるでしょうし」

「……そうか」

 退屈そうに窓の外を見ながら言うその仕草は、何か失礼なことでもしただろうかと不安にさせる。車内が静かであるが故に、凍った空気が見える程。元々そこまで感情を出してくれているわけではないのと、顔見知り程度の知識ではそう思えるのも無理はないだろう。整い過ぎた顔立ちは、誰からの好意も受けられるわけではないのを、ロランはここで初めて知った。

しばらくして走っていた景色の速度が落ちてくると、一際大きな屋敷が見えてくる。二頭の馬が軽く嘶き、馬車引きから扉を開けられた。

「さあ、着いたぞ。ロラン、君は本日私付きの訪問者になる。失礼のないようにな」

「はい、承知いたしました。お供いたします」

 一歩足を踏み入れた先は、眼が落ちるかと思う程きらきらした世界だった。首が痛くなる程高い天井に付いた大きな照明。あれが落ちたら自分なんかガラスの破片で命はないだろう。その光を受けた人々の正装は所々反射していて、光を一つ一つ追うと落ち着かない。そのような中でのロランの格好は、とてもじゃないが相応しいとは言えなかった。アンドレと街に出かける理由もあって小綺麗にはしてきたのは幸いだったが、薄汚れたシャツに絵の具の付いたパンツなんて以ての外なのはロランにだって分かる。

それでも自分を連れて来た侯爵に付き従わないと置いて行かれるので、必死になって付いていく。他の貴族達の一瞥が痛い。

「マリユス、本日はお呼びいただき光栄に思う」

「これはこれは、ジュスタン。ご機嫌麗しゅう」

 会話などして立ち止まらないでくれ! と心の中で叫ぶが、それはもちろん届くはずもない。どうやら会話の相手は、主催者のマリユス・ド・シャレット伯らしかった。プラチナブロンドのさらさらとした髪を見ると、黒髪で癖毛のジュスタンと本当に親類であるのかさえ怪しく見える。しかし親しく話をする二人を見ると、心を許しあった仲であるのだろうと誰の眼にも明らかだった。

「ところでジュスタン、そちらは…?」

 遂に来た、と思った。だが不思議と軽蔑するようなな言い方ではなかった。

「私付きの絵描きだ。先日彼の絵を買ってな。それを話すのに、共に参っていただいた」

「あぁ、また連れて来たのか。どうも絵描きさん、彼はいつもこうなんですよ? 自分の気に入った絵描きや音楽家を自慢しに来るんです」

「…あ、え、そう、なんですか…」

いきなり気さくに話しかけられたものだから、どう返せばいいのか戸惑った。眼前に居る人はもう、どのくらいの立場の人なのか混乱する。

「そうだジュスタン。面白いものがあるんだ。ちょっと来てくれないか?」

「それは気になるな。ロラン、申し訳ないがここでしばらく待っていてくれないか?」

「は、はい、承知いたしました…」

 きっと自分が気にしている程、相手は気にも留めていないのだろう。気付けば額に脂汗が滲んでいた。侯爵に連れてきてもらった芸術家はこのような災難が降りかかるのかと、ロランは同情する。それでも侯爵がいなくなってしまうと人々の眼が更に痛くなったように感じた。ので、逃れる為と外の空気を吸う為に近くのバルコニーに移動する。

「はぁ…。田舎者の俺にはきらびやかな世界だ…。肩が凝るなぁ」

軽い溜息を長めに吐いて、肺一杯に空気を吸い込む。田舎の匂いとはまた違った匂いだ。石と人を感じる。高いところから見下ろすと、いかに自分がちっぽけか思い知らされるようだった。しかし今それが見えるところにいることを、ロランは実感する。石畳に座り込んでいたままでは、決して見えない世界。

 灰青の混じった鳶色の眼で、ロランはずっと外を見つめていた。

「ロラン、私の言いつけを破るとは何事だ」

「あぁ! これは侯爵様! …申し訳ありません」

 いつの間にか後ろの扉が開かれて、そこにジュスタンが立っている。侯爵が戻ってくるまで、とは思っていたのだが、それは疾うに過ぎていたらしかった。

「少し、外の空気が吸いたくて…。大変失礼いたしました」

 丁寧に頭を下げ、許しを請う。顔が動かない侯爵を図るのは、とても大変なことだ。

「そういう時は戸の近くにその屋敷の従者がいる。それに自分がどこに行くのか伝えておくべきだったな。君が今主人の私を困らせると、私の屋敷の付き人全員が蔑まれてしまうのでね」

 そういえば入ってくるときにそういう人がいた気がする。早足で進んでいくジュスタンの姿を追っていくので精一杯だったので、あまり眼に映っていなかったのだ。今一度バルコニーから中をちらと確認すると、来場者に腰を折る燕尾服の若い男が見えた。そうか、あの人に話しかければ良かったのか。

「そうでしたか…。何分田舎者ですので無知でございました。知らず知らずに大変失礼なことをしていたのですね」

「…理解してもらえれば十分だ。本日は許そう」

「ありがとうございます。ですが、やはり田舎者の自分にはこのような場所は中々疎くて…」

 特に気にも留めていないような口ぶりだったので、ロランは一先ず胸を撫で下ろした。それと、思っていたことを苦笑いしながら応える。不躾かとは思ったが、この侯爵は否定もせず続けた。

「そうだな。画家の君に茶会は少々筋違いというものか。花売りには花売りの、農夫には農夫の、画家には画家の本分があるというもの。そろそろ絵の方を披露でもしようかね。絶対に気に入ってくれるだろう。何しろ私が買ったのだから。そうすれば、画家の仕事だって多く舞い込んでくるだろうね」

「は、はい…! ありがとうございます!」

 侯爵の言っていることは、自分の夢そのものだった。その道筋で成功する未来しか見えない。侯爵の後押しがあってこそ、有名な画家になれると信じていた。

 何よりも、自分のことを画家だと認めてくれている。自分を画家だと言ってくれている。その心意気がとてもこそばゆくて嬉しかった。

「付いてきなさい。マリユス、会場に人を集めてくれ」

「ん? あぁ」

 バルコニーを後にして、ジュスタンはマリユスに声を掛ける。そしてもうひとつ先の扉へと向かった。それは今まで通ったものより一際大きく重厚で、真紅の色で装飾されていた。軋んだ音と共に開け放たれた先には、大勢の人。そこにマリユスの一声が発せられる。

「会場にお集まりの皆様! ジュスタン・ド・ボーマルシェ侯爵がお見えになられました。盛大な拍手を、これへ」

マリユスの声で、この広場にいる全員が振り向く。紳士も淑女もここぞと謂わんばかりに着飾って踊っていたが、その手を止めてまで割れんばかりの拍手を送ってくれた。いや、流石に自分にというわけではないだろう。それ程までこのジュスタンという男は、上流階級の皆に慕われているのだ。

ロランは未だかつてない拍手と歓声を、その身を削るかのように味わっていた。これからまだまだ受けることになるはずなのに、やはりいきなり注目を浴びると緊張はする。その拍手を侯爵は左手を挙げて制止をすると、言葉を紡いだ。

「盛大な出迎えをありがとう。本日は、皆に紹介したい者がいる。私の画家だ。名を、ロラン・ヴァレリーと申す」

 来た、と思いロランは背筋を正した。抱える絵に、力が籠る。とりあえず会釈をしようかと思い、思い切り頭を下げた。

「彼の描く風景画は素晴らしい。私が認めた画家だ。絵を披露しよう」

 言われてロランは侯爵を見た。向こうも眼をこちらに向けてくれている。それを促されていると取ったのか、ロランは己の絵に丁寧に巻かれた布を恐る恐る剥いだ。

 見えるは、侯爵と初めて会ったときに買ってくれた絵。絵画というのもおこがましい程のカンバスに収められた、故郷の景色だ。それが見えるとロランの心は少し穏やかになったが、不安に変わりはない。それでも、魂は人一倍込めている。どの素晴らしい画家にだって、負ける気はしていなかった。

 所々から感嘆の声が上がってくる。最初まばらだった拍手は次第に大きくなり、改めて画家になった自分を祝福してくれているようだった。とても誇らしく嬉しく、泣きたい気分だ。自然とにやつく顔を叱咤しながら我慢させる。

「もうこれくらいで十分だろう。私の後ろ盾があれば、このくらいの客はすぐに取れる」

「あ…、はい!」

 侯爵のその言葉は、大変に心強かった。もう一度カンバスを布にしまうと、会釈を繰り返す。その後は侯爵に付いて回り、たくさんの人に挨拶をした。しかしここで直接仕事の話をもらえるわけではない。ロランは少し不服に思ったが、確かにここで直接やり取りをするというのは場を弁えるべきだろう。自分には侯爵もいることだし、焦る必要は必ずしもない。

 やがて夜も随分更けた頃、若いロランでも疲れが見え始めたので侯爵に断ってバルコニーに出た。ガラス越しに、楽団が奏でる音楽が聞こえる。もちろんだが昼間とは打って変わって、夜は暗くて何も見えない。こんな時間まで市街にいることは初めてなので、夜になると印象が変わることを今知った。故郷はどの辺りだろうか。暗くなると街も田舎も何も変わらない。全て闇に包まれるだけだ。

「君、気に障ったかね?」

「侯爵様!? …いえ、少し疲れただけです」

 手にシャンパングラスを持ちながら、侯爵が現れる。

「そうか。私も本来は人が多いのは苦手でね。しかし付き合いだから無下にすることも出来ない」

 言って、グラスを煽る。液体を動かしたからか、微かに芳醇な香りが漂ってきた。こういっては何だが、アンドレの葡萄畑で取れる果実酒よりずっと香りがいい。それは少し、ロランの鼻を擽った。

「そうだロラン、君市街でお仕事をする気はないか?」

「えっ? 市街で、ですか…?」

 突然の申し出に、ロランは耳を疑った。

「そうだ。仕事の依頼を受けるのに、遠い故郷‐くに‐にいては何かと不便だろう? 私が口添えしてやってもいい」

「それは…! 願ってもないお言葉です! 是非お願いしたいです! あ、でも…」

その期待の籠る質問に、ロランは言い淀む。気がかりことは確かにあった。

「何か困りごとでも? 大方、恋人や家族のことかね?」

「はい。よく、お分かりで。自分の父は、自分が幼い頃に亡くなっていて、母がここまで育ててくれました。その母は足が悪く、あまり自由には歩けません。足が悪いなりに、機織りの仕事が唯一できることです。さすがにそんな母を一人残していく訳には…」

 自分が幼い頃から女手一つで育ててくれた母。対して気にも留めていなかったが、愛していないわけではない。自分が離れるという実感が湧くと、ありがたみが分かってくるものだ。

「そんなこと。それは君が、ここから故郷へと仕事で得た金を送ってやればよいではないか。これから君は画家として安泰を辿るだろうし、一人や二人扶養者が増えたところで問題はないだろう。故郷の母も、息子が街で仕事をして活躍していることを誇りに持てる。ヴァレリー家のご夫人には、仕事を辞めて君の金で楽に生活すればいい。大変すばらしい親孝行だと思わんかね?」

「…そうか、そうですよね! そんなことも気づかなかったなんて! すばらしい考えです! 自分なんかとは全く違う!」

そうだ。実際自分はすでにいくらか貰っているわけだし、この調子でいけば何ら問題などない。そう言おう。きっと納得してくれる。

「そうだろう? 何も問題ない。君は何のしがらみもなく画家として成功できる」

自分を否定しない味方は、とても心地よかった。肯定して力になってくれる。

「ありがとうございます! あ、それと、わがままで申し訳ないのですが、もう一つお願いが………」

 絶対に協力してくれる。自分を居心地のいい環境で閉じ込めてくれる。ロランは安心して、依存していった。



     第三章 ‐色塗り‐


「え? ロラン、まだ帰ってないんですか? …どうしたんだろう?」

 朝。アンドレはロランの家に行ってみたが、未だ帰っていないらしい。彼の母親も心配しているようだ。昨日アンドレを置いてどこか、基ロランが言うには仕事らしいが、へ行ってしまったのだ。この時代すぐに連絡を取り合う手段はないと言っても過言ではない。なので安否はいつも遅れてくる。

「てっきり、そちらのお家へ行ったのだとばかり…」

「いえ、そういうわけでは…。玄関先にまで足をお運びいただいて、ありがとうございます」

 ロランの母はそう思ったらしいが、違う。それでも昨日の出来事を一部始終を言うとロランが怒られるので、黙っておいた。

ここに居ても仕様がない。とアンドレが諦めて帰ろうとしたとき、不意に後ろで馬の嘶きが聞こえる。馬車の扉が開く音と、愛しい人の声が飛び込んできた。

「ありがとうございました、セルジュさん! ボーマルシェ侯爵様によろしくお伝えください!」

「ロラン!」

「…アンドレ? 家の前でどうしたんだ、母さんも。足が悪いんだから座ってなよ」

 驚いて振り向くアンドレをあざ笑うかのように、ロランはとても気分が良いように見える。それらしく母親を心配するロランは、この状況を特に気に留めるでもなく会話を続けた。

「今までどこ行ってたのよ?!」

「どこって…、アンドレ、仕事だって言っただろ?」

 心配して叫ぶアンドレを尻目に、ロランは眉を顰めながら飄々と答える。

「朝帰りなんて聞いてないわ! 心配したんだから!」

「俺の仕事の話にアンドレは関係ないだろ? そんなことより、母さん、アンドレ、俺、市街で暮らすことになりそうなんだ! 昨日ボーマルシェ侯爵様に連れていかれたところ、どこだと思う? なんとあのシャレット伯家! そこで俺の絵が高評価でさ! 仕事の依頼がいくつか届きそうなんだよ! それでここから絵を届けるよりかは、市街に住んだ方がいいって侯爵がおっしゃってくれて、」

 折角本当のことを黙っていたのに、これでは台無しではないか。いや、今そんなことを気にしている場合ではない。

「何よ、その言い方…」

「え?」

「関係ないって何よ! もう知らない!」

 身を案じていたのに関係ない呼ばわりをされるなんて。怒りに任せてどこかへ駆け出す。顔が見たくないからなので、行きつく場所はどこへでも良かった。

「俺の話を中断してまで怒ることか? …ちょっと、おい! アンドレ?」

 理解が追い付かないロランは、それでも愛する人の背中を追う。草を駆ける音がこんなにうるさいなんて知らなかった。

「おい、待てって! どうしたんだよ?」

「人の気も知らないで…! どれだけ悲しかったと思ってるの?!」

 女より男の方が体力がある分、ロランはアンドレにすぐに追いつく。腕を掴んで、走るアンドレを無理やり引き留めた。息を切らしながら訴えるアンドレを見ると、ようやく申し訳なくなる。

「それは悪いと思ってるよ…。だけど俺の絵が売れれば、アンドレだって生活が楽になるだろ? 俺は二人でずっと幸せでいたいんだよ」

「私は、確かに絵のことは何も分からないわ…。絵の具の名前だって、どうして絵筆があんなにたくさんあるのかだって…。でも、貴方のことは分かる。心配なの。没頭しすぎて体を壊すんじゃないかって」

深呼吸したからか、少し落ち着いてきたようだ。ロランの仕事は分からないけれど、体のことは分かる。もう一人の物ではないのだから。

「アンドレ…」

「私だって、ロランと幸せになりたいわ。愛してるから。優しくて、楽しくて、だからロランとずっと一緒にいたいの」

潤んだ瞳をロランに向ける。それでも必死に涙を零すのは我慢しているようだった。アンドレも本当は分かっているのだ。二人の将来の為には、仕事に呼ばれるのも必要なこと。我儘を言うのは違うということ。そうだ、仕事をしていない人がどこにいる。

しかしいつまでも優しい二人の世界に閉じ籠っていたくて、ロランがどこか遠くへ行かないように引き留めたくなる。それでは駄目なのに。

「アンドレも同じことを思ってたんだね…。俺も同じさ。だから、ボーマルシェ侯爵様に市街で暮らさないかと言われたときに、アンドレと共に住める部屋が欲しいと言った。俺が絵を描いて、隣でアンドレが微笑んで。それが俺の幸せなんだ。一緒に暮らしてくれないか?」

「ロラン…」

 その言葉を聞けて嬉しかった。ロランも同じだと言う。自分と同じだと。世界を共有したいという意味だと、アンドレは思った。二人の為に、それぞれの為に、動いてくれていたのだ。

「分かったわ。そこまで私のことを考えてくれてたなんて…、ありがとう」

「アンドレ。また改めて、よろしくね」

「…うん」

 そこで今日初めて、お互いに微笑みあった。それは、安堵と幸せだ。やはり二人のままでいた方が、心が充実する。

「でも昨日は、ごめん。勝手に行動しちゃって…」

「ううん、いいの。大事な仕事だったんだものね?」

 ようやっと理解したアンドレが、ロランを否定する。その気持ちは嬉しいけれど、無理ばかり言ってはいられない。ロランもそれを感じ取ったのか、アンドレの想いに答えてやった。

「そうなんだ。俺の仕事のこと、分かってくれて嬉しいよ。でも昨日連れ回しちゃって迷惑かけたし、結婚式だって…」

「もう、そんなこと気にしてたの? そりゃあ私だって悲しいし寂しかったけど、ロランが無事に帰ってきたことが一番よ」

「ごめんね」

 明るく笑うアンドレを見ると、やはり心臓が痛む。悪いことをしたという認識はあるので、謝っても謝り切れない。すると今度は、アンドレの方がロランの気持ちを汲んでやった。

「……。そう思うなら、ここで誓って? 私と貴方が一生添い遂げる誓いを」

 それは本来、昨日教会で行おうとしていたものだ。秘密の誓いを交わす、昨日の約束。しかしロランは焦った。行為ではなく、場所を考えて。

「こんなところでいいのかい? もっと美しい教会で誓いたくはない?」

「ううん。私はここがいい。ロランがいつも描いている、この故郷に囲まれながらがいいの。だって街に出ちゃったらあまり見れなくなっちゃうでしょう? 美しい教会もいいけど、ここもすごく美しいところよ? それに、教会は本番まで取っておきたいわ」

 それでもその焦りは、軽く流されてしまった。自分より彼女の方が、一枚上手だ。それで納得させてしまうのだから。

「それもそうか。分かったよ、アンドレ」

ロランは眼を閉じて、荘厳な雰囲気を醸し出す。例え真似事でも、真剣に神に誓うつもりだ。さらさらと風が渡る音が、先程とは打って変わって心地よかった。

「俺、ロラン・ヴァレリーはアンドレ・ミッサと共に、病めるときも健やかなるときも一生添い遂げることを、ここに誓う」

 これでアンドレが誓ってくれなかったらどうしよう、と思う程静かだった。心臓が早く鳴っている。口を開く音を聞いたときは、何とも泣きそうになってしまった。

「私アンドレ・ミッサはロラン・ヴァレリーと共に、病めるときも健やかなるときも一生添い遂げることを、ここに誓うわ」

「アンドレ…」

 瞼を開けて愛しい人を見つめる。顔をほんのり赤く染めている彼女は、とても可愛かった。

「ふふっ、なんだか照れるわね。小さい頃は何度も言い合っていたのに」

 恥ずかしくなったのか、アンドレが視線を外して照れ笑う。ロランも同じ気持ちだった。だがしっかりと誓った分、心は確固たるものとなっている。

「俺もだ。なんでだろうね? きっと、小さい頃より気持ちが大きくなってきたからかな。俺は、アンドレを幸せにしたい。それが今はできる。こんなに嬉しいことはないよ」

「私もよ、ロラン。一緒に幸せになりましょう? 私はここを出ちゃったら…、葡萄畑を手放しちゃったら、そんなにお金は稼げないけど…」

今まで実家の葡萄畑で生計を立てて来たので、収入源がない生活は少し不安に思う。ロランがそんな自分の代わりに働いてくれるなんて、悪いと思った。

「君はそんな心配しなくていいんだよ! さっき言っただろ? 俺が画家として絵を描いて、君が隣で微笑んで。それだけで俺は幸せなんだ」

 しかし、そんなアンドレの案じをよそにロランは毅然と語った。自分が成功すると信じて止まない。そういうロランを見ると、本当にこの通りになると思った。

「ありがとう。でも私も何かロランの役に立ちたいわ。今から頑張ってお料理をたくさん覚えなきゃ」

「ありがとう! アンドレの料理、今から楽しみだなぁ!」

「あ、あんまり期待しないでね?」

 勢いで言ってしまった分、後に引けなくなってしまった。母の手伝いはいつもしているが、好きな人に食べさせると思うとなると気恥ずかしくなる。この人は美味しいと言ってくれるだろうか。それを考えるとすぐにでも練習をしたくなってしまった。街に出るまでに母に料理を教えてくれるようにお願いしなければいけない。その為には一度家に帰らなければ。

そんなときに状況の一部を思い出す。飛び出してしまった私を追いかける為に、ロランも飛び出してきたのだ。これでは彼の家族が心配しているだろう。

「いけないわ! あんまりここに長居するとロランのお義母さん、心配してると思うの。早く戻ってあげて? 私は今日もブドウ畑に行かなきゃいけないから、ここでお別れだけど…」

「…分かったよ。必ず結婚しようね?」

「…うん」

 少し口惜しそうに、二人は別れる。ここが初めて、二人が真剣に誓い合った場所。思い出の場所になるはずだ。幼い頃とは勝手が違う。けれども、今の方が断然幸せだった。

 二人の出会いは、幼少期まで遡る。瑞々しい葡萄畑が生い茂る、春のことだった。翠の葉の間からの木洩れ日が一人の少年を照らしている。少年といっても年若く、まだ子供といった方が合っているだろうか。その子供こそ、幼き日のロラン・ヴァレリーである。

 ロランは一人小さく蹲っていた。体調が悪いわけではない。その証拠に、彼は地面と空を交互に見つめている。手には小さな石の破片。幼い頃に誰もが一度はやったことがあるだろう。地面をカンバスに、石を絵筆に見立てての落描きだ。この葡萄畑はよく手入れされていて、雑草一つ生えていない。土も柔らかいので、ロランの遊びには持って来いだった。

「誰‐だぁれ‐?」

「っ!?」

 不意に掛かった声で、ロランの肩が跳ねる。後ろを振り向くと、自分と同じくらいの少女が立っていた。今に比べると短いが、ふわふわしたハニーカラーの髪。同色の長い睫毛から覗く大きな湖面色の瞳は、面影をきちんと残したままだ。少女の名前はアンドレ・ミッサ。のちに、この少年と結ばれる運命である。きっとそのときからだろう。ロランが恋に落ちたのは。

 特に悪意が感じられないその双眸は、じっと自分を見つめている。しばらくしてようやく先程の問いに答えないと失礼だと思ったのか、ロランは口を開いた。

「ロ…ロラン。ロラン・ヴァレリー…」

「ロラン! 私はアンドレっていうの!」

 名前を聞いて、アンドレと名乗った少女は顔に花を咲かせた。ロランとアンドレの住まいは少し離れていて、子供の足ではけっこうかかる。なので、アンドレは同年代の子供の姿を見たことがなかったのだろう。ロランも然りだ。カンバスを求めて歩き回っている内に、どうやら出会ってしまったらしい。

「アン…ドレ?」

「うん、アンドレ。ミッサ。ロランは、何をしているの?」

 手元の薄汚れた石を見て、アンドレは純粋に疑問に思う。普段から行っていないことは、分からないのだ。

「別に…、君にはどうでもいいだろ?」

「何で? 私はロランのこと、たくさん知りたいわ」

 にこりと笑う少女には、ロランは勝てなかった。

「う…。絵を、描いていたんだ。母さんにはいつも怒られるけど、絵、描くの好きだから」

「絵? どこにあるの?! 見せて?!」

 眼を輝かせて期待される反応は、ロランにとって初めてだった。少し戸惑いながらも、足元に拡げた世界を示す。アンドレはその絵を、食い入るように見た。

「わぁ! これはあの葉っぱね! これはあっちの! ここの模様まで描いてある!」

 次々と描いたところを言い当てられ、ロランは内心驚いた。彼女は、眼がとても良いのだろう。

「まるで本物みたい!」

 それでもその言葉を聞くと、そのようなことは吹っ飛ぶくらいだった。

「そ、そうかな…? そんなことないと思うけど…」

 照れ隠しの為に強がってはみたものの、やはり嬉しい。

「あるわよ! とってもすてき! ロランは、大きくなったら絵を描く人になるの?」

「え…どうだろ? なれる、かなぁ?」

 母の言葉が、ロランの頭を過ぎる。物心付く前に亡くなった父の代わりに、立派な大人になるように。学にならないことばかりやっていてはいけないと、いつもしつこく言われている。自分は好きなことすら、隠れてしか出来ない。

「ならないの? なればいいのに! ロランだったら、絶対に有名になるわ!」

 どうして彼女は、先程知り合った自分に夢の後押しをしてくれるのだろうか。それが子供故の無責任なそれであったとしても、そのときのロランにはとても支えになった。将来を信じて疑わない、そんな笑み。彼女のように未来を信じていれば、望む未来は手に入るのだろうか。そうすれば、母も認めてくれるだろうか。

 本当に好きなことで、自分の未来を切り開けるのだろうか。

「どうしたの、ロラン?」

「えっ? あ、いや、何でもないよ!」

 いや無理だ。そんなこと、やはり許してくれない。でも。でも本当にそんな未来があるなら、夢を追い求めても叶う未来があるなら、決して今は無駄ではない。

 それからロランは、隠れてでも絵を描くことを決めた。アンドレと共に遊んで、絵描きになるにはどうしたらいいか考えた。その時間には、ここはアンドレの葡萄畑だということ、彼女の描く絵は全て歪で所謂下手だということを知った。とても楽しくて、こんなに笑ったのは初めてだった。ロランは子供ながらに、自分の将来を自分で決めていたのだ。言われたことを守ろうと、自ら心を殺していた。

本当に好きなことで生きられるように、必死で努力する必要がある。それは簡単な道ではない。それでも傍にアンドレがいるから、ロランはいつまでも頑張れる。

「ん…?」

 そのような夢を見続けて、ロランは眼を開けた。今は以前、ボーマルシェ侯爵とシャレット伯家に行ってから約半月が経っていた。色々と要る物を買い込んでいるので、そろそろ資金も尽きてきた頃だ。今日もいつものように絵描き道具を準備して、草の上にカンバスを拡げようと玄関に向かう。扉を開けると、一片の白い紙が舞った。下に落ちたのを確認すると、それは紙は紙でも手紙であることが分かる。差出人は、達筆でジュスタン・ド・ボーマルシェと書いてあった。

「ボーマルシェ?! 侯爵様から?!」

 急いで中を開けてみると、綺麗な定型文が綴ってある。しかしそれには意味がない。ただ一つ意味のある言葉は、侯爵の屋敷に来るようにと書いてあるものだった。

 ロランは飛び跳ねる程の気持ちだ。つい先日侯爵付きの画家として華々しく紹介されたばかりなのに、もうこんなに早くお声がかかるとは。市街に恋人と暮らすことを条件に、周りから仕事の反応がなかったらこの話は流れることになっていたのだ。向こうも向こうで、二人用の物件をおいそれと用意するのは難しいのだろう。

 それでもこの内容の手紙が来たということは、きっと何かしら仕事が来たということだろう。それを考えるだけで、気持ちが急いてもっと早く馬車が走らないかと思う。朝起きてすぐの第一便の馬車に乗り込んだのは何時振りだろうか。しまった、アンドレにお昼は要らないと伝えるのを忘れてしまった。だが、いいだろう。自分がいなければどこかへ行ったのだと思ってくれるだろう。

「ここが、ボーマルシェ侯爵様のお屋敷…。いただいた地図で、ある程度予想してたより断然でかい屋敷だ…。さすが資産家だけはある…」

 手紙に添付されていた地図から辿り着いたのは、天に聳える大きなお屋敷。これだけ目立つ建物なのに、ここだけの話少し迷った。いや、それは仕方がないというべきか。確かにボーマルシェ侯爵家は多少なりとも大きいが、隣接する屋敷もそれ相応な大きさだからだ。

 やっとのことで見つけた屋敷の前に立ってはみたものの、やはり緊張する。手紙を何度も何度も読み返し、本当に屋敷に来るようにと書いてあるのか確認した。それでも確認した度に本当に書き付けてあるのを目視している。自信を持って、強い咳払いをしてから拳で扉を叩いた。

「失礼いたします! 画家のロラン・ヴァレリーでございます!」

 叫んでしばらくしてから、重い扉がゆっくりと開かれる。そこにはフランス風の正装を着せられてはいるものの、肌は褐色、黒髪の少女が立っていた。客だというのに笑みひとつ見せやしない。

「あ、あの、侯爵様のお手紙で、来るようにと言われていたのですが…」

 ロランは勝手に入って来たと思われないように、慌てて侯爵の版が入った手紙を見せる。しかし少女は、さも興味なさげにそれを一瞥しただけだ。もう屋敷中の使用人には話が通っているということだろうか。

 だが少女は踵を返し、屋敷の奥へと下がろうとした。

「えっ? あ、ちょっとどちらに!? …ついて行けば、いいってことですか…?」

 それでも数歩下がった後に、ロランの方を振り返ってしばらく待つ。肯定も否定も反応はないが、真っすぐに見据える眼には何か訴えるものがあった。ロランが足を踏み入れると、先を行く少女も歩き出す。やはりついて来いという意味だったらしかった。

 敷き詰められた大理石の床が、二人の足音で冷たく響く。会話はなく、とてもロランは不安になった。しかし多少話しかけても全く反応がないので、どうすることなく進んでいく。ただ回廊の端々にある様々な芸術品を見回すだけだった。

 絵画はもちろん、陶器や宝石まで飾ってある。額に収められた絵たちは、とてもいいものだとロランは直感的に思った。きらきらと光る陶器や宝石は専門外なのでよくは分からないが、艶やかなのできっとこれも絵と同じくらいの価値はあると推測する。そのような中に自分の絵なんかが混ざっていると思うと、とても誇らしい。が、それと同時にどうしてか申し訳なくなった。素晴らしい作品たちと肩を並べてもらっているなんて。

 そんな美術品に見とれていると、急に眼の前の少女が立ち止る。

「わっ?!」

 反応するのが遅かったので、少し体が触れてしまった。思えば、アンドレ以外の年若い女性に触れるのは彼女が初めてだ。しかし男の体が触れたことなどお構いなしに、この女性は眼前にある扉を叩く。そうか、それで立ち止まったのか。これでは確かに前に進めない。すると扉の向こうから低い声が反響してきた。

「誰かね?」

 男の声だ。聞き覚えのあるそれは、間違いなくボーマルシェ侯爵のものだった。

「ボーマルシェ侯爵様! ロランです、画家のロラン・ヴァレリーです!」

「ロランか。入りなさい。扉の向こうにいるのはロマだろう、開けてやれ」

 ロマと呼ばれた女が、扉を掴んで開ける。あまり美しいとはいえない仕草だが、扉が開けば十分だ。だから別に気にするつもりはなかった。

「やはりロマか。お前はいつまで経っても乱暴だな。まあいい。ロラン、よくぞ参られたね」

 咎められたロマという少女は、特に気にするでもなく侯爵を見据えていた。まるで穿つようなその眼光は、とても若い女とは思えない。何があったかは知らないが、まだ侯爵のことを主人だとは思っていないように見えた。しかしそれを気にするよりロランは、地位のある方に流れる。

「いえ、あまり早い謁見ではなく申し訳なく思います」

 朝一番に出たのだが、田舎からこちらまで時間がかかるのと道に迷った分で思ったより昼に差し掛かっている。これではいよいよ申し訳ない。

「気にすることはない。ロマ、これへ」

 それでも彼は自分を否定することなく認めてくれた。この人はいつもそうだ。言ってから侯爵は、今度はロマに向かって手招きをする。ロマは侯爵の傍に付くと、手の動きを見ながら行動しているようだ。耳でも聞こえないのだろうか。それなら先程喋らなかったのも合点が行くのだが。

「あの…、不躾ながら、彼女は…?」

「これかね? これは先日私が君と同じように買った女中‐セルヴァント‐だ。ジタンの生まれでね、強情で私でも手を焼く」

「ジタンって、あの…?」

 ジタンと言う度に彼女の眼が鋭く光ったような気がしたが、一瞬のことなので見間違いだと思うことにした。

「あぁ、名はロマというらしい。私がジタンと口にすると頑なにそう訴えるのでね。言葉が通じないなりに、伝えようとしているのかもしれない」

 言葉が通じない。成程、先の対応はそれによるものだったのか。と、一人ロランは納得した。次いで話を逸らしたことについて謝る。

「そうですか…、要らないことをお伺いしてしまって、失礼いたしました」

「いや、これを初めて見た者は必ず似たような反応をする。躾が悪くて申し訳ないね。私からこれの代わりに言っておこう」

「い、いえ! 特に気にしていませんから! あ、あの、それで、お手紙をくださったのは一体どのようなご用件で…?」

ともすれば、頭を下げるのではないかと思う程丁寧でしっかりした物言いだ。それをされてはロランも堪らないので、慌てて話題をすり替える。

「あぁ、そうだったね。ロラン、君は回廊に飾ってあった物達を見たか?」

 回廊に飾ってあった物。それは今し方通って来た道にあった絵画や陶器等だろうか。間違っていると失礼なので、一度訊くことにした。

「それは、あの絵画などですか?」

「そうだ、見て来たなら話が早い。私の生き甲斐でね、美しい物を愛でるのは。我が屋敷にある物は全て、私に認められた芸術品。絵画は額にしかとおさめて保管しているし、陶器や鍛冶は毎日磨かせているのだよ。君の絵も、額に入れて飾ってある」

「あ、ありがとうございます! 嬉しい限りです。自分の拙い絵を見付けてくださって、本当に感謝しています」

 そう侯爵に言われて、ロランは胸の奥がくすぐったくなった。雑なカンバスと雑な絵筆で、それでも魂を込めて描いた絵。それはきっとその時以外の自分にも真似できない。

「私はそういう者達を多く見て来たのだ。通りの外れには腹を空かせた子供、路肩に自分の魂を売る者達。そういう者は自分の未来を繋げる為に、誰かに気付いてもらおうと静かに訴えている。言葉が通じなくても伝えようとするロマや自分の世界を描く、君のようにね」

 市街とはいえども、全てが幸せに向かっているということはないらしい。ロランも多少見たことはある。絵をどこで売ろうかと模索していたときに、裏道の奥の奥で。それは、想像を超えた光景だった。人はあんなにも細くなることが出来るのか。

 いや、止めよう。思い出すのは。あれは、自分とは相容れない世界だ。そう思い直して、ロランは素朴な疑問を投げた。

「それで、あんなに美術品を…?」

 市街に居るのは、何もああいう者ばかりではない。侯爵が言ったもう一つの『見て来た者』に焦点を当てる。自分と同じ、認められる為に肩を並べた者達。そう、それが、自分の世界だ。

「あぁ。見て来た分、ある程度の眼は培っているつもりだ。君の絵は素晴らしい。カンバスの外にも世界が拡がっている。草の匂い、風の感触を感じて、ここではないどこかへ行けるようだ」

「…ありがとうございます。道脇に座っているだけだった自分に手を差し伸べていただいて、感謝しかありません。これでやっと自分は芸術家の端くれになれました。実はその日大通りに絵売りが少なくて、自分は初めてあの通りで売っていたところだったんですよ。その一日で会えるなんて、とても幸運でした」

「そうか、あの通りに出るのは初めてだったのか。私も見たことがない絵売りがいるとは思っていたのだよ。もっと早くに出会う機会はあったのかもしれないがね」

「いえ、自分にとってはあの一瞬以外にはないと思っております」

 それは、心から思っている。会っていたからこそ望む高い願いは、初めからないことだって考えられたのだ。それはとても恐ろしい。

「そうか。ならいい。では私の伝えたい話をさせてもらおう。これが本日、私が君を招いた理由だ。君、私の屋敷付の絵師にはならんかね?」

「えっ?」

 ロランは、一度自分の耳を疑った。とても身に余る光栄。それがこのことかと理解するのに、少し時間が掛かった。

「自分が…、お屋敷付にですか!?」

 屋敷付。それはその屋敷の主人に認められて、専属の職人として迎えられることを意味する。絵師はもちろん、料理人や庭師、執事などもそうだろう。

 それを理解した上で、言葉を口にする。途端に、なかなかどうして実感が薄れた。何とも可笑しい感覚だ。言葉を理解したつもりで発したのに、実現した音を聞くと有り得ないと思ってしまう。

「あぁ。もちろん、君さえよければだが。正式に屋敷付となれば、市街に住む手続きや仕事の依頼などもこちらから受けよう」

 それでも眼の前の主になるだろう人は、それを否定も笑い飛ばしもしなかった。本気でロランを画家として自分の配下に迎える気なのだ。その反応を感じて、ロランは安堵する。と同時に、嬉しさで駆け回りたいくらいだった。

「ありがたいお言葉です! 是非ならせてください!」

「そう言ってくれて嬉しいよ。ではここにサインを」

 少し侯爵に踊らされて、ロランは書面に名前を書く。手の震えが小刻みに生じていた。サインをするのは、自らの絵に保証を持つときだ。これからロラン・ヴァレリーという名前には、色々と責任が乗ってくる。最後のスペルを書き終えて、侯爵が口を開いた。

「…これで君は、画家として、仕事を受けられる。住まいについても、決まったら手紙を出そう」

「はい! これからよろしくお願いいたします!」

「では仕事を依頼するまで、乃至‐ないし‐はされるまで、今しばらく待ってもらえるかね。それも合わせて書面で書かせていただけると幸いだ。ロマ、馬車の用意をするように伝えろ」

「………」

 今まで静かに主人の傍らに控えていたロマは、ジュスタンを一瞥すると扉へ歩み始める。控えていたというよりは何もすることがないので立っていた、という風に見えるが、そのようなことは今はどうでもいい。女中が去っていくと、改めて侯爵が口を開ける。

「実家まで送ろう。遠慮することはない」

「そんな…、今日もだなんてさすがに申し訳が…」

 以前シャレット伯家で行われた茶会の帰りも、何を隠そうこのジュスタンに手配された馬車で送ってもらったのだ。ここから自分の田舎まではおよそ一時程。ボーマルシェ侯爵家の馬車は上質な物なので腰が痛くなることはないが、それでこの屋敷の者を一人拝借するわけにはいかなかった。

「気にするな。君はもう、私の画家なのだ。その画家に何かあれば、私の名に傷が付く。送るくらい容易い」

「そうですか…。では、お言葉に甘えさせていただきます」

 名に傷が付くとまで言われてしまっては、そうせざるを得ない。自分の為に主人が下に見られてしまっては、元も子もないだろう。そう決断してから、すぐに扉が鳴った。

「では、またよろしく頼む。ロマ、入りなさい」

 その命令で乱暴な音を立てて女中が入り込み、身振り手振りを見ながら何かを理解しようとしていた。

「彼を馬車の元へお連れしなさい」

 言われてロマはロランを鋭く睨む。吊り眼のゆえ少々辛い印象を受けるが、そこまで文句を言っては可哀想だ。見据えたロマは、付いて来い、と顎で促しているように見えた。

「では、失礼させていただきます。これから、よろしくお願いいたします!」

 きちんと頭を下げて、ロランは屋敷を後にする。付いて行ったロマは相変わらず何も話さなかったが、その代わり良い馬車に揺られて帰るのはとても心地よかった。

ロランが本当に実感できたのは家に着いてから。自分が貴族の屋敷付に、それもあの有名なボーマルシェ侯爵家に付くことが出来たということの重大さが理解されてきた。あのきらびやかな部屋の一角すらない木造の古びた実家。田舎の昔ながらの造りだが、ロランはやはりここが落ち着く。嫌っていたはずなのに、いざ覚悟を求められると尻込みするものだ。

 ふと、愛しいアンドレの顔が見たくなった。そういえば今日はアンドレに会っていない。今朝方侯爵からの手紙を見て飛び出して来たので、アンドレにどこに行くかの報告もしていなかった。それではいけない。きっと心配しているだろう。謝りに行かなければ。やりたいことがあると後先考えず飛び出してしまうのが、自分の悪い癖だ。

 ロランはやっと帰って来た家を出て、先日までカンバスを拡げていた小高い丘に登ってみた。そこには待ち侘びた愛しい人の背中がある。草の上に座り込んで、小さくなっていた。夏とはいえフランスの気候柄、そこまで暑くないのだ。

「アンドレ!」

「ロラン…?」

 呼ばれたアンドレは、眼を円くして振り返った。なんと、これではいつもと逆だ。

「ごめん、心配かけた!」

「あぁ、ロランね! 私は夢でも視ているのかと思ったわ! お帰りなさい、ロラン」

 急いで駆け寄るロランは、怒られると思っていった。なので少し拍子抜けしたことは内緒だ。寂しかったはずなのに怒りが湧かないということは、深い心配をかけた証拠である。立ち上がってふわりと抱き付くアンドレに、ロランは優しく頭を撫でてやった。

「ただいま。悪かったね、何も言わずに出掛けて」

「ううん。心配はしたけど、何もなくてよかった…」

 本当は、何もないことはないのだけれど。そう思ってロランは、事の顛末を話す。

「実はね、アンドレ。君に、言いたいことがあるんだ。俺はさっき、ボーマルシェ侯爵様のお屋敷に行ってきた。そこでね、屋敷付の絵師にならないかと言われたんだ」

「お屋敷付…!? ロランが!?」

 その報告を聞いて、より一層興奮してアンドレが捲し立てる。体が引き剥がされたのは少し口惜しく感じたが、顔を向き合わせて綻ばせながらつらつらと喋るアンドレはとても可愛かった。

「私はまだ夢の中にいるのかしら! いいえ、夢であってはいけないわ! こんな喜ばしいこと、夢で終わらせたくはないもの!」

「安心して、アンドレ。これは夢じゃない。俺の夢といえばそうだけど、これは現実だ。また一歩、夢に近付けたよ」

「ロラン…」

 心なしか、アンドレの瞳が潤んでいる。今日自分はここで、一番伝えたかったことを口にするだろう。それは、帰りの馬車でずっと考えていたこと。これから安定した仕事をしていくと予想されるので、きっと一人くらいはこれから支えていけるだろうと踏んだ。その為にはもっと努力をしなければいけないと思うけれども、それでも第一歩を踏み出した自分に自信を持つ。これでようやく、もう一つの夢が叶う。

「アンドレ、俺と結婚しよう」

「…え?」

 暖かい風が、二人の間を凪ぐ。見詰め合う時間は、どのくらいだったのだろうか。一瞬のことのようにも、永遠の時のようにも思える。内心ロランは緊張していた。もし断られたら、もし嫌われたら。そのようなことこの長い十数年間になかったとしても、可能性は必ずしもないとは言い切れない。

「嬉しい…」

 やがて桜色の唇からその単語が漏れる。次いで大きな瞳から、これまた大粒の涙が零れた。

「ありがとう、ロラン…」

 確かに、仲は認めてくれた。結婚式だってすぐに挙げるつもりだった。だが画家になったとは雖も、たった一つ絵を買ってもらっただけだ。その代金だって色々と使えばあっという間になくなるし、次また買ってくれる機会がいつ訪れるか分からない。二人の関係を踏み切れないでいたのは、実は自分自身なのかもしれなかった。

「絶対に、幸せにするからね」

「……うん」

 震える声でそう答える彼女の頬、人差し指で水滴を拭く。彼女を幸せにしたい、支えてあげたいと、ロランは心から願った。その決心が出来たのは、恥ずかしながら今この瞬間だ。二人は、愛おしい人と、きつくきつく抱き合った。

 それから半月程時が流れ、ロランは初めてタキシードに腕を通す。相応しい所で相応しい正装。真白いパリッとしたそれは、ロランをとても緊張させた。これから、二人は結ばれる。短いようで長かった。二人の想いは実を結び、実現という形を取ったのだ。愛は、絵筆よりも重い。

 今いるここは、市街のとある教会。最初契りを交わそうとして行けなかった、あの場所だ。ロランの村には、教会はない。祈りは家で、契りも同じくそこで交わす。それではあまりにもアンドレが可哀想だ。愛しい人には、美しい所で美しく輝いてほしいから。だから、この状況は夢にまで視た。ようやく、ここで叶う。

「ロラン、私は嬉しいよ。絵ばかり描いて、どうなることかと思っていたけれど。ミッサの子を幸せにしてやりな」

 嗄れた声で話すのは、自分の母。父がいないので少し寂しいが、恐らく一番寂しいのは母だろう。ロランは、母の発する音を聞いて思っていたより衰えていたのかと感じた。

「…分かってる」

 それでも自分は、アンドレをまず幸せにしてやるべきだと考えている。彼女が満たされれば、その幸福はいつか湧水のように零れて周りに染み渡るだろう。

「母さん、ありがとう。俺は、アンドレと幸せになるよ」

 皺々の手を優しく掴んで、感謝を述べた。歩き出すのは、人波を分かつ赤い道。木で出来た飴色の長椅子に腰掛けているのは、ロランとアンドレの親族達。中央の空に掲げられたステンドグラスの光を受けて、先にロランが入ってくる。次いで登場を告げられたアンドレが、扉を開けられて入ってきた。

 何故か式前にはアンドレと顔を合わせてはいけないと女性達に怒られたので、彼女の晴れ姿は今まで見れず仕舞いだった。なのでロランは、その艶やかな恋人に思わず息を呑む。いや、これから恋人ではなくなるのだから、その名称はおかしいのだろうか。それでもロランは、そのようなことにも気付かない程アンドレに心を奪われていた。

 白く、白く。ゆっくりと進んでくるその塊は、まっさらな彼女によく似合った色をしていた。色だけではない。激しく主張しない装飾も、長いドレスの裾も、まるで地上に降り立った女神の如く。ロランの好きな蜂蜜色の髪は、薄いヴェールで隠されてしまっていたが、それを剥ぐのは自分自身だと考えたら興奮は冷めやらなかった。無論、髪色を見たいからだけで剥ぐのではないのだが。

 美しく着飾ったアンドレがやがてロランの傍に寄ると、神父が仰々しく神に契りを交わせる。御神の元で結ばれた二人は、これからきっと違えることはない。もし違える時があるなら、それはどちらかの命が消える時だ。誓った想いに、決して間違いなどない。

 永遠の時を、二人はここで誓った。



     第四章 ‐仕上げ‐


「ボーマルシェ侯爵様の手紙によると…、この辺りなんだけど…」

混雑してざわつく市街。遠くで教会の鐘の音が聞こえる。その中をロランは、手に紙切れを握りながら歩いていた。傍らには先日結婚したばかりの妻、アンドレを連れている。今聞こえているあの教会で一緒になったばかりだ。

「ロラン、これかしら!」

「え?」

 声を上げたアンドレの指を差す先を見ると、そこには蜜柑色の屋根の小ぢんまりとした借家が建っている。その位置と手に持った紙を見比べて、ロランは確信した。持っていたのは、地図だ。

「っと…。そうだ! ここだ! アンドレ、よく見つけたな!」

「眼だけは昔からいいのよ? ロランに負けないくらい」

 言ってひらりと廻りながら、アンドレは借家の玄関に辿りつく。その言葉の真意は、ロランがよく知っていた。幼い頃葡萄の葉を描いた時、ひとつ残らず何を描いたか言い当てられてしまった。もちろん、言い当てられたのは葡萄の葉だけではない。遠く連なる山並みや草原の花に至るまで、アンドレにはお見通しだった。

「いつもながら、アンドレの視力には負けるよ。風景画もアンドレが描いた方が良いかもな」

「やめてよ! 私の絵、知ってるでしょ? そういうのは苦手なの!」

後を追いかけてきたロランがそう言うと、アンドレは血相を変えて断った。これもやはりロランには分かる。アンドレの描く絵は下手なのだ。しかし眼は良いのに、いやはや勿体ない。それでもロランには、それさえも愛おしく思えた。

「ははっ! 知ってる知ってる、良く知ってるよ。あれは…猫だったっけ?」

「もうっ! いつだってそうやってからかうんだから!」

「あっはは!」

 ロランがからかいながら扉を開けると、ようやく街の喧騒から逃れられた。すぐ傍が通りだというのに、家の中は思ったより静かだ。侯爵が、煩いと作品が出来ないと思って気を遣ったのだろうか。上がってみると、外から見るより広い。少し黄色味が掛かった白い壁が一面に広がった二階建てだ。

「わぁ…! 素敵ね、ロラン!」

「ああ、今は借り物だけど、いつか自分の家を持てるようにするからな」

 人妻になったとはいえ、ロランも若ければアンドレだって若い。新しい広い新居に大はしゃぎだ。これでは本当に自分の家を建てたときに保っていられるだろうか。そういうことを頭の端に思いながらロランは飛び跳ねるアンドレを見ていた。不意に、アンドレから声が掛かる。

「ねぇロラン、私今幸せよ」

 噛み締めるかのような言葉に、ロランは眼を瞠る。その言葉を貰えて、彼も幸せだった。

「俺もだよ」

 願わくば、このままずっとアンドレの元に。そう思った瞬間、家の扉が鳴った。誰かがこの借家の戸を叩いている。いったい誰だろう。考えていたら、嗄れた声がロランの名を呼んだ。

「失礼します…。あー、ロラン・ヴァレリーさんのお宅でお間違いないでしょうか? 私はジュスタン・ド・ボーマルシェ侯爵様に使える馬車引きでございます。お屋敷にお呼ばれしておりますので、お迎えに上がりました」

 声の主は、ロランが初めてジュスタンに会ったときに傍に付いていた馬車引きだ。名を、セルジュと言う。

「ボーマルシェ侯爵、様!? はい、今行きます!」

「お仕事…?」

 慌てて自分の主人の名前に反応する。呼んでいるとはどういうことだろうか。何か急ぎの用に違いない。だが寂しそうにアンドレが、そう口を吐いた。

「あ…あぁ、ごめんね…。急に…」

「う、ううん! これは、ロランの意思じゃないものね? 頑張って! 行ってらっしゃい」

「ああ、行ってくる! 待っててね、アンドレ」

少し躊躇ったが、それでも行かないわけにはいかない。申し訳ないという気持ちはあれど、どうであれ結局行っていたと、自分は思う。仕事をしなければ、生活も出来ないし恩義だって返せない。

 ロランはまた、喧騒溢れる街に繰り出していった。待ち受けるは侯爵家の馬車。侯爵自身が乗るそれと比べると幾らか簡素だが、それでも艶のある車体からはそれ相応の持ち主が見えてくる。やはり紛れもなく、これは侯爵家へと向かうのだ。

「乗ってください、旦那。すぐ出しますよ」

「は…はい!」

 言われた通りに馬車へと乗り込み、セルジュに扉を閉められる。しばらくして車体が少し横に揺れた。恐らく馬車引きが然るべきところへと着いたのだろう。そして滑るように、目的地へと向かう。馬車の窓から通り過ぎる街並みを見て、ロランは内心決意を言ちた。

「片田舎出身の俺が、遂に市街暮らしか…。もっともっと頑張らなきゃな…!」

 やがて街並みが庶民のそれから高貴なそれへと変わる。大きな屋敷が建ち並ぶそのまた奥、ダークブラウンの屋根を冠したそれがボーマルシェ侯爵邸だ。ロランは停まった馬車を降りて、大きくてぶ厚い入口の扉を叩く。

出て来たのは、依然と同じくロマだ。漆黒の瞳が鋭くロランを射抜く。あの眼はまだ、慣れない。それでも初めて会ったときよりかは、多少緊張は解れたらしい。言葉は通じないが、身振り手振りで何とか伝わった。侯爵に幾らか教わっているのだろうか。

 ロマが手を向けて付いてくるようにと部屋へ案内してくれる。相変わらず無表情だが、仕草はしなやかで少し髪が伸びたようだ。変化は微々たるものかもしれないが、とても女性らしくなっている。それは最初の印象があまり良ろしくなかったから、そう感じるのだろうか。

 ロランは入口の近くの応接間らしきところに通されると、ロマに示されたソファに静かに座った。あまり余計なことを言っても言葉が理解できないのだから到底無駄骨だろう。

 ロランは気付かなかったようだが、ロマの変化はそれだけではない。彼女の匂いはいつの間にか、香辛料のそれから紅茶の香りへと変わったのだ。それを勘付ける程ロランは大人ではないし、そういった経験も多くない。だからこの女中の身にどうやって匂いが染みついたのかを、探ろうともしなかった。

 しばらくロランが待っていると、扉が優雅に鳴る。ロマが扉を開けると、そこには侯爵と執事のパスカルが立っていた。執事長の方には下がるように手で制して、侯爵が一歩踏み入る。その間にロマが横に逸れ、扉を閉めた。屋敷向きに、手際も良くなっている。

「待たせたな、ロラン。本日からこちら暮らしだろう? 疲れているところ悪いね。ロマ、これへ」

「…Oui‐はい‐」

侯爵が手招きをするとたどたどしくそう答えた。言葉を発したのは、ロマだ。喋れないわけではないと知っていたのだが、さすがに今まで音を奏でるのを聞いていなければ驚くのも無理はないだろう。ロランは少し眼を見開いて、二人を見ていた。しかしロランがこちらにお世話になって早一月程。その間にOui‐はい‐、Non‐いいえ‐くらいは覚えたのだろう。確かに主人に向かって返事をしないのは失礼だ。

 そうロランが思っていると、おもむろに侯爵はロマに口付けた。

「っ!?」

 見開いた眼が、更に見開かれる。自分がここにいるのもお構いなしだ。これが貴族というものなのだろうか。一瞬強張った彼女の体は、それでもするりと緊張が解けていく。それは、普段からの行いであることを証明していた。ロランは眼のやり場に困るが、しかしその行為は特に厭らしいとは感じなかった。逆に、何とも言えない麗しささえある。その光景は、教会に飾られる程の絵画よろしくだった。

 しばらくして侯爵とロマの唇が離れると、ジュスタンはくるりとロランの方を向く。ロマの方はというと、顔を不快にさせない程度に気まずく歪めていた。その顔を見る限りでは、思っていたよりあどけなく感じる。

「では、話をしよう」

 言って侯爵は向かいのソファに腰を下ろして、何事もなかったかのように段取りを進めようとした。

「あ、え………はい」

 しかしロランには止める勇気はなく、ジュスタンの流れに乗る。こういう人の考えることはよく分からない。厳格そうに見えるが、意外と好色なのだろうか。いや、今考えるべきことはそういうものではない。仕事の話に集中しろ。

「その前にロマ、紅茶を持て。私と、ロランにだ」

「Oui‐はい‐」

 少し戸惑って、ロマは部屋を去った。煌びやかな空間に、男二人になる。ジュスタンがロマを下げてくれて、ロランは胸を撫で下ろした。このまま同じところにいたら、きっと集中出来ない。気でも遣ってくれたのだろうか。

「女中を残した方が華やかだったかな?」

「え? …あ、いえ……!」

 いきなりの質問に、ロランは眼を泳がせながら否定する。どうやら気を遣ったわけではないらしい。その真意は、ジュスタンの次の言葉へと表れる。

「あれとは遊びだよ。欲しければやってもいい。…いや、君にはもう、愛する人がいたかな」

「い、いえ、そんな…」

 これまで聞いたことのない言葉に、ロランは戸惑った。この世に女遊びという者事があったことを、改めて自覚する。

「君には少し、刺激が強すぎたか。私の元に付いて画家をやるなら、こういうことにも多少慣れておいた方が良い」

「そ、そうですか…。あ、あの、お仕事の話の方を…」

「あぁ、そうであったな」

 勇気を振り絞って、画家は主人に口答えをした。だが思っていた避難は浴びせられることなく、ジュスタンは当初の話に戻す

「まず手始めに、私の依頼を受けてもらおう」

「畏まりました。どういったものをご所望で? 肖像画ですか?」

「いや、君にはしばらく、景色を描いてもらいたい」

「景色…、風景画ということですか?」

 仕事の話になると、ロランは先程とは打って変わって生き生きし始めた。やはり彼には、話すことはこれしかない。

「そうだ。君の描く景色はここではないどこかへ連れて行ってくれるようだからね。そこに私は惚れ込んだのだよ。お願いできるかね」

「え、えぇ。では、どちらの風景をご希望で?」

 しっかりと好いてくれているのだということを、ジュスタンのその単語単語から読み取れる。ロラン自身あまりその評価をされたことがないので、こそばゆいような申し訳ないような気持ちになった。

「それは任せる。完成したら持ってきてくれ。それと、絵を描くにあたって必ず空を描いてくれないか」

「はぁ、空、ですか…? 分かりました」

 任せるとは言われたがそれだけははっきりと、描けと望まれた。空に憧れるロランのとっては、自分の空など本物には敵わないと思っている。それでもこの眼の前にいる侯爵は、自分の空でも本当に空いてくれているのだろうか。それはとても、ありがたくて誇らしい。自分の表現を、それをしたものを認めてくれる。芸術家にとって、こんなに嬉しいことはない。

「せっかく足を運んでもらったのに悪いね。ほんの気持ちだ」

「…!? えっ? あの、この前よりずっと…!」

「それで、完成するまでの生活には不自由しないだろう? もし足りなければまた出向きなさい」

 受け取った紙には、一番最初にいただいたそれよりずっと多額な料金が書かれていた。戸惑いながらも貯蓄がそろそろ底を突きそうなロランには、喉から手が出る程欲しい。だから躊躇いなく、ありがたく懐に納めることにした。

「あ、ありがとうございます! さっそく作成に取り掛かろうと思います!」

 言って荷物を畳んで帰ろうとする。ロマが淹れてくれるであろう紅茶は、もうロランの頭にはなかった。

「いいのかね? 今、茶を用意しているが」

「あっ…、失礼しました。お茶はいただいていきます…」

 貴族の出ではない者には厚かましく思えるだろうが、せっかく用意したものを無下にするのは、そちらの方が失礼だと以前教わった。なので、去ることを遠慮して温かい紅茶をいただいていく。飲み干してから、ロランは帰路に就いた。

「帰ったよ、アンドレ!」

「お帰りなさい! …どうしたの?」

 行きと同じく帰りも馬車を手配してもらったので、初めての道でも迷わずに家を見付けられた。勢いよく玄関を開けて、とりあえず帰ってきたことをアンドレに報告する。その後でアンドレが訝しんだ理由はというと、帰ってきて早々夫がバタバタと騒がしい音を立てていることに対してだった。

「どうしたって仕事だよ! 風景画を依頼されたんだ! さっそく出かけなきゃ!」

 アンドレがロランの元に駆け寄ってみると、田舎から届いた荷物をひっくり返して幾つかカンバスを出している。その光景を見て、アンドレは声を上げた。

「えっ、そんなにすぐに!? もう少しゆっくりしたって…」

 アンドレが出て来た部屋からは、鼻孔を擽る匂いが漂ってくる。そろそろ夕刻だ。用意するものといったら、一つしかないだろう。

「大丈夫だよ、すぐ終わらせて戻ってくるから。そうだ! 俺がいない間、これで生活しててくれ」

 それでもロランは心が躍っているのか、何にも気付かない。気にも留めない、という方が正しいだろうか。出発なら本日より、明日の方が得策かとも思われるが。気持ちが逸っているので、ロランはそのようなことすらも気に留めなかった。

 アンドレに渡した紙切れだって、少し躊躇したが迷わず渡すことにした。初めての仕事の依頼なので、じっとせず傍にいられない自分の代わりに豊かになってもらおうと思ったのだ。一気に懐は寒くなっても、まだ絵の一つや二つくらいなら仕上げる余裕はある。

「何これ…? こんなに…!? こんな数字見たことない…!」

 受け取った小切手をまじまじと眺めて、アンドレは驚愕した。初めてロランが侯爵に貰った紙の上の数字よりも、0‐ゼロ‐が一つ多いような。

「ああ、そうだろ!? だから心配しないで! 一人でも大丈夫だろ?」

「ええ? そういう問題じゃなっ…! ロラン? ロランってば!」

 そういう考えを巡らせていたら、いつの間にかロランは準備を終えていたようだ。アンドレが止める暇もなくロランは外へと飛び出す。

「じゃあ行ってくるよ! じゃあね!」

「ちょっと!」

 最後の叫びは、誰に届くことなく家の中に反響した。帰ってくるのはいつになるのか。あの人は夢中になるといつもそうだ。自分独り置いてすぐどこかへ出て行ってしまう。最近はそれが特に目立つ。侯爵に会ったときからだ。自分が愛するロランは変わってしまったのだろうか。同じパンを食べ、同じ話をし、同じ夢を視ていたと思ったのに。

今日の夕食は、初めての独りだ。家にいなければ、話すらできない。共に暖かいベッドで眠ることも、今夜はできない。でも自分が追っていくわけにもいかないので、アンドレは仕方なくその環境を受け入れることにした。気持ちだけは、きっと繋がっていると信じて。

「侯爵様、長らくお待たせいたしました! ご所望されていた風景画です!」

 本日は侯爵の自室に通された。契約したときに訪れた部屋だ。侯爵はそこで優雅に椅子に腰掛けている。

「待っていた。これはどこの風景かね?」

「はい! 自分の母の故郷の風景です! 自分も小さい頃に何度か行ったことがあるんですが、とてもいいところなので描かせていただきました所存です!」

 水車と河と、敷き詰められた草の絨毯。ロランの故郷と母の古里は村二つ程離れている。足が悪くなってからはもう多くは帰れないと嘆いていたが、自分はまだどこへでも行ける。幼少期に訪れたあの懐かしい景色を、このカンバスに収めてみたのだった。

「確かに美しいところだ。私の寝室に置かせてもらおう。ロラン、以前私と共に茶会に出たのを覚えているかね?」

「はい、シャレット伯様のお屋敷で行われたものですよね?」

「そうだ、そこの夫人が君の絵を気に入ったようでね。一眼会って仕事を依頼したそうだよ。来なさい、シャレット夫人」

 突然そのようなことを聞かれたと思いきや、仕事の依頼まで繋がるなんて。やはりあのとき付いてきてよかったと、ロランは心底思った。確実に画家として次に結び付いてきている。シャレット夫人。ということは、夫はマリユス伯か。

「『シャレット夫人』だなんて余所余所しい。いつものようにエリザと呼んでくださいまし」

 侯爵の呼び声で、閉まっていた扉が開かれる。それは何故かロランが入って来た扉とは逆、侯爵の背向かいの扉だった。きっと先に来ていた、自分と同じ客人なのだろう。向こうの部屋はまた応接間か何かだろうか。

「よしなさい。私の画家の前だ」

 入って来たのは、嫋やかな亜麻色の巻き毛が麗しい細身の女性だった。肌は陶器のように滑らかである。しかしその彼女の身を包むのは、ドレスではなかった。幾重にも羽織られたシーツのような、まるで絵画の中の神のような出で立ちだ。最近の貴族の夫人にはこういう格好が流行っているのか、それとも自分を神のモデルとして描いてほしかったりするのだろうか。

「貴方の画家なら、あたくしたちの関係も理解したからといって弁えはあるでしょう?」

 その召し物を引き摺ってジュスタンの傍によると、腰掛けている侯爵の上から覆い被さるように後ろからエリザが抱き締めた。髪がジュスタンの頬に掛かるくらい密着している。二人の関係を、漠然とロランは理解した。それを確固たるものにしたのは、ジュスタンの行動だ。

「エリザ、少し口を慎みなさい」

「んっ…」

 呆れたようにジュスタンが言うと、エリザに有無を言わさず口付けをした。侯爵のお気に入りは、ロマではなかったのだろうか。

 いや、いやいや、それどころではない。この夫人は、ジュスタンの親友らしく見えたマリユスの妻だ。幾ら侯爵でも、それは許されることではない。

「厭ですわ、強引なんですから。夫のマリユスには見せられませんわね」

「マリユスに伝える気はない。エリザ、君とも遊びだ。本気にするな」

「つれない人」

 くすくすと笑うエリザは、先程のジュスタンの行為にも言葉にもどうとも思っていないようだ。遊び。このような暗いものが、貴族の遊びなのだろうか。

「それよりジュスタン様、彼もあたくし好みの男なんですの。そちらが先に見付けていなければ、あたくしが買っていたくらい」

 艶めかしい金に近いエリザの瞳が、ロランを射る。肩を強張らせて応戦をした。

「うふふ。そう硬くならないでくださるかしら。あたくしは今度の依頼主ですのよ?」

 その言葉に、ロランは少し緊張の糸を解く。これが今回の貴族‐パトロン‐だ。

「ジュスタン様から、風景画が素敵だと聞きましたわ。次はあたくしのために描いてくださるかしら。ここではない、どこかの景色を見てみたいんですの」

「は…はい、承知したしました」

 その肯定を口にするのに、生唾を呑まねばならなかった。シャレット夫人はそれを見て、妖しく眼を細める。

「いい子ね。そうだわ、描けたら直接あたくしのお屋敷に持ってきてちょうだい? 話は通しておくわ」

「は、はい…」

「よろしくお願いするわ。また会いましょう? ロラン・ヴァレリー」

「………はい」

 この夫人から会ってから、はいとしか答えていない。そう答えざるを得ないのだ。否定は限界を意味する。

「楽しみにしているわ。さ、ジュスタン様、早く続きをいたしましょう?」

 エリザはジュスタンの肩をなぞりながら、彼女が出て来た部屋へと眼配せをする。何の続きをするのか、あまり考えたくない。

「君は少し落ち着いた方が良い。マリユスが可哀想だ」

「あら、あたくしの誘いに乗ってくださったのはそちらですのに…。もう共犯ですわよ?」

「それは否定しない。ロラン、申し訳ないがこれからシャレット夫人と私用の話がある。本日はこれで。あぁ失礼、支払いがまだだったね」

 言って侯爵は脇に置いてあった小切手にさらさらと数字を書く。景気よく切り離す音がして、それはロランの眼の前に振ってきた。それを握り締めてロランは屋敷を後にする。あの後二人がどうしようとも、ロランは考えてはいけないのだ。家で待つ妻のことだけを考えよう。絵が売れた金で、アンドレに何を買ってあげよう。何をしてあげよう。その関係がロランにはまだ心地良い。

 だけれどもまたそれを得るためには絵を描きに行かなければ。それが、幸せになる唯一の手段だ。

「ついこの間帰ってきたと思ったら、また行っちゃうの…?」

「あぁ…、ごめん。仕事の依頼があってね」

「そう…」

 家に帰ると、やはり寂しそうな顔をしてアンドレが訊く。夢中で絵を描く旅に出ていたので、久しぶりに帰ったのは季節が初秋から初冬に差し掛かったときだった。暖かい屋敷にいた分実感が湧かなかったが、そろそろ真冬が近い。新しく綺麗だが先程の場所から比べると簡素な家に住むアンドレは、肩にストールを掛けて寒そうにしていた。そのような寒い部屋に一人残していくのは気が引けるが、それでもこれは分かってもらわなばいけないことだ。

「俺だってアンドレの傍にいたいよ。寂しいのは俺も一緒さ」

「そう…、そうよね。ごめんなさい、辛いのは私だけじゃないもんね…」

「そうだよ。俺だって、アンドレだって、想いは同じさ。心配しないで、アンドレは画家の俺を応援し続けてくれればいいんだよ」

「画家のロラン…」

 どうやら理解してくれたようだ。それではすぐに出て行かなければ。画家の、と訊き返されたことは気になるが、きっとその立ち位置を彼女も認めてくれているのだろう。

「そう。じゃあ、行ってくるね」

「ぁ………」

それを迷わず肯定して、ロランは背を向ける。閉められたドアは、思っていたより軽く乾いた音だった。

言えなかった。伝えようとしていたことは、何だったのだろうか。出て行った瞬間に、言葉を投げる相手を忘れてしまったのだ。顔は、声は、色は。会わない内に、いつの間にか何もかも思い出せなくなってしまっている。あんなにも愛していたのに、愛していた、はずなのに。きっと、恐らく。それすらもどうだったのか。掌から零れ落ちた何かは、黒く、砂のように呆気なく思えた。

「画家の、ロラン。じゃあ…いつものロランは、どこに行っちゃったの…?」

 そうぽつりと、独り漏らす。もう悲しくも苦しくもない。ぽっかりと胸に穴が開いたように、ただただ空しかった。

 春。真冬が過ぎ去って、暖かい木洩れ日が射し始める季節。ロランの隣からは、市街から南に位置する海の潮騒が聞こえる。寒い冬を乗り越えた春の海は、心地良い潮風を舞わせてロランのシャツを徒に弄んでいた。以前受けていた、エリザ・ド・シャレットの依頼を仕上げ終えたのである。先日、言われた通りに市街にあるシャレット伯の屋敷へと出向いたのだが『夫人は今、別荘にて療養中』と言われてしまったので、仕方なくロランはこの離れた土地へと降り立ったのだ。言われたときは話を通しておくのではなかったのか、とは感じたが、それでも迅速な対応を思い返してみると、きっと話は行き渡っていたのだろう。それに急な体調変化は、誰であっても責められない。

 海に近いのは魅力的だが、街からは遠くて若いロランにも少々骨が折れた。それに、人体には良いのだろうが、海の潮は絵の具や木を劣化させる。

 そのようなことを思いながらロランは、しばらくその言われた別荘の場所を目指していた。砂浜に近いからか地面の土がとても柔らかい。その砂に足を取られながら歩くと、ようやく屋根が見えてくる。クリーム色を基調とした大きな屋敷だ。別荘と雖も、市街にある屋敷に負けず劣らない。やっとの思いで屋敷の前まで辿り着くと、ロランの眼前に聳える扉を叩いた。

中からは、歳若い執事が現れる。見たところ自分より少し歳上だろうか。ロランと似たような髪色をしている分、整った顔立ちがとても羨ましく思える。その彼に通され、シャレット夫人の部屋に入った。夫人とはいえ女性の部屋に入るのは、アンドレ以外は初めてである。アンドレの自室に本当に入ったことがあるのか、自分の記憶すら怪しいが。

「ロランか、よくぞ参った」

 顔に麗しい笑みを貼り付け、そう夫人が声を掛けてきた。先日の恰好とはまた別で、今は珊瑚色のドレスを着ている。夫人は柔らかい、天蓋付きのベッドの上に腰掛けて待っていたようだ。元々陶器のような白い肌なので顔色は伺えないが、その様子からは確かにあまり体調が良い方だとは思えなかった。

「いえ、お待たせいたしました」

 彼女と二人で会うのは初めてのことなので、ロランは何時になく緊張している。前は侯爵がいたので気楽であった。――いや、あれはあれで困りものだが。

「ロラン・ヴァレリー。さっそくこちらへ来て絵を見せていただけるかしら?」

「あっ、はい!」

 相手は療養中、それならベッドの上から動かないのも納得できる。どういった症状なのかは聞いていないので正確な判断はできないが。それでも自分の方から動かなければ申し訳がない。

「失礼いたしました、夫人。ご所望されていた、風景画です」

 ロランはカンバスに巻いた布を取って、エリザに絵を見せる。そこには、冬の射すような空気が立ち込めたある日が映っていた。

「…寒いわね。とても寒い」

 『寒い』と、彼女はそう言った。春になったとはいえ確かに外は少し肌寒い。しかし適温に保たれて尚且つ温かい紅茶が置いてある室内には、幾らか似つかわしくなかった。

 そしてもう一つ気になることがある。彼女はロランの絵を見てから、その言葉を発したのだ。なのでロランは、その言葉を別の意味として捉えた。

「お気に、召しませんでしたか…?」

「いいえ、そうではないの。ただ、この屋敷には少し、相応しくはないかしらね」

「そうですか…。申し訳ございません」

 画家として、初めて気に入っていただけなかった。それはやはり自信を失くす。それでも諦めてはいけないのだ。自分に残された未来のために。

「気に病ませたかしら。違うのよ。貴方の絵は、その場所に行かせてしまうの。貴方の意志とは関係なしにね。だけれども凍えたあたくしの心には、この場所はとても辛すぎる。マリユスの屋敷に置かせていただくわ」

「…え?」

「あらいやだ。ジュスタン様から何も聞いてはいないのね。あの方はいつもそう。誰のことにも興味がないみたい」

 夫人が話す言葉の意味は、ロランにはよく分からなかった。エリザはそれを知っているのか、妖しく、それでいて悲しく笑む。

「あたくしの夫は知っていて? ロラン」

「え、えぇ…。マリユス・ド・シャレット伯様ですよね?」

 一瞬どちらの名を出せばいいのか迷ったが、やはり正当な関係を答えた方が良いだろう。

「名は、そうですわね。マリユス・ド・シャレット」

 どうやら正解したようだ。ロランは人知れず、胸を撫で下ろす。だが彼女は、その先に続く単語に深い闇があるように語った。

「だけれども皆、あの人の心を知らない。夫は、美しいものにしか興味がないの」

 美しいもの。それの何がいけないのだろう。自分も美しいものは好きだ。眼の前のエリザだって美人だし、何も申し分ないはず。それの何が問題なのだろう。

「人を愛さずその外身だけを愛する。だからジュスタン様はマリユスの憧れ。あたくしもあれまで綺麗な方は今まで見なかったわ。ジュスタン様は多くの美しいものを持っていた。マリユスはそれにのめり込んでいったのよ。あたくしが傍にいることも忘れてね。だからあたくしはジュスタン様からマリユスを奪い返そうと考えたわ。でもこの始末。あの方は、どのような者でも魅了してしまうのね。貴方も、その魅力には敵わないでしょう?」

「え…あ…」

 突然問いを投げ掛けられて、ロランは口籠る。それでも最後の一文には、ロランにだって分かることが訊かれていた。確かに、ボーマルシェ侯爵には人を惹き付ける力がある。それは以前、ジュスタンがロマとの間に交わした行為で身に染みて感じていた。

「はい。自分も、そう思います…」

 少し遠慮がちに、そう答える。だが、それがロランの本心であることは間違いない。

「貴方も綺麗ね。とても綺麗。あたくしにはもう、その心はあれど眼は濁ってしまっているもの。ジュスタン様はマリユスもあたくしも相手をしない。それがとても憎らしくて、寂しいわ」

 綺麗と、初めて言われた。その後に続く言葉は理解しがたいけれど、それだけは謙遜するべきだと悟る。

「そんな、綺麗だなんて…わっ!?」

 声を上げたのは、エリザが突然自分の左腕を掴んでベッドに倒れ込んだからだ。いきなりどうしたのだろう。体調でも悪化したのかと思って、ロランは慌てふためいた。

「夫人!? どこか痛むのですか!?」

 だけれど、返ってきた応えはロランの思っているものと違っている。

「ロラン。あたくしもジュスタン様に中てられて、もう美しいものしか愛せないんですの。とても寂しいわ…」

 それはきっと、エリザの心の叫び。捉えようとして捉えられてしまった彼女の、悲痛な想い。縛られてしまった分、相手の心が自分に向かないのが苦しいのだろう。艶やかな唇から発せられる次の単語に、ロランは全身の血の気が引いた。

「ねぇ、慰めては、いただけないかしら…?」

見開いた眼は、エリザの笑みを射抜く。しかし瞳だけは寂しそうに揺れていた。それを見ると心臓が締め付けられたが、それは決していただけないこと。姿形は貞淑な夫人のそれなのに、口を出るのはまるで悪魔の囁きだ。

「い、いけません。貴女には、シャレット伯様がいらっしゃいます」

「あら、綺麗な貴方でも流石に意味は分かるのね。でも貴方はあたくしとジュスタン様の事情を察したはず。今更あたくしに気を遣ったからといって、あたくしは気にしないわ」

「…いえ、駄目です。…自分には、愛する妻がいますから」

 甘く蕩けるような誘いは、アンドレという愛しい人を思い出すことで断ち切った。彼女は、彼女だけは悲しませたくない。

「やはり貴方は、とても綺麗ね。美しすぎて、眼が眩むわ。あたくしの好きな顔をしているのに、残念ね」

「…あの、それでは自分は、失礼させていただいてもよろしいでしょうか?」

 早くこの場から立ち去りたかった。綺麗ではないと思っていたけれど、ここにいたら自分は穢れてしまう。左掌に感じていた柔らかいシーツを離して、体を起こす。やけに冷静で、落ち着いて言葉を紡げた。それは軽蔑からか、それともまだ状況を飲み込めていないからだろうか。

「いけない子。どうしてここへ来たのか、忘れてしまったようね」

 言ってエリザは同じく体を起こすと、ベッド脇に置いてあるサイドテーブルの引き出しを引いた。中からは数字の書かれた小さな紙が出てくる。ロランは、それをよく知っていた。自分の労力と引き換えに得るためのものだ。

「あたくしの要望を受け取っていただけないなら、これは差し上げられないわね。本当に残念だわ」

 その微笑みはエリザがエリザの立場であるが故に身に付けた業だ。こうやって自分の思い通りにしてきたのだろう。財力はときに権力になる。

 断ち切ったと思っていた鎖は、再びロランの体を縛った。愛する者を悲しませることは出来ないが、これが得られないともっと悲しませることになる。その先に見えるものは、死だ。自分はどうすればいい。迫られたことのない選択肢は、思っていたよりもやけに明確だった。

「貴方は、美しすぎるわ。このくらい汚れを知らないと、ジュスタン様の傍に付いてはいられないわよ。愛など要らないの。あたくしは、ジュスタン様しか愛せないから。ただ、寂しさを紛らわせて」

 悪魔の囁きは、いつか天使の宣言へと変わる。告げる言葉は、罪の意識さえ軽くした。そうこれは、愛ではない。故に、アンドレに対する裏切りではないのだ。

そうやって自分に言い聞かせて、歯を喰いしばりながら行為に耐えた。いつからかはただぼんやりと、潮の香りと草の根の匂いが交錯する。あの懐かしい古里の土の上に咲く草花の、あの匂いだ。どうしてそれが今ロランの鼻腔を擽ったのかは謎だが、ただ漠然と、帰りたいと思っていた。あぁ、いや、帰ろう。帰るべきだ。愛しい者のいる場所へ。彼女の名前はアンドレ・ミッサ。いや、ついこの間アンドレ・ヴァレリーになったばかりだ。その人の元へ帰ろう。古めかしい絵描道具と、小さなカンバスを持って。

そう、ここだ。この家だ。自分たちが、暮らす世界は。

「お帰りなさい、あなた。疲れたでしょう?」

 扉を開けると、アンドレが柔らかい笑みで迎えてくれた。あれは夢だったのだろうか。疲れた自分を戒めるための、途方もない夢。やっと帰ってきた。今、ここにあることをロランは感謝する。

 帰ってきたのだ。古めかしい絵描道具と、小さなカンバス、それと、白くて薄い数字の書かれた紙を持って。

 気付けば自分が画家になって一年。暑い夏がもう一度廻ってくる。自分は、画家として生きられているだろうか。認められる絵を描いているだろうか。また仕事に戻らなければ。生きるためなら、何だってする覚悟だ。

それからロランは、更に一年中野山を駆け回った。気付けば秋、冬が過ぎ、春、夏がまた廻ってくる。秋には透き通るような空の色と黄金に光る山枯れを、冬には押し付けるような灰銀の雲と雪で濁った遠い街並みを描く。春には芽吹いた種を包むように霞が棚引く空気を、夏にはからりとした鮮やかな天を仰いだ。

この一年、本当に色々な場所を転々としてきた。色々と思うところはあるが、好きなことを仕事に出来るのは最高だ。絵を描いて資金が貰えて、それで生活が豊かになる。なんて素晴らしいのだろう。絵の才能を与え給うた神に、ロランは心から感謝した。

だが一枚の絵が出来上がるのに結構な時間が掛かるので、思ったより余裕がないのが現状である。アンドレに会えない時間は寂しいけれど、彼女のためになるならどこの景色でも描いてきた。たまには空以外も描いてみたいとは思ったけども、それが貴族‐パトロン‐の依頼なら仕方がない。自分には、彼らがいないと生きていけないのだから。どうすればもっと綺麗に描けるのだろう。どうすればもっと期待に応えられるのだろう。もっと色を濃く、薄く。美しくないものは描かなくてもいい。だってそれを描いたら美しいものとして評価されないから。そうすることで自分は絵を描き続けていられるのだ。望むならば、空虚な世界でいい。

そうやって筆の振るい方を変えてきた。柵を柵と感じずに、限られていることを限られているとは思わずに、この環境が至高だと考えを捻じ曲げて来た。画家という立場で生きることが自らの人生の主軸となったのだ。だがロランは、それでよかった。ロランには描くこと自体に意味があるからだ。何の色をカンバスに乗せようが、関係ない。

 やがてロランは、ひとつ名案を思い付く。今まで多くの景色を見てきたが、どこも素晴らしいところだった。だけれどもあちらこちらに出掛けるのは若くてもやはり骨が折れる。今描くべきでない景色でも、いずれ需要が出てくるはずだ。そのような時に移動せずに描けたら、なんて楽なのだろう。なので彼は、求められたカンバスを完成させるのと同時進行で様々な場所をスケッチして回った。色さえ覚えていれば、どこにいても、愛しいアンドレと共にいたって描ける。我ながらいいアイデアだ。自分で自分を褒めてやりたいくらいだった。そうと決めたらこのような場所で油を売ってはいられない。とは言っても、自分は油を売る方なのだが―――。なので適当に絵を紙の端に描き付けて、すぐにアンドレの元に帰ることにした。

「待ってろよアンドレ、今回はすぐに戻るからな!」

 独り言ちて、遠い妻に想いを掛ける。過ぎる時は取り返せないが、これからに賭けよう。逸る気持ちはこれからのことに。これからの生活に。一度や二度の過ちは、いつか薄れて悪ではなくなる。

「ただいま!」

「ロラン!? 今回は早かったのね! お帰りなさい!」

 帰ってくると、アンドレが眼を円くして出迎えてくれた。とても驚いているようだ。それもそのはずだ。アンドレはロランの名案を知らないのだから。だからロランは彼女に、早く帰って来た理由を話す。

「スケッチ…。こんなにたくさん…!」

 これまたアンドレは眼を円くして反応した。ばさばさと音を立たせて、ロランの鞄からスケッチが大量に出てくる。

「これだけあれば、あとはここでも絵は描けるだろ? ずっとこれでアンドレと一緒にいられるんだ!」

 そう。ロランにとっては、絵を描くこと自体が大切なのである。

「ロラン! 嬉しいわ! やっぱりロランは変わってなかった! 私の愛するロランよ!」

「俺が、変わった…?」

「ううん、こっちの話! 気にしないで!」

 アンドレは、長旅で少し痩せたロランの体に抱き付く。元々痩せ型なのに更に細くなった夫を感じると、自分が愛する人の為に美味しいものを振舞いたくなった。そう思うと、やはり体格的には変わったのかもしれない。

 いや、変わることはない。だって現に自分の前には、普段と変わらないロランがいるではないか。約一年前、何かが変化したようだとただ漠然と感じていたアンドレには、優しい言葉を掛けてくれるロランだけが全てだ。

「そう。これからどんどん絵を描いていくぞ!」

 ロランはアンドレの言葉を少し訝ったが、すぐに持ち直して自分の仕事に打ち込んでいった。部屋に籠り、一心不乱にカンバスに向かっている。はずだ。

 『はず』というのは、家に帰ってから一週間、ずっと自室という名のアトリエに引き籠って顔を見せてくれないからである。妻である自分が訪ねても、部屋に入れてくれないのだ。一日三食の料理は受け取ってくれるものの、入口で話すだけで用が済んだらロランに扉を閉められてしまう。今朝だって扉を叩いて愛するロランを呼んだのに、朝食のパンとスープを受け取ってすぐ、部屋に帰って行ってしまった。

 一瞬しか見られなかったが、ろくに食事も摂っていないらしく頬はこけ、眼には隈が出来ている。睡眠も満足にしていないのだろうか。ずっとアンドレと一緒に、その言葉は本当に嬉しかった。しかし今ロランがしていることは何だ。一緒にいるとは同じ場所にいるということだけではない。

「…ここにいても、何も変わらないじゃないの…」

 アンドレはロランの隣の部屋で、独り言ちる。体は隣にいても、心は独りだ。これではどこに誰がいても、何も変わりはしなかった。

そのまま少しときは過ぎ、ある朝ロランはカンバスを抱えて外に出る。久しぶりの陽光は、眼に刺さる程眩しい。思えば、家に帰ってきてからずっと部屋に籠りっきりだった。絵が出来上がったので、一度侯爵のところへ届けなければ。

 その玄関の扉が開く音を遠く聞きながら、アンドレはアトリエの隣の部屋で布団に蹲る。ロランが顔を見せなくなってから、心配でちっとも眠れない。だけれども、どこかへ去っていくロランを引き留める気にはならなかった。だってこのままでは、どこにいても同じだから。それでも、もしまた帰ってきたら愛してくれるだろうか。笑顔で名前を呼んでくれるだろうか。やり直してくれるだろうか、という思いで一杯だった。しかしそれならまず自分から動かなければ。帰ってきたら、柔らかいパンと美味しい葡萄酒、それにたくさんの料理を用意して待っていよう。温かい笑顔で、明るく迎えてあげよう。お仕事お疲れ様、と優しく包んであげよう。こうなってもなお、まだ自分はロランのことを愛しているから。ロランは…、いや、やめよう。きっと、心は一緒だ。

「今、なん、と…?」

 家を出てしばらく経った。窓の外でまだ小鳥が鳴いている。思ったよりも早く家を出ていたらしい。走る体力がないので朝一番で馬車に乗り込み、侯爵の屋敷へと走ってもらった。屋敷の扉を叩くと、従者が出迎えてジュスタンの部屋へと案内してくれる。

 だが絵を見た彼が発した言葉は、耳を疑うものだった。

「耳でも悪くなったのかね? 画家なら耳が良い、悪いは問わぬが…、良いだろう。再度言う。私は君の絵を買ったのだ。君の絵をくれないか?」

 それでも言い返したその口ぶりは、間違いなどないと確固たる信念を持っている。淡々と述べられるそれが、とても胸に刺さった。ロランは弁明でもしようと、苦笑混じりに答える。

「いえ、あの、お言葉ですが、これは紛れもなく自分が描いたんです。違いなどありません」

「いいや、違う。これは君の描く景色と違う景色だ。特にこの空は、いかんともしがたい。君の絵、いや、君の空じゃない。美しくないね」

 きっと侯爵の方が眼が悪くなったのだろう。そう思って一縷の希望を持っていたが、さして興味のなさそうに一瞥する行為がその望みを破壊する。どうあっても今まで後押ししてくれた支柱が崩れることは、ロランに焦りしかもたらさないのだ。

「そんな…」

「前に言ったはずだ。私は君の空に惚れ込んだのだと。君の空はここではない、どこか遠くの世界に私を連れて行ってくれていたのにこの絵ではもうどこへも行けないね。このままでは、君を買った私の名に傷が付いてしまう。次に君の空を描いてくれなければ、君に暇を取らせなければいけない」

 暇を取らせる。その意味を朦朧とした意識の中で理解した瞬間、ロランは零れる程眼を見開いて侯爵に縋る。

「そんな! それだけはっ! 画家としてやっと認められたんです! 描きます! 描かせてください!」

 そのみすぼらしい懇願に冷やかな目線を送って、ジュスタンは答えた。

「…では、私が初めて買った絵をもう一度描いてくれるかね。同じものなら、違いが分かるだろう?」

 違い? 違いとは何だ!? 今日はやけに違いをぶつけてくる。考えたくはないが、自分の絵に飽きたという理由なら納得がいかない。そちらが勝手に画家として祀っておいて、気に入らなくなったら放り棄てるなんてこと、絶対に認められない。加えて、エリザからの言葉が脳裏に過る。あの方はいつもそう。誰のことにも興味がないみたい。本当に興味がなくなったのだろうか。自分勝手なそのような思いは、ロランの頭に血を上らせた。

 やがて帰ってきたロランは、怒りに任せて家の扉を勢いよく閉める。その音に一瞬肩を震わせて、おずおずと部屋の奥からアンドレが顔を覗かせた。

「あなた? 大丈夫?」

「俺の空じゃないだと…!? 勝手なこと言いやがって…! 誰のために描いてると思ってるんだ…! もう一度認めさせてやる! 同じ絵? 描いてやるよ!」

 明るく迎えてあげようと思っていたアンドレの計画は、そこで全てが失敗した。何かを呪いの呪文のように謳い上げるロランを見て、アンドレは心から心配する。

「あなた? 何ぶつぶつ言ってるの? あなたってば?」

「うるさいな! 黙ってろ!」

「っ、何よそれ!? 心配してるのが分からないの!?」

 そこからはもう、売り言葉に買い言葉だ。今までの想いが堰を切って溢れ出してくる。そういえばこれまで大喧嘩なんて一切したことはなかった。それがいけなかったのだろうか。二人の悪いところは眼を瞑って、自分が我慢すればいいのだと思っていた。

「俺の、画家の命が掛かってるんだ! お前には関係ないだろ!?」

「そんな言い方…、酷いじゃない! 画家の命なんてどうでもいいわ! この前だってろくにパンも食べないで…、あなた自身の命すら危ういじゃないの! こんなことになるなら、絵描きになんてならない方がよかった…!」

 画家として生きるのではなく、一人の人として生きて欲しい。画家を守って死んで欲しくはない。だがその言葉は、ロランの昂ぶっていた怒りに更に火を点けたようだ。アンドレには、ロランの受けた宣言を知らない。

「お前も、絵描きの俺を否定するのか…? ふざけるな! 誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ!」

「パンもお金も家もいらないわ! ボーマルシェ侯爵と会わなければよかったのに…」

「侯爵を侮辱することはもっと許せないことだぞ! 俺の絵を初めて認めてくれた人だ!」

 いっそ、ジュスタンを否定した方が楽だったのだろうか。認めてくれなかった悔しさはあれど、心の奥底から否定する気にはなれなかった。だって彼は、路肩にいたちっぽけな自分に手を差し伸べてくれたのだ。空よりも一瞬眼を奪われた、美しい人。地べたに座っていたあの頃には戻りたくない。その人はたくさんのものを自分にくれた。地位も、名誉も、生活も、資金も、欲しいものは全て貰った。だったら画家として、その人のために華々しく咲いていたい。いつ、枯れるか分からないけれど。

「初めて認めてくれた人…? ロランにとっては、お金や物が認めた代わりになるの?」

「当たり前だろう?! それ以外に何がある?!」

 それを言われたとき、もう戻れないとアンドレは悟った。確かに欲しいものはたくさん貰った。それはロランのお蔭だ。ロランが頑張ったから得られたものだ。だから自分は彼のために何かをしてあげようと、必死になって考えた。ロランが向こうの世界では得られないものを、自分が捧げてあげようとしたのだ。だけれども彼には、きっと何もあげられないのだろう。想いを馳せて家を保っていたことも、愛しく想いながら家計を考えたことも、彼は知らない。

「…もうやっていけないわ。田舎に帰ります」

 急にアンドレが冷めたので、ロランは拍子抜けして最後の言葉を言い放った。負けたなら大人しくしていればいい。

「帰りたいなら帰ればいい。仕事の邪魔をするくらいならむしろそうしてくれた方が助かる」

「っ! …馬鹿!」

 最後の希望は、すぐに砕かれた。少しでも引き留めてくれれば。そう甘く考えていたが、やはり無理だったようだ。言われた単語を実感してから、眼の端に熱湯が溜まってくのを感じる。視界が少しづつ歪んで見えてきた。

顔を伏せて逸らして、アンドレは駆け足で家を飛び出す。ロランには悲しませたくない、細やかな配慮だ。

「ちっ、仕事だ!」

 ロランはアンドレが出て行った激しい音を煩いと感じながら、自室‐アトリエ‐に向かった。

「違うね」

「…そんなこと」

 絵が描けたので、再度侯爵に掛け合ってみる。が、彼の受け答えは変わらなかった。何も違わない。侯爵が初めて買った自分の故郷の、あの景色だ。

「言ったはずだ、今度違う空を描いたら…」

「待ってください! これは三日三晩、何度も何度も絵の具を練って同じ風景の色を作り上げたんです! もっとよく見てください! お願いします!」

 緑は同じ緑の色。茶は同じ茶の色。空は同じ空の色だ。違うことはない。故郷の風景はしっかりと覚えている。

「そういうことではないのだよ、ロラン・ヴァレリー。君、これを描くにあたって景色を見に行ったのかね?」

「何を、言って…? 同じ絵を描くのに、わざわざ見に行く必要ないでしょう? 昔自分が描いたものならなおさらです」

 そう、覚えている。あのときの色は、確かに頭の中にある。何が違う!?

「やはりな。君の絵からは、もうどこにも行けなくなってしまったのだよ。カンバスに収められただけ、そこに広がっている世界が見えないね」

 カンバスに収められただけ? 景色を見に行く? 何を言っている。画家として忙しい自分に、そのような時間割けるわけがない。だって景色は手元にあるのだから。景色は部屋に、撒き散らされているのだから。食事さえ惜しんで描き続けたのに、それはないだろう。

「…おっしゃる意味が分かりません。風景画は、そこにある景色の一角を切り取って描いたものです。カンバスの外に何が広がっていようが関係ございません」

描かなければ。もっともっと美しく良い物を。認められるために、描き続けなければ。今度は何を描けばいいのでしょうか? 肖像画ですか、抽象画ですか? お願いだから、画家でいさせてください。

「…分からないようであればもういい。よく頑張ったね、ロラン・ヴァレリー」

「え? 待ってください! 待って!」

 だが待っていた言葉は、自分の望んだものとは違っていた。侯爵は横に付いていた執事に何か一言告げたかと思うと、掛けていた椅子を立って奥に下がってしまった。後を追いかけようとしたロランは、傍にいた執事に取り押さえられる。体力が落ちていたので、執事長パスカルの老体でも簡単に抑え込まれてしまった。その後は簡単だ。パスカルに呼ばれた幾人かの執事がロランを抱え上げ、屋敷の外に放り出されたのである。おかしいと思ったのだ。今日に限って侯爵の傍にいるのはロマではなく男の執事。きっと初めからそうするつもりだったのだろう。その土の味は、とても不味くて、とても痛かった。そのようなことを考えられる程、自分はまだ夢に生きているのだろうか。何とも呆気ない話だ。

 自分は無理に、枝葉を伸ばし過ぎたのかもしれない。生い茂ることに夢中になって、根本を忘れていた。腐っていることにも気付かずに、足元から崩れていく。願わくば、自分は、自分はあの天を這う葡萄の蔦になりたかった。何も考えず示された順路だけを行く、あの蔓のように。天を泳ぎたかった。空に近くて、うらやましかった。

 重い扉が閉まると、現実に引き戻される気がした。けれども諦めきれなくて、今ある自分を否定する。認めたくはないのだ。それは、空が描けなくなった自分も認めてしまうことになるから。そしてその否定は対人へ、世界へと拡がっていった。誰も見てくれない怒りは、自分の仕事へと向かう。しかし、こんな物があるから、と本気で棄てることは出来なかった。

いつからだろう。大好きな物事が、パンに見え始めたのは。好きなことをしている時間が、労働になったのは。それでも、心の底で好きだから、怒りの淵に投げ捨てても何度も何度も拾い上げて来たのだ。

追い出されてからロランはとぼとぼと家に帰った。どの道を通って来たのか謎な程、呆然としている。木の扉を開けても人の温もりはなく、薄暗く閑散としていた。身勝手ながら帰ってきてくれるのではないか、と薄く思っていたが、本当に出て行ったらしい。

「っは! ははっ、あはははは…っ!」

 どうしてか可笑しくて、乾いた笑いが止まらなかった。しかしこの三日無理をしたせいか、笑う体力すらなくすぐに疲れる。残りの体力で一縷の希望を持ってありとあらゆる部屋を回ったが、やはりそこに愛する人の姿はなかった。

 しばらくしてようやく諦めたのか、カンバスが並ぶ自室‐アトリエ‐に力なく座る。いや、座るというよりかは、壁に凭れ掛かって頽れた、という方が正しいだろうか。そこで初めて、絵描道具を手放した。それだけは道端に落とさないようにと必死だったのか、じわじわと手の痺れを感じる。その実感を味わって、初めて怒りに目覚めた。

「なんでだ…!? 何が気に入らないんだ! 空か? 空の色か!? 何がっ?!」

 手元にあるありとあらゆる物を壁に、床に投げ、発散しようとする。しかし頭に浮かぶのは全て、違うという言葉とそれに対する憤りだった。自分はまだやれる。まだまだ期待に応えられる。見る眼がない奴になんか負けて堪るか。好き勝手言いやがって。

空を描こう。完全なる空を。これで文句はないはずだ。絵描道具を開け、青と白だけが異様に減っている絵の具を引っ手繰る。油を塗り込み、絵筆で一心不乱に混ぜた。もう動く体力も少ないので、床に手当たり次第塗っていく。

「…違う、この色じゃない! これも違う!! これもっ!!! うわああああああああああああああああ!!!!」

 それでも望んだ色が作り上げられなくて、ロランは絶叫した。悔しくて悔しくて、その気持ちからロランを最期の行動に移させる。床を這い、壁を上り、空色でないところがなくなるまで描き続けた。何度も何度も、その見せかけの空に足を掬われそうになる。幻と現を交互に視て、自分の居場所さえも見当が付かなくなってしまった。もうきっと、自分がどこにあるのか分かっていないのだろう。それでも大切な物は、最後まで手放さない。

 筆を置いたのは、いつだったのだろうか。正確には、置いたというより滑り落ちた、と称するべきか。全てを空色で埋め尽くしてから、ロランの手には力がなくなった。彼は独り、空の中で漂っている。否、ただ空色に塗られた椅子だったものに腰かけているだけだ。自分は夢を視ているのか。それでも彼は幸せだった。満足行く物に仕上がっている。

「描けた…。この色なら満足だろ…? ははっ…」

 空虚であるはずの空間に、ロランは過去を見出す。愛しい人との、一番大切な思い出だ。

「……あぁ…、この空の下でアンドレと語り合って、楽しかったなぁ…。さっそく、アンドレにこれを見せなきゃ。初めて、俺の絵を好きだって言ってくれた、愛しいフィアンセ。…そういえば、アンドレはどこに行ったんだ? きっと葡萄畑だな。この時間アンドレはいつも家の手伝いをしてるんだ。…だって、ずっと鮮やかな空の色のままなのに、まだ俺に会いに来てないし。いつも美味しい葡萄酒と柔らかいパンを持っていたなぁ…」

 口から、ひゅうひゅうと息が漏れる。自分はそれに乗せてちゃんと言葉を発していられているだろうか。アンドレ。愛しいアンドレ。自分の最愛の女‐ひと‐。会いたい。一眼でいい。会って今までのことを謝って、またやり直そう。だってずっと俺らはそうしてきたじゃないか。

「そうだ…。ここを出て会いに行こうか。本物の空も、近頃見ていないような気がするな。本物の、空…? ここはどこだ? 本物の空の下じゃ、ない…?」

 首すら動かないので、眼だけを辺りに投げる。拡がっていると思っていた空は、閉ざされた空間であったことを思い出した。ロランは絶望する。追い求めていたものは何だったのか。ただ絵が描きたくて、アンドレと幸せになりたくて。しかし自分が描いた物は何だ。先程まで満足の行く出来だったはずなのに。冷たくて、魂の見えない物だ。これは絵などではない。ただの、色が乗った平面だ。

違う。そうだ、確かに違っていた。それに今頃やっと気付くなんて。だがもう後悔も出来ない。それすら頭で理解できない。ただただ哀しくて空しくて。しかし枯れた涙も出なくて。

「…だから、こんなに、冷たいの、か…?」

 ロランは、そこで全てが凍えた。




     第五章 ‐評価‐

『皆さん、今晩は。本日も心行くまで、芸術の神髄に浸っていきましょう。本日取り上げるのは、中世フランスにて密かに活躍した画家“ロラン・ヴァレリー”を紹介したいと思います。活躍したのは、僅か二、三年。しかし彼は、その短い間に名を残しています。なぜなら、彼には武器がありました。それは、どこまでも拡がって行くような空の景色です。画家として生涯を終えた彼には、一つ謎があります。それは彼が人生の最期に、自室の壁一面に空を描いたということです。死期を感じた彼の一種の憧れか、それとも限界か―――。それでは、彼の人生に一体何があったのか、さっそく読み解いて行きましょう』


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