声無き想い
僕は子供の頃から無口で、あまり他人と関わる事が得意じゃなかった。
いや……と言うより、他人と関わりあって煩わされるのが嫌いだったんだと、今はそう思う。
だから、いつも一人で、自分が造った人形で遊んでいた。
恐れていたと言ってもいいだろう……。
とにかく僕は、誰かに触れられるのさえ怖かったんだ……きっと……。
そんな僕が人形に興味を持つようになったのも、自然といえば自然な流れだったのだと思う。
何しろ余計な事は言わないし、何より僕の期待した通りの答えを返してくれるんだ。
人形は僕にとって、掛け替えの無い者になって行った……。
でも、僕にだって人を好きになった経験はある。
温もりを求めた時代がある。
そう……あれは高校生になったばかりの頃だったろうか……。
長い髪……しなやかな肢体……見る度に胸がときめいた。
同じクラスになれた事を神様に感謝した。
そんな事は生まれて初めてだった……。
恋……なんだろうと思う。
何しろ今まで経験が無かったのだから、それが恋かどうかなんてはっきり解らなかったんだ。
けれど、友達もいなかった僕にはそれを相談出来る相手などいる筈も無く、勿論その子に声をかけるなんて事も出来ず、三年間ずっと想いは燻ったままだった……。
高校を卒業すると僕は就職、彼女は進学と、それぞれ歩む道が違った。
そのまま彼女の顔を見る事も無くなり、僕の中の想いはそのまま静かに消えて行く筈だった。
就職してからも、僕は相変わらず人付き合いが苦手なままだった。
しかし、どこにでもお節介な人というのはいるもので、何かにつけて僕を誘う男が同僚にいた。
何度断ってもしつこく誘われて根負けした僕は、渋々付き合いで居酒屋へ行く事になった。
もっとも、僕だって人並みにお酒くらいは呑む。
ただ、静かに一人で呑むのが好きなのだが……。
でも、その店の暖簾を潜った瞬間、僕は同僚の男に感謝したい気持ちになった。
「いらっしゃいませ! お二人様ですか?」
彼女だ……。
学生時代、僕がずっと焦がれていた彼女が目の前にいた。
「あれ……? あー! もしかして!」
驚いた事に、彼女は一度も口をきいた事の無い僕の事を憶えていた。
何故、彼女が僕の事を憶えているのかなんて、そんな事はどうでも良かった。
理屈抜きに嬉しかった……たったそれだけの事が、たまらなく嬉しかった。
「や〜……懐かしいね〜、元気だった? 確か就職したんだよね? 同窓会に来なかったから、どうしてるかなって思ってたんだ」
同窓会? そんなのがあったのか……。
僕の所には知らせが来なかったんだよ……。
「ちょっと……忙しかったんだ」
初めて彼女と話せた。
でも、初めての会話が嘘か……。
「君はバイトしてるの?」
我ながら馬鹿かと思った。
何て下らない事を訊くんだろう……。
「うん、まだ勤め始めたばかりだけどね。 学費は親持ちだから、お小遣いくらいは自分で稼がないとって思って」
「そうなんだ、偉いんだね」
「あ、ごめんなさい! お席へご案内します、どうぞ」
店の奥から店長らしき人の声がして、彼女は一瞬で同級生から店員に戻った。
もう少し話していたかったのだが、それは仕方ない。
座敷になっている席へ案内され、靴を脱いで座布団に座ると開口一番、同僚の男は僕に訊いて来た。
「可愛い子だな、知り合いか?」
「うん、高校の同窓生なんだよ」
「へえ〜……今フリーかな?」
「どうだろうね……」
やめてくれよ……。
「ちょっと声かけてみるかな? 俺さ、ああいう子って好みなんだよ」
やめてくれってば……。
その時、彼の携帯電話が鳴った。
「何だよ……はい? ああ、今、居酒屋にいるんだ。 え? 違うよバカ、男と一緒だ」
どうやら恋人からの電話らしい。
どうして恋人がいるっていうのに、他の女性に声をかけようなんて思うんだろう……。
「あ? 何で……解った解った! 喚くなようるせえな……おい、ちょっと出てくれよ」
「え? 僕が?」
「ああ。 本当に男と一緒なのかどうか、証明しろって言いやがってさ……ったく!」
僕は恐る恐る彼から携帯電話を受け取ると、それを耳に当てた。
「もしもし? あ、はい、そうです。 僕は彼の同僚で……いいえ、普通の居酒屋ですけど」
彼の恋人は捲し立てるように、矢継ぎ早に僕に色々な質問をぶつけて来た。
「はい、何の変哲も無い、普通のお店ですよ。 え? 場所ですか? えっと……バス通りの」
「おっと! 余計な事は言わなくていいんだよ!」
そう言うと、彼は僕の手から携帯電話を奪い取り、通話口をガシャガシャと擦ったと思ったら、いきなり電源を切ってしまった。
「ふう……危ねえ危ねえ」
「どうしたんだい? 突然……」
「バ〜カ! せっかく可愛い子を見つけたってのに、この場所なんて教えてみろ。 通えなくなっちまうだろうが」
「どうして? 呑みに来るだけなんだから、そんなに気にしなくても……」
「勘繰られたら色々やり難いだろうが。 携帯はお前が落として壊した事にしとくからな」
僕は不実な事が嫌いだ。
そして、不実な事をする人間も嫌いだ……。
彼女が注文の品を運んで来る度、彼は何かと話しかけていた。
彼女は嫌な顔一つせずに、それに逐一答えていた。
何故だろう……僕はそれがとても厭だった……。
それからの僕は、毎日その居酒屋へ通った。
彼女が休みの日以外、毎日欠かさず……。
いつもそこへ行けば、彼女は笑顔で迎えてくれた。
僕にとって、そこは楽園だった……。
だけど、そんなある日……。
「この間あなたと一緒に来た人、あの人って面白いね」
彼女は、僕の同僚の事を話し始めた。
「遊びに行こうって誘われてさ、面白そうだからOKしちゃった」
面白そうだから……?
たったそれだけの事で……?
「会話のテンポがいいって言うのかな? とにかく退屈しないのよね」
その日呑んだお酒は、何の味もしなかったように思える。
このままでいいのか?
このままだったら、僕はただの同窓生で終ってしまうんだぞ?
僕には 「それがお前にお似合いだ」 という声と、 「頑張って彼女を誘ってみろ」 という声が聞こえていた。
それが誰の声なのかは判らないが……。
そして……。
僕は店が終る時間を見計らい、思い切って彼女を誘ってみる事にした。
駄目かもしれない……でも、それで何かが変わるかもしれない。
僕は変われるかもしれない……。
電柱の陰で、僕は彼女を待った。
そろそろ店もおわる時間だ……そう思った時、彼女が店の裏手から出て来るのが見えた。
思い切って声をかける為に電柱の陰から出ようとした時、彼女の携帯電話が鳴った。
「はい……ああ、何だ。 うん、今終ったとこ。 ……え? うん、相変わらず毎日来てるよ」
毎日来てる?
ひょっとして僕の事かな……?
「うん、失敗したな〜って思ってるんだ〜……。 いや、懐かしかったのは本当なんだけどさ。 え? やだあ、冗談やめてよ! 何であたしが、あんなのと付き合わなきゃなんないのよ」
あんなの……?
それ、僕の事かい……?
「いるんだかいないんだか、全然存在感無かったじゃん? あたし一度も喋った事無いしさ、どんな声してんのかな? って思って話しかけたのよ。 そうしたら懐かれちゃってさあ! あははは! 野良犬に餌あげたら付いて来ちゃったって感じだよ」
野良犬か……。
僕は……野良犬と同じなのか……。
「それよりさ、ちょっと面白い男見つけたんだ。 結構金回り良さそうだから、色々貢いでくれそうだよ。 ……まさかあ! そんなに簡単にはさせないよ。 とりあえず様子見かな? え? ああ、あいつは嫌。 あたし、プライドは売らないの」
僕は静かに彼女へ歩み寄った……。
「なあ、お前さ、彼女と友達なんだろ? 何か知らないか?」
休み明け、同僚の男は僕に訊いて来た。
「いや、僕は単なる同窓生さ。 話したのもあれが初めてだしね。 で、何かあったのかい?」
「昨日、約束の場所に来なかったんだよなあ……。 携帯も繋がらなかったしさ」
「そうなのかい? じゃあ何か急用でも出来たんじゃないかな?」
「店の方にも連絡無しで休んでるって言うしさ。 俺、フられちゃったのかな?」
「いいじゃないか。 君には恋人がいるんだろ?」
「それはそうだけどよ……たまには違ったのも拝みたいじゃんか」
「そんなものかい? 僕には理解出来ないな」
本当に……僕には人間が理解出来ない……。
あれから僕は居酒屋に通うのをやめた。
行ってもつまらないし、何よりお金の無駄だと気付いたからだ。
そんな事に使うより、僕は彼女の為にお金を使いたいんだ。
「ただいま」
返事が無い事は解っている。
僕は一人暮らしなのだから。
でも、僕を迎えてくれる存在はある……。
「今日も何事も無く、普段と変わらない一日だったよ。 平和が一番いいね」
僕は、その硬い唇にそっと口付けた。
彼女の表情はいつも変わらない。
手も足も動かしはしない。
でも、僕にとっては掛け替えの無い、大事な宝物。
今、殺風景な僕の部屋には、物言わぬ人形が一体……。