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そうなんです。遭難です。  作者: 双鶴


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第2話

北村毅は、遭難していた。

場所は六畳一間。標高ゼロメートル。気温は冷蔵庫以下。冷蔵庫の中は空っぽ。つまり、冷蔵庫よりも生活が寒い。

「俺の部屋、標高3000メートルくらいあるんじゃないか?」とつぶやく。誰も笑ってくれない。誰もいないから。


朝。目覚ましはない。目覚めもない。寒さで目が覚める。

毛布の中で丸まりながら、指先の感覚を確かめる。

「これ、遭難者の初期症状じゃないか?」と冗談を言う。

でも、冗談が冗談に聞こえない。

笑いの代わりに、咳が出る。乾いた咳。空腹の咳。孤独の咳。


冷蔵庫を開ける。空っぽ。

カップ麺の空容器がひとつ、転がっている。

「お前、昨日の俺を支えてくれたな」と語りかける。

湯気の記憶だけが、温もりだった。

その記憶にすがるように、容器を抱きしめる。

プラスチックの冷たさが、逆に心地よかった。


空腹は、創作の敵だ。そう思っていた。

でも今は違う。空腹は、創作の味方かもしれない。

胃が鳴るたびに、遭難者の気持ちがリアルに浮かぶ。

「この腹の音、雪山の風音ってことにしよう」

そう言いながら、ペンを握る。

手が震える。寒さのせいか、感情のせいか。

いや、もはや区別がつかない。

身体と心が、同じ震え方をしている。


書き始める。

雪の描写。風の匂い。足元の不安。

それらは、実体験ではない。でも、部屋の寒さと空腹が、リアリティを補ってくれる。

言葉が、鋭くなる。比喩が、冴える。

まるで、命がけの創作。

いや、命がけの模擬遭難。


目の前の文字が、雪に見えてくる。

白い紙の上に、黒い足跡のような文字が並ぶ。

その足跡が、どこかへ向かっている。

どこへ?

わからない。でも、進んでいる。

それだけで、涙が出そうになる。


朦朧としてくる。

視界がぼやける。

ペン先が、雪の中に沈んでいくように感じる。

「俺、今、遭難してる。生活で。創作で。感性で」

その“遭難感”が、言葉を研ぎ澄ませる。

言葉が、刃物になる。

切れ味が増す。

でも、切れているのは紙ではなく、自分自身かもしれない。


時間の感覚が消える。

昼か夜か、わからない。

スマホの時計は止まっていない。でも、心の時計は止まっている。

その静止した時間の中で、毅は書き続ける。

雪の中の孤独。風の中の祈り。

それらが、彼の部屋の中に満ちていく。


そして、ふと気づく。

「俺、今、遭難してる。でも、書けてる」

その矛盾が、彼を支えていた。

遭難しているからこそ、書ける。

書くことでしか、生きられない。

それが、彼の生存戦略だった。


北村毅は、ペンを握り直す。

震える手で、震える言葉を書き続ける。

遭難者の視点で。遭難未満の生活から。

そして、紙の上に雪が降り積もるように、言葉が静かに並んでいった。


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