第1話
北村毅は、遭難していた。
場所は六畳一間。標高ゼロメートル。気温は冷蔵庫以下。冷蔵庫の中は空っぽ。つまり、冷蔵庫よりも生活が寒い。
「俺の部屋、標高3000メートルくらいあるんじゃないか?」とつぶやく。誰も笑ってくれない。誰もいないから。
朝。目覚ましは鳴らない。そもそも持っていない。
目覚めは、寒さによって訪れる。
毛布の中で丸まりながら、指先の感覚を確かめる。
「これ、遭難者の初期症状じゃないか?」と冗談を言う。
でも、冗談が冗談に聞こえない。
笑いの代わりに、咳が出る。乾いた咳。空腹の咳。孤独の咳。
スマホを開く。通知はゼロ。メールもゼロ。
唯一届いていたのは、大学時代の友人・佐々木の訃報だった。
「滑落死。山で。あいつ、登山なんてしてたっけ?」
記憶をたどる。佐々木は、文芸部の隣の登山サークルにいた。
「文芸と登山。どっちも、落ちると痛いんだな……」
冷蔵庫を開ける。空っぽ。
カップ麺の空容器がひとつ、転がっている。
「お前、昨日の俺を支えてくれたな」と語りかける。
湯気の記憶だけが、温もりだった。
その記憶にすがるように、容器を抱きしめる。
プラスチックの冷たさが、逆に心地よかった。
創作は止まっていた。
アイデアは枯れ、言葉は凍り、筆は沈黙していた。
「俺の脳内、雪崩起きてるな」と冗談を言うが、笑えない。
笑いの代わりに、ため息が出る。ため息が、部屋の温度をさらに下げる。
佐々木の死が、心に引っかかる。
「滑落か……俺も創作で滑ってるしな」と、冗談にもならない冗談をつぶやく。
でもその瞬間、何かが閃いた。
「遭難小説、書けるかも。俺、遭難してるし」
机に向かう。ペンを握る。手が震える。寒さのせいか、感情のせいか。
「佐々木、お前の死、俺が書くよ。笑われるかもしれないけど、書くよ」
そして、最初の一文を書き始める。
山は、静かだった。俺の部屋より、ずっと暖かかった。
その一文が、雪のように紙の上に降り積もる。
静かに、冷たく、でも確かに。
北村毅は、遭難者として、作家として、ようやく一歩を踏み出した。




