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第5章:歴史からの警告

三週間後の土曜日。図書館の静寂の中、古びた新聞や写真に囲まれた五人は、戦前・戦中の現実と向き合っていた。そこに刻まれた事実は、想像を超える重さを持っていた。

三週間後の土曜日。図書館の一角で、5人は戦前・戦中の資料に囲まれていた。

「先生、この資料、読んでいて辛くなります」

遥が古い新聞記事を手に、震え声で言った。

天野先生がうなずいた。

「辛いだろうね。でも、これが現実に起きたことなんだ」

葵が別の資料を見ながら言った。

「『大逆事件』って、1910年に起きたんですね。明治天皇の暗殺計画に関わったとして、12人が処刑された」

「でも先生」

健太が疑問を口にした。

「この事件、本当に計画があったんですか?」

「いい質問だね。実は、現在の研究では、実際の暗殺計画は存在しなかった可能性が高いとされている。でも当時は、『天皇制に批判的な思想を持つ者』を一掃するために利用された」

怜が資料を指差した。

「つまり、思想を持っているだけで死刑になったということですか?」

「そういうことだ。これが『思想・良心の自由』が全く保障されていなかった時代の現実なんだ」

遥が別の資料を取り上げた。

「治安維持法の犠牲者は、もっとたくさんいるんですね」

「1925年から1945年まで、約7万人が検挙され、そのうち少なくとも1,600人が拷問や獄中で亡くなったとされている」

「1,600人も」

葵が息を呑んだ。

先生は一枚の写真を見せた。古いモノクロの集合写真だった。

「これは、治安維持法で検挙された人たちの写真だ。作家、教師、学生、労働者、農民。普通の人たちばかりだった」

健太が写真を見つめながら言った。

「僕たちと同じような人たちだったんですね」

「そうだよ。彼らも最初は『まさか自分が』と思っていただろう。でも、法律は容赦なく彼らを襲った」

先生は別の資料を開いた。

「小林多喜二という作家がいた。『蟹工船』という小説で、労働者の過酷な状況を描いた。1933年、29歳の時に特高警察に逮捕され、拷問により同日死亡した」

「同日死亡?」

遥が顔を青くした。

「拷問があまりにもひどく、逮捕されたその日のうちに亡くなってしまった。理由は『危険思想の普及』だった」

教室に重い沈黙が流れた。

怜がゆっくりと口を開いた。

「でも、どうしてそんなことが許されたんですか?国民は何も言わなかったんですか?」

「それが一番怖いところなんだ。最初は多くの国民が支持していた」

「支持?」

葵が驚いた。

「『国家の安全のため』『社会の秩序のため』『危険な思想から国を守るため』。こういう理由で、人権制限が正当化された」

先生は当時の新聞を見せた。

「この新聞を見てごらん。『治安維持法により、危険分子を一掃』『国民の安全が守られた』こんな見出しが並んでいる」

健太が新聞を見ながらつぶやいた。

「国民が、人権制限を歓迎していたんですね」

「そうなんだ。そして気がついた時には、もう遅かった」

遥が不安そうに聞いた。

「もし、その時代に97条があったら、何か変わったんでしょうか?」

先生は少し考えてから答えた。

「鋭い指摘だね、遥。確かに97条のような条文があれば、裁判で『人権は人類普遍の価値』と主張できたかもしれない」

「でも」

先生は続けた。

「条文があっても、それを守ろうとする人がいなければ意味がない。当時も大日本帝国憲法には『法律の範囲内で』という条件付きながら、一応の人権規定があった」

「でも守られなかった」

葵がつぶやいた。

「そうだ。なぜなら、多くの人が『国家の安全の方が個人の人権より大切』と思い込まされていたからだ」

怜が質問した。

「じゃあ、97条があっても同じことが起きる可能性があるということですか?」

「可能性はある。でも、97条には重要な違いがある」

先生は黒板に97条の条文を書いた。

「『人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果』この部分が重要なんだ。これは、人権が日本だけのものではなく、世界中の人々の努力で勝ち取られたものだと宣言している」

「つまり?」

健太が首をかしげた。

「つまり、『日本の事情』だけで簡単に制限できないということを示している。戦前は『日本の国体』『日本の伝統』を理由に人権が制限された。でも97条は、人権の根拠を『日本の外』に置いているんだ」

遥が理解した表情を見せた。

「国際的な基準があるから、『日本だけの都合』では制限できないということですね」

「その通り。だからこそ、97条を削除しようとする動きは危険なんだ。人権を『日本国内の問題』に矮小化してしまう可能性がある」

葵が資料を見ながら言った。

「戦後、人権を取り戻すのにどのくらい時間がかかったんですか?」

「完全に回復するまで、何十年もかかった。そして今でも、完全に回復したとは言えない部分がある」

「例えば?」

怜が聞いた。

「例えば、元特高警察の関係者が戦後も要職に就き続けた。治安維持法の犠牲者への完全な名誉回復は、1996年まで行われなかった」

「1996年?」

健太が驚いた。

「つい最近じゃないですか」

「そうだよ。つまり、戦争が終わってから50年以上たって、ようやく正式な謝罪と名誉回復が行われたんだ」

教室に再び重い沈黙が流れた。

遥が涙ぐみながら言った。

「もしその時代に私たちがいたら、止められたのでしょうか」

先生は優しく答えた。

「分からない。でも、実際に勇気を出して行動した人たちがいた」

「例えば?」

葵が身を乗り出した。

「美濃部達吉という憲法学者は、天皇機関説を唱えたことで弾圧を受けても、学問の自由を主張し続けた」

「河上肇という経済学者は、マルクス主義の研究をしたことで投獄されても、真理の探求をやめなかった」

「竹内好という中国文学者は、戦争に反対し続け、多くの苦難を受けた」

健太が感動した表情を見せた。

「そういう人たちがいたから、戦後の人権回復があったんですね」

「そうだ。そして今度は、君たちの番なんだよ」

4人は顔を見合わせた。

「私たちの番?」

遥が小さな声で聞いた。

「歴史は繰り返す。でも、繰り返させるかどうかは、今を生きる人たちの選択にかかっている」

「先生」

葵が決意を込めて言った。

「私たち、絶対に同じ過ちを繰り返させません」

「僕たちが、97条の意味をもっとたくさんの人に伝えます」

健太が続けた。

「私も、人権の大切さを友達に話してみます」

遥が涙を拭いながら言った。

「僕は、まず自分が人を大切にすることから始めます」

怜も決意を表明した。

天野先生は満足そうにうなずいた。

「君たちのような若い人がいる限り、希望はある。でも、忘れないでほしい。人権を守るのは、一日や二日でできることじゃない。毎日、毎日の積み重ねなんだ」

夕日が図書館の窓を照らす中、5人は静かに誓いを立てた。過去の犠牲者たちの無念を無駄にしないために。そして、未来の人たちに同じ苦しみを味わわせないために。

憲法97条という一つの条文に込められた、無数の人々の願いと努力を、心に刻みながら。

次回予告:第6章「私たちにできること」

ついに物語は最終章へ。歴史の教訓を学んだ生徒たちは、具体的な行動を起こし始める。学校新聞への投稿、友人との対話、SNSでの発信。そして、一人ひとりの小さな行動が、大きな変化の波を生み出していく。

「先生、私たち、本当に社会を変えられるんでしょうか?」

「葵、君たちはもう変え始めている。一歩ずつ、確実にね」

人権を守るとは何か。民主主義を支えるとは何か。そして、憲法97条の真の意味とは。すべての答えが、この最終章で明らかになる。

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