第4章:もし97条が消えたら?
二週間後、天野先生の研究室。壁一面に積み上げられた資料の山が、これから語られる「未来のシミュレーション」の重さを物語っていた。
二週間後、天野先生の研究室。壁には世界各国の憲法や人権に関する資料が山積みになっていた。
「先生、お忙しい中すみません」
葵が申し訳なさそうに言った。
「いや、君たちが来るのを待っていたよ。実は、君たちに見せたい資料があるんだ」
先生は机の上に、いくつかの新聞記事と統計資料を広げた。
「これは、実際に基本的人権の保障が弱められた国々で起きた出来事だ」
遥が恐る恐る尋ねた。
「どんなことが起きたんですか?」
「まずは、ハンガリーの例を見てみよう。2010年以降、オルバン政権が憲法を改正し、『国家の安全』を理由に報道の自由を大幅に制限した」
健太が資料を見ながら言った。
「具体的にはどんな制限を?」
「独立系メディアへの資金提供を禁止し、政府批判の記事を書いた記者を『国家機密漏洩』で起訴するようになった。結果として、報道の自由度ランキングで、ハンガリーは急激に順位を下げている」
怜が首をかしげた。
「でも、それはハンガリーの話ですよね。日本では起きないんじゃ」
先生は別の資料を取り出した。
「実は、日本でも似たような兆候が見られるんだ。2013年に成立した特定秘密保護法、2017年の共謀罪法。これらは、使い方によっては表現の自由や集会の自由を制限できる法律だ」
「でも、まだそんなひどいことは起きてないですよね」
葵が言った。
「そう、今はまだね。でも、もし97条がなくなったらどうなるか、シミュレーションしてみよう」
先生は黒板に「2030年の日本」と書いた。
「仮に97条が削除され、緊急事態条項が新設されたとする。そして、何らかの危機が起きた時」
「どんな危機ですか?」
遥が不安そうに聞いた。
「自然災害、感染症の大流行、テロ、戦争。理由は何でもいい。政府が『緊急事態』を宣言した瞬間、多くの基本的人権が一時停止される可能性がある」
先生は黒板に書き続けた。
「第一段階:報道統制。『混乱を防ぐため』として、政府批判の報道が禁止される」
「第二段階:集会禁止。『感染拡大防止』や『治安維持』を理由に、デモや集会が全面禁止される」
「第三段階:通信監視。『テロ防止』を名目に、SNSやメールの内容が全て政府に監視される」
健太が青ざめた。
「それって、まるでディストピア小説の世界じゃないですか」
「現実は小説よりも恐ろしいことがある」
先生が静かに答えた。
「実際に、コロナ禍の時、一部の国では似たようなことが起きた」
「具体的には?」
怜が身を乗り出した。
「中国では、ウイルスに関する情報を発信した医師が『デマの拡散』で逮捕された。フィリピンでは、政府の対応を批判した記者が次々と起訴された」
遥が震え声で言った。
「日本でも、そうなっちゃうんですか?」
「今の憲法があるうちは、そこまで極端なことは起きにくい。でも97条がなくなると、『人権は絶対に守るべきもの』という前提が弱くなる」
葵が質問した。
「具体的に、どう変わるんですか?」
先生は新しい図を黒板に描いた。
「今までの裁判所の判断:『人権は人類普遍の価値だから、制限は必要最小限に』」
「97条削除後の判断:『人権も大切だが、国家の安全や社会秩序の方がより重要』」
「この違いが積み重なると、社会全体が変わってしまう」
健太が具体例を求めた。
「例えば、僕たちの生活では?」
「君が将来、ジャーナリストになったとする。政府の汚職を暴く記事を書こうとした時、今なら『報道の自由』で守られる。でも97条がなくなった後では、『国家機密の漏洩』で逮捕される可能性が高くなる」
「遥が労働組合のリーダーになって、労働条件の改善を求めたとする。今なら『団結権』で守られるが、削除後は『社会秩序の乱れ』として弾圧される可能性がある」
遥がぞっとした表情を見せた。
「そんなのひどすぎます」
「怜が芸術家になって、社会を風刺する作品を作ったとする。今なら『表現の自由』で守られるが、削除後は『公序良俗に反する』として規制される可能性がある」
怜が反論した。
「でも、それは極端すぎませんか?」
「確かに、明日いきなりそうなるわけじゃない。でも、歴史を見れば、人権の制限は常に『小さな変化』から始まっている」
先生は別の資料を示した。
「ナチス・ドイツの場合も、最初は『共産主義者だけ』を対象にした法律から始まった。それが社会主義者、リベラル派、そして最終的にはユダヤ人にまで拡大された」
「日本の治安維持法も、最初は『暴力革命を企てる者だけ』が対象だった。それが『社会主義的思想を持つ者』、『政府を批判する者』にまで拡大された」
教室に重い沈黙が流れた。
葵がゆっくりと口を開いた。
「先生、私たちにできることはあるんですか?」
「もちろんある。まずは、多くの人に97条の大切さを知ってもらうこと」
「でも、どうやって?」
健太が尋ねた。
「君たちが今やっているように、身近な人と話し合うことから始めればいい。一人ひとりの理解が広がれば、社会を変える力になる」
遥が決意を込めて言った。
「私、友達や家族に話してみます」
「僕も、部活の仲間に伝えてみます」
健太が続いた。
「私は、SNSで発信してみようかな」
葵が提案した。
怜も最後に言った。
「僕は、まず自分の行動を変えてみます。他人をもっと尊重するように」
先生は満足そうにうなずいた。
「それぞれ素晴らしい決意だね。でも、忘れないでほしいことがある」
「何ですか?」
4人が一斉に聞いた。
「人権を守るのは、特別な人の仕事じゃない。君たち一人ひとりの日常的な選択が、社会全体を決めているんだ」
「投票に行く、困っている人を助ける、差別をしない、真実を伝える。そういう小さな行動が、97条の精神を生かすことになる」
夕日が研究室の窓を照らす中、5人は静かに話し合いを続けた。憲法97条という一つの条文が、どれほど多くの人の未来を左右する可能性があるのかを、深く理解しながら。
「先生、最後に一つだけ聞かせてください」
葵が真剣な表情で言った。
「何だい?」
「もし97条が削除されてしまったら、もう取り返しがつかないんですか?」
先生は少し考えてから答えた。
「簡単じゃない。一度失った人権を取り戻すのは、何十年もかかることがある。だからこそ、今、行動することが大切なんだ」
「でも、希望はある。歴史を見れば、困難な状況でも人々の努力で人権を守り抜いた例がたくさんある。君たちのような若い人が立ち上がることが、その希望の源になるんだよ」
4人の生徒は、重い責任と同時に、大きな希望を胸に抱いていた。自分たちにも、未来を変える力があることを信じて。
次回予告:第5章「歴史からの警告」
戦前・戦中の具体的事件を通じて、人権がいかに簡単に奪われるかを学ぶ生徒たち。大逆事件、治安維持法による弾圧、そして戦後の人権回復への長い道のり。過去の教訓は、現代に何を伝えているのか。
「先生、もしその時代に97条があったら」
「遥、それは鋭い指摘だ。でも、条文があっても、それを守ろうとする人がいなければ意味がないんだよ」
歴史の証言者たちが語る、人権の重みと脆さ。そして、未来への責任とは。




