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第2章:基本的人権とは何か

翌日の放課後、昨日の会話が頭から離れない四人は、再び天野先生のもとに集まった。重い資料の束が机に置かれた瞬間、教室の空気は一気に張り詰めた。

翌日の放課後、昨日の議論が気になって仕方がなかった4人の生徒たちは、再び天野先生の元を訪れた。


「先生、昨日の続きを聞かせてください」葵が真っ先に口を開いた。


「治安維持法って、具体的にどんなことが起きたんですか?」遥の声には不安が混じっていた。


天野先生は教卓の上に、分厚いファイルを置いた。


「君たちが聞きたがっていたから、資料を用意してきたよ。でも、これから話すことは決して気持ちの良いものじゃない。それでも聞く覚悟はある?」


4人は顔を見合わせ、そろってうなずいた。


「まず、基本的人権って何かから始めよう」先生は黒板に「基本的人権」と書いた。「健太、君はどう思う?」


「えーっと、憲法に書いてある、国民が持つ権利のことですよね」


「そうだね。でも、それだけじゃない。君たちが今、自由に話したり、好きなことを学んだり、将来の職業を選んだりできる。これら全部が基本的人権なんだ」


怜が手を上げた。「でも、それって当たり前のことじゃないですか?」


「当たり前?」先生は苦笑いを浮かべた。「じゃあ、昭和15年の日本で、同じことが言えたかな」


先生はファイルを開いた。


「1940年、つまり昭和15年。作家の中野重治という人が、たった一つの短編小説を書いたことで逮捕された」


「小説で逮捕?」葵が驚いた。


「『村の家』という作品だった。農村の貧困を描いただけの小説。でも治安維持法違反として検挙された。理由は『社会主義的思想を広める恐れがある』というものだった」


遥がぞっとした表情を見せた。「小説を書いただけで?」


「そう。さらにひどい例もある。1933年、京都帝国大学の滝川幸辰教授が、刑法学の講義で『個人の尊厳』について教えただけで、大学から追放された」


「大学の先生が、勉強を教えただけで?」健太が信じられないという顔をした。


「滝川事件と呼ばれているね。これが『思想・良心の自由』や『学問の自由』が奪われた時代の現実だ」


先生は別の資料を取り出した。


「これは最高裁判所が戦後、憲法の重要性を確認した判例の一覧だ。表現の自由を守った『徳島市公安条例事件』、平等権を確立した『尊属殺重罰規定違憲判決』、人身の自由を守った『白鳥決定』。これらすべてが、97条が示す『人類の努力の成果』を実現したものなんだ」


怜が資料を見ながら言った。「つまり、戦後の裁判所は、戦前の反省に立って人権を守ってきたということですか」


「その通り。でも怜、もし97条がなくなったらどうなると思う?」


「えーっと」怜が考え込んだ。「11条があるから大丈夫なんじゃ」


先生は首を振った。「実は、97条削除を推進する人たちは、まさにその論理を使っているんだ。『11条と重複しているから削除しても問題ない』って」


葵が身を乗り出した。「でも、昨日先生が言った『歴史書』としての意味がなくなりますよね」


「そう。でも、もっと深刻な問題がある」


先生は新しい資料を黒板に貼った。


「自民党の憲法改正草案では、97条を削除する一方で、『公の秩序』という概念を強化している。つまり、個人の人権よりも『社会の秩序』を重視する方向に変えようとしているんだ」


遥が震え声で言った。「それって、昔の治安維持法と同じじゃないですか」


「直接的には違う。でも、人権の『根拠』を弱めることで、将来的に制限しやすくする土台を作る可能性がある」


健太が質問した。「具体的には、どんなことが起きるんですか?」


「例えば、ナチス・ドイツの場合を見てみよう」先生は世界地図を指した。「1933年、ヒトラーが権力を握った時、最初から憲法を廃止したわけじゃない。少しずつ、『緊急事態』や『国家の安全』を理由に基本的人権を制限していった」


「具体的にはどんな風に?」葵が尋ねた。


「まず『緊急事態法』で集会の自由を制限した。次に『国家機密法』で表現の自由を奪った。そして最後に、ユダヤ人から財産権、そして生存権まで奪ったんだ」


教室に重い沈黙が流れた。


「でも先生」怜が反論した。「それは極端な例ですよね。日本は民主主義国家だから」


「確かにそうだ。でも考えてみて。民主主義だったドイツで起きたことなんだよ」


先生は振り返って、生徒たちを見つめた。


「人権っていうのは、一度失うと取り戻すのに何十年もかかる。だからこそ『予防』が大切なんだ。97条は、その予防薬みたいなものなんだよ」


遥が小さな声で言った。「もし97条がなくなって、また昔みたいなことが起きたら」


「すぐには起きない。でも、じわじわと『個人よりも国家』という考え方が浸透していく可能性がある」


健太がつぶやいた。「僕たち、こんなに大切なことを知らなかった」


「それは君たちのせいじゃない」先生が優しく言った。「でも、今知ることができた。そして、これから君たちがどう行動するかが大切なんだ」


葵が決意を込めて言った。「私たち、もっと勉強したいです。97条がどれだけ大切か、みんなに伝えたい」


「でも、どうやって?」遥が不安そうに聞いた。


「まずは、知ることから始めよう」先生が答えた。「次回は、現在進行形で起きている人権問題について話そう。君たちの身近にも、実は人権に関わる問題がたくさんあるんだ」


4人の生徒は、重い気持ちながらも、確実に何かが変わり始めていることを感じていた。憲法97条という一つの条文が、どれほど多くの人々の犠牲と努力の上に成り立っているのか。そして、それを守ることの意味を。


---



次回予告:第3章「97条の特別な意味」


現代日本で起きている人権問題と、97条削除がもたらす具体的リスク。労働問題、プライバシー侵害、そして表現の自由への規制強化。生徒たちは、人権が「遠い話」ではなく、自分たちの生活に直結していることを知る。


「先生、これって私たちにも関係することなんですね」 「そう、葵。君たちの未来に、直接関わってくる問題なんだ」


果たして現代の人権問題とは何か。そして私たち一人ひとりにできることは何なのか。議論はいよいよ、現実的で切実な段階へと進んでいく。

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